触れられる側
地下施設の最深部は、これまでのどの空間よりも整っていた。壁は均一な白で覆われ、継ぎ目はほとんど見えない。床は光を反射し、足音は吸収されるように消える。温度も湿度も一定に保たれ、外界の影響を完全に遮断している。
その中心に、透明な容器があった。
円筒形のそれは、内部に淡い液体を満たしている。完全な水ではない。わずかに粘度があり、光の反射が遅れる。その中に、小さな影が浮かんでいた。
ベビーパピニーだった。
体はゆっくりと揺れ、呼吸のようなリズムを刻んでいる。目は閉じているが、完全に眠っているわけではない。時折、指先がわずかに動く。その動きが、かろうじて「生きている」とわかる唯一の証だった。
「反応、安定しています」
白衣の男がモニターを見ながら言う。
「外部刺激に対する抵抗は低い。分離個体としては理想的です」
別の男が頷く。
「本体からの独立性は?」
「現在のところ、干渉は確認されていません。ただし――」
言葉が一瞬止まる。
「完全な切断ではない可能性があります」
「曖昧だな」
低い声が返る。
「つまり、繋がっているのか、いないのか」
「……断定はできません」
モニターには波形が表示されている。規則性のない揺らぎ。それが時折、一定のリズムに近づく。
「だが、応答はある」
男はそう言い切る。
「刺激を与えれば、必ず変化する」
その言葉と同時に、装置の一部が動く。容器の内部に、微弱な光が走る。直接的な刺激ではない。ただの確認。
それでも、ベビーパピニーの体がわずかに揺れる。
「……反応」
「記録しろ」
淡々としたやり取りが続く。
誰も、その存在を“子ども”として見ていない。
ただの対象。
ただの材料。
それだけだった。
そのとき、ベビーパピニーの指が動く。
ゆっくりと。
何かを掴むように。
だが、そこには何もない。
「……?」
一人の男がモニターを覗き込む。
「今の動き、記録されているか」
「はい。無意識の運動と思われます」
「……いや」
男は首を振る。
「違うな」
わずかな沈黙。
「これは、“探している”動きだ」
その言葉に、空気がほんの少しだけ変わる。
「……何を?」
誰かが問う。
答えは出ない。
だが、全員が同じものを想像していた。
その頃、地上では音が増えていた。破壊音、衝突音、そして風を裂くような圧。空気が震え、地面がわずかに揺れる。
少女はその中心に立っていた。
呼吸は荒い。
視界は揺れている。
それでも、前を見ている。
「……返せ」
声は低い。
「返せって言ってんだろ」
粒が周囲を取り巻く。数はさらに増えている。形も安定し、以前よりもまとまりを持っている。だが、それでも完全ではない。
対して、人間側の装置は正確だった。
光が走る。
粒が削れる。
確実に。
「……くそ」
少女の歯が鳴る。
「消すなよ」
一歩、踏み出す。
怖い。
近づくのが怖い。
触れられるのが怖い。
それでも止まらない。
「……あいつ、いるんだろ」
声が震える。
「中に」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、はっきりとした確信がある。
「……泣いてんだろ」
その想像が、胸を締め付ける。
「……一人で」
少女の呼吸が崩れる。
「……やだ」
小さく漏れる。
「それ、やだ」
足が止まりそうになる。
怖さが戻る。
体が拒否する。
それでも――
ベビーパピニーの手を思い出す。
あの、掴んで離さなかった感触。
「……俺が行く」
言葉にする。
「俺が、行く」
それは決意だった。
少女の周囲の粒が変わる。揺れ方が変わる。これまでよりも密度が増し、重さを持つ。
空気が歪む。
地面が軋む。
「……どけ」
少女が言う。
「邪魔すんな」
その瞬間、粒が一斉に広がる。押し出すように、前へ。
人間側が一瞬、動きを止める。
「……出力上昇」
無線が走る。
「対象の変化を確認」
少女は止まらない。
進む。
一歩ずつ。
確実に。
「……返せ」
その言葉は、今までで一番静かだった。
だが、一番強かった。
地下では、ベビーパピニーの指がもう一度動く。
今度は、はっきりと。
何かを掴むように。
そして――
わずかに、笑う。
誰も、それに気づかない。
だが、確かに繋がっているものがあった。




