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役立たずの道案内人、追放されたので誰も行けない場所を目指します  作者: ナナメ横


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2/4

百年前の迷子

 百年前に消えた村。


 その村に続く道が、俺には見えている。


 しかも、十年間動かなかった母さんの方位磁針まで、突然動き始めた。


 こんな偶然があるだろうか。


「ルカお兄ちゃん、早く行こう!」


 隣でニナが俺の手を引っ張った。


 さっきまで泣いていたのが嘘みたいな笑顔だ。


 その顔を見ていると、今すぐ森へ飛び込みたくなる。


 けれど、俺は足を止めた。


「ニナ。出発する前に、一つだけ寄り道してもいいかな?」


「……寄り道?」


 少女の顔が曇る。


「おうち、帰れないの?」


「帰るための寄り道だよ」


 俺は地図を取り出した。


「誰も行けなくなった場所には、理由がある。森に魔物がいるかもしれないし、道が途中で壊れているかもしれない」


「……うん」


「だから、昔の地図を調べたいんだ。安全に帰るためにね」


 ニナは少し考えた。


 そして、小さな声で尋ねてきた。


「……ルカお兄ちゃん、いなくならない?」


「え?」


「さっきのおじいちゃん、村なんてないって言ったでしょ。だから……」


 ニナの指が、俺の小指に絡んだ。


「ルカお兄ちゃんも、やっぱりないって言って、どこかに行っちゃうのかなって」


 その言葉に、胸が痛んだ。


 昨日までの俺なら、きっと気づかなかっただろう。


 この子が怖がっているのは、森の魔物だけじゃない。


 自分の言葉を誰にも信じてもらえなくなることだ。


「いなくならないよ」


 俺は目線を合わせて答えた。


「でも、一つだけ正直に言わせて」


「……なあに?」


「俺にも、村にたどり着けるかは分からない」


 ニナの表情が強張った。


「だけど、分からないからって諦めたくないんだ。道が本当にあるなら、ちゃんと確かめたい」


 しばらくして、ニナがこくんとうなずいた。


「……分かった」


「ありがとう」


「でも、早くしてね。お母さん、心配してるから」


「うん。約束する」


 俺は少女の手を握り直した。


 今の俺にできるのは、根拠のない安心を与えることじゃない。


 帰れる可能性を、一つずつ確かめていくことだ。


     ◇


 王立地図院。


 王都アレストの北区にある、古い石造りの建物だ。


 国内の街道、河川、山岳地帯の記録を管理している。


 冒険者や商人には欠かせない場所だけれど、わざわざ古い地図を読みに来る人間は少ない。


 俺は昔から、ここが好きだった。


 建物に入ると、紙と革表紙の匂いがした。


「わあ……!」


 ニナが天井を見上げる。


 高い書棚には、分厚い本や地図筒がぎっしり並んでいた。


「お城みたい!」


「本のお城、かな」


「全部、道の本?」


「道以外の本もあるよ。山とか、村とか、昔の国とか」


「じゃあ、エルダ村の本もある?」


「探してみよう」


 受付へ向かうと、丸眼鏡の老人が顔を上げた。


「おや、ルカじゃないか」


「こんにちは、ロイさん」


 地図院の資料管理人、ロイさん。


 俺が冒険者になったばかりの頃、地図の読み方を教えてくれた人だ。


「今日はまた、妙な道でも見つけたのかね?」


「……どうして分かるんですか?」


「お前さんが古地図を調べに来るときは、だいたいそうだからな」


 ロイさんは愉快そうに笑った。


 けれど、俺が村の名前を告げた瞬間、その笑顔が消えた。


「……エルダ村を?」


「はい」


「なぜ、そんな名前を?」


 俺はニナを紹介し、事情を説明した。


 今朝までエルダ村にいたこと。


 白い動物を追いかけて森に迷い込んだこと。


 そして、俺には村へ続く道が見えたこと。


 ロイさんは最後まで黙って聞いていた。


「……なるほど」


 やがて、静かに立ち上がる。


「二人とも、こちらへ来なさい」


     ◇


 案内されたのは、地図院の地下資料室だった。


 古い油灯の明かりが、壁一面の書棚を照らしている。


 ロイさんは大きな地図筒を一つ取り出した。


「これは、百十二年前に作られた王都北部の地図じゃ」


 机に広げられた羊皮紙には、今とは少し違う街道が描かれていた。


 王都から北へ伸びる道。


 広い森。


 その奥にある、小さな村。


『エルダ村』


 俺は、思わず息を呑んだ。


「あった……!」


「うん!」


 ニナが身を乗り出す。


「これ! ここが私のおうち!」


 少女が指さしたのは、村の西側に描かれた小さな家だった。


「ここにリンゴの木があるの! それで、こっちにパン屋さん!」


 ロイさんが目を細めた。


「……村のことを、よく知っておるようじゃな」


「だって、ずっと住んでるもん!」


 ニナは胸を張った。


 ロイさんは返事をせず、別の書物を取り出した。


「では、お嬢ちゃん。一つ聞いてもいいかな」


「なあに?」


「エルダ村には、鐘楼《しょうろう》があったそうじゃな?」


「うん!」


「その鐘には、何の模様が描かれておった?」


「麦の穂《ほ》!」


 ニナは即答した。


「四本あるんだよ!」


 ロイさんの手が止まった。


「……四本?」


「うん。前から見たら三本だけど、後ろにもう一本あるの」


「なぜ、それを知っておる?」


「おじいちゃんに教えてもらったの!」


 ロイさんは慌てて本のページをめくった。


 古い紙を何枚も繰り、あるところで指を止める。


「……そんな馬鹿な」


「ロイさん?」


 俺が声をかけると、老人は本をこちらへ向けた。


 そこには鐘の修理記録が記されていた。


『鐘楼修復の際、裏面に第四の麦穂を確認』


「……本当だ」


 俺はニナを見る。


 少女は得意そうに笑っていた。


「ほらね!」


 けれどロイさんは、笑っていなかった。


「この記録は百年前のものじゃ。鐘楼の修理を担当した職人が残した、ただの覚え書きにすぎん」


「……つまり?」


「一般に知られるような話ではない。まして、この子の年齢で知っているのは……」


 老人は言葉を切った。


 地下室が静まり返る。


 地図に載っていたから、村が実在したのは確かだ。


 けれどニナが、その村の住人だという証拠にはならない。


 そう思っていた。


 今までは。


「ロイさん」


「……何じゃ?」


「もう少し、詳しく聞かせてください。エルダ村は、どうして消えたんですか?」


 老人はゆっくりと椅子に腰を下ろした。


「正確なことは、今でも分かっておらん」


 そう前置きして、古い調査記録を開く。


「百年前の秋、エルダ村への物資を運んでいた商隊が、森の途中で道を見失った」


「道を?」


「ああ。昨日まで通れた石畳が、突然なくなったそうじゃ」


 俺は、母さんの方位磁針を握りしめた。


「何度森を探しても、村へたどり着けなかった。地図に記された場所には、木々と岩ばかりが広がっていたという」


「村人は……?」


「一人も見つからなかった」


 ロイさんは静かに答えた。


「王国は何度も調査隊を送った。しかし成果はなく、ついには村の捜索を打ち切った」


 百年。


 それほど長い間、誰も村へ帰れなかった。


 もし本当に、村が今も存在しているなら。


 そこに暮らす人々は、どうなっているんだろう。


「……ちがうよ」


 突然、ニナが呟いた。


 振り返ると、少女は唇を震わせていた。


「おうち、なくなってないもん」


「ニナ……」


「お母さんも、お父さんも、いるもん。昨日だって、みんなでご飯食べたもん」


 握られた手に、力がこもる。


「朝になったらね、お父さんが新しい靴を買ってくれるって約束したの」


 俺は、ニナの足元を見た。


 片方しかない、小さな靴。


 泥で汚れた足。


「だから……」


 声が震える。


「だから、ちゃんと帰らないと」


 俺は何も言えなかった。


 百年前の村だろうと、何だろうと。


 この子にとっては、昨日まで普通に暮らしていた家なのだ。


 今すぐ帰って、いつもの食卓に座りたい。


 それだけなんだ。


「……大丈夫」


 俺はニナの頭に手を置いた。


「まだ、帰れないって決まったわけじゃないよ」


 するとニナは、こくりとうなずいた。


 ロイさんが俺たちを見つめていた。


 その表情は、さっきより少し柔らかかった。


     ◇


「……ところで、その木札は何じゃ?」


 ロイさんがニナの胸元を指さした。


 細い紐で下げられた、小さな木の札。


 表には、リンゴの木と鐘を組み合わせた紋章《もんしょう》が彫られている。


「これ?」


 ニナが木札を外した。


「お父さんにもらったの!」


「見せてもらってもよいかな?」


「うん!」


 ロイさんは札を受け取り、古い資料と見比べた。


「……エルダ村の通行札じゃ」


「通行札?」


「村の外へ出るときに持つ身分証のようなものじゃな。昔はこういう札を使う村も多かった」


 老人の指が、紋章の上で止まる。


「彫り方まで一致しておる」


 俺は身を乗り出した。


「じゃあ、やっぱりニナは……」


「……いや」


 ロイさんが首を振った。


「もう一つ、奇妙なことがある」


「奇妙なこと?」


「この木札じゃ」


 ロイさんは札を裏返した。


「百年前のものとは思えんほど、新しい」


 言われてみれば確かにそうだった。


 木札には多少の泥がついている。


 けれど、木はほとんど傷んでいない。


 紐も新しく、彫られた文字の溝もくっきりしていた。


「最近作られたもののように見える」


「だって、最近だもん」


 ニナが不思議そうに言った。


「……え?」


「昨日、お父さんにもらったんだよ」


 ロイさんの手が止まった。


 俺も、言葉を失った。


 昨日。


 また、その言葉だ。


 村は百年前に消えた。


 なのにニナは、昨日までそこで暮らしていたという。


 百年前の記録にしかない鐘の秘密を知り、木札は作られたばかりのように新しい。


 それなら。


 もしかして。


 村の中では、百年も経っていないのか?


 そんな考えが頭をよぎった。


 けれど、確かめる方法はまだない。


「……ルカ」


 ロイさんが、低い声で呼んだ。


「本当に、その道が見えるのか?」


「はい」


「王都の北、灰霧《はいぎり》の森の中に?」


「そうです。青白く光る石畳が続いていました」


 老人の顔色が変わった。


「……青白い、石畳」


「知っているんですか?」


「百年前の調査記録にも、一度だけその記述がある」


 胸が高鳴る。


「本当ですか?」


「ああ。第七調査隊の案内人が、霧の奥に光る石畳を見たという」


「その人は、村まで行けたんですか?」


 ロイさんは、答えなかった。


 代わりに、古い記録の最後の一行を指さした。


『案内人一名、帰還せず』


 背筋が冷たくなった。


「……戻ってこなかった?」


「そうじゃ」


 ロイさんは、静かに本を閉じた。


「どこへ行ったのかも、分かっておらん」


 俺はしばらく黙っていた。


 道が見えることと、そこを安全に歩けることは違う。


 昨日、岩狼から逃げたときだって、トッドは道を見失いかけた。


 俺が少し間違えていたら、みんな谷底に落ちていたはずだ。


 今度は、ニナが一緒にいる。


 俺の判断一つで、この子まで危険にさらすかもしれない。


「……やっぱり」


 小さな声がした。


 ニナだった。


「帰れないのかな……」


 少女の目に、涙が浮かぶ。


 俺はすぐには答えられなかった。


 帰れると断言するのは簡単だ。


 けれど、その約束を守れなかったら。


 ……いや。


 違う。


 俺が怖いのは、約束を破ることだけじゃない。


 誰かに期待されて、結局役に立てなかったときのことだ。


 昨日、パーティーを追放されたばかりなのに。


 また同じ思いをするかもしれない。


 それが怖い。


 そんな自分が、少し情けなかった。


 俺は息を吸った。


「ニナ」


「……なあに?」


「道が危なくなったら、一緒に引き返そう」


「……うん」


「もし今日たどり着けなくても、別の方法を探そう。俺一人で無理なら、助けてくれる人を探す」


 少女が顔を上げた。


「……あきらめない?」


「うん」


 俺は、まっすぐに答えた。


「約束する。君を一人で困らせたままにはしない」


 ニナは、しばらく俺を見つめていた。


 そして、ようやく小さく笑った。


「……ありがとう」


 その一言が、胸の奥に染み込んだ。


 今まで俺は、強い仲間たちについていくために必死だった。


 でも、今日は違う。


 俺自身が、この子を助けたいと思っている。


 誰かに命令されたからじゃない。


 役に立つと認められたいからでもない。


 俺が、そうしたいのだ。


 ロイさんが、小さく息を吐いた。


「……まったく。お前さんは、昔からそういうところがある」


「え?」


「危ない場所ほど、放っておけんのじゃろう」


 老人は立ち上がり、棚から一枚の地図を取り出した。


「持っていきなさい」


「これは……?」


「百年前のエルダ村周辺図の写しじゃ。古い橋や沢の位置も記してある」


「でも、貴重なものじゃ……」


「写しだと言ったじゃろう」


 ロイさんは少し笑った。


「ただし、忘れるなよ」


 その表情が、真剣になる。


「道案内人の仕事は、目的地へ連れていくことだけではない」


「……はい」


「無事に帰してやることも、仕事のうちじゃ」


 その言葉に、母さんの声が重なった気がした。


『道はね、人と人をつなぐものでもあるのよ』


 俺は地図を大切に鞄へしまった。


「……ありがとうございます」


 ロイさんに頭を下げる。


「必ず、帰ってきます」


 ニナも隣で、ぺこりと頭を下げた。


「ありがとう、おじいちゃん!」


 ロイさんは照れくさそうに笑った。


「うむ。気をつけてな」


     ◇


 王都の北門を出た頃には、空が少し曇っていた。


 灰霧の森までは、徒歩で一時間ほどだ。


 ニナは最初こそ元気よく歩いていたけれど、途中から少しずつ口数が減った。


 片方の靴をなくした足が、痛むのだろう。


「ニナ、ちょっと休もうか」


「……大丈夫」


「本当に?」


「うん」


 そう言いながら、少女は小さく足を引きずっている。


 俺は道端の石に腰を下ろし、鞄を開いた。


 予備の布を取り出す。


「ちょっと足、見せて」


「……え?」


「怪我してるだろ?」


 ニナは困ったように笑った。


「……ちょっとだけ」


 足の裏には、小さな傷がいくつもできていた。


 俺は水で泥を落とし、布を巻いてやった。


「痛かったら、ちゃんと言っていいんだよ」


「……だって」


「ん?」


「ルカお兄ちゃん、急いでくれてるから」


 俺は手を止めた。


 ニナはうつむいたまま続ける。


「私のために、いろいろしてくれてるでしょ。だから、わがまま言ったらいけないかなって」


 その言葉を聞いて、何も言えなくなった。


 つい昨日までの俺も、同じようなことを考えていた。


 戦えない自分が迷惑をかけないように。


 役に立たないと思われないように。


 つらくても、平気な顔をしていた。


 この子まで、そんな思いをする必要はない。


「ニナ」


「……なあに?」


「疲れたら休んでいいんだよ」


 俺は笑った。


「道は逃げないから」


 少し考えてから、付け加える。


「……たぶん」


「たぶん?」


「ごめん。今から行く道は、たまに消えるんだ」


 ニナが目を丸くした。


 そして。


「ふふっ!」


 小さく笑った。


「ルカお兄ちゃん、変なの!」


「よく言われるよ」


 俺も笑った。


 しばらく休んだあと、俺たちは再び歩き始めた。


 森が近づくにつれて、空気が冷たくなっていく。


 木々の間には、薄い霧が漂っていた。


 鳥の声が少ない。


 風が吹いているのに、森の奥からは葉の揺れる音がほとんど聞こえなかった。


「……ここだ」


 俺は足を止めた。


 灰霧の森の入り口。


 普通の街道は、ここで東西に分かれている。


 けれど、俺にはもう一本の道が見えていた。


 古びた石畳。


 青白い光。


 霧の奥へと伸びていく、不思議な道。


 俺はロイさんにもらった地図を広げた。


 百年前の地図。


 その中央に描かれた、エルダ村への街道。


 見比べる。


 森の入り口。


 大きな岩。


 道の脇にある、曲がった木。


 すべてが一致していた。


「……間違いない」


 思わず呟く。


 ニナが、俺の袖を引いた。


「ルカお兄ちゃん!」


「うん?」


「あの道!」


 少女が、霧の奥を指さす。


「私が歩いてきた道だよ!」


 胸が高鳴った。


 やっぱり、そうなんだ。


 ニナは本当に、あの道から来たんだ。


 俺は方位磁針を取り出した。


 針は、今も森の奥を指している。


 その先には、何があるんだろう。


 百年間、誰もたどり着けなかった村。


 母さんが残した方位磁針。


 そして、俺にしか見えない道。


 すべてが、ここにつながっている。


「……よし」


 俺は地図をしまった。


「ニナ。行く前に、もう一度だけ確認するよ」


「うん!」


「絶対に俺から離れないこと。足元に道が見えなくなったら、すぐ止まること。何か怖いものを見たら、隠さず教えること」


 ニナは真剣な顔でうなずいた。


「分かった!」


「よし。じゃあ――」


 そのときだった。


 かさり。


 森の奥で、草が揺れた。


「……?」


 俺は顔を上げた。


 もう一度。


 かさり。


 何かが、こちらへ近づいている。


「……ニナ」


「なあに?」


「俺の後ろに隠れて」


「……え?」


「いいから」


 少女が、ぎゅっと俺の服をつかんだ。


 霧の向こうから、低い唸り声が聞こえた。


 グルルルル……。


 獣だ。


 けれど、普通の狼とは声が違う。


 もっと低く、湿った音。


 俺は腰の短剣を抜いた。


 刃が小さく震えている。


 ……いや。


 震えているのは、俺の手だ。


 戦闘適性E。


 岩狼一匹すら倒せない、役立たずの道案内人。


 そんな俺が、正体も分からない魔物と向き合っている。


 逃げるべきだ。


 そう頭では分かっていた。


 けれど、背後にはニナがいる。


 この子を置いて逃げるわけにはいかない。


 霧が、ゆっくりと揺れた。


 最初に見えたのは、二つの赤い光。


 次に、黒い前足。


 そして。


 全身をひび割れた黒い外皮に覆われた、狼に似た魔物が姿を現した。


「……なんだ、あれ」


 普通の狼より、一回り大きい。


 四肢は不自然に長く、背中には骨のような突起が並んでいる。


 ひび割れた皮膚の隙間から、紫色の光が漏れていた。


 俺はこんな魔物を見たことがない。


 黒い獣は、一歩踏み出した。


 ニナが小さく悲鳴を上げる。


「……ルカお兄ちゃん」


「大丈夫。俺の後ろにいて」


 そう答えながら、俺は逃げ道を探した。


 左には深い茂み。


 右には崩れかけた岩壁。


 正面には黒い獣。


 背後には、霧の中へ続く石畳。


 もし逃げるなら、あの道しかない。


 けれど。


 獣の様子がおかしかった。


 赤い目が、俺たちをじっと見つめている。


 ……いや。


 違う。


 あいつは、ニナを見ていない。


 俺の顔も見ていない。


 もっと下だ。


 胸元。


「……え?」


 その瞬間。


 カチリ。


 小さな音がした。


 方位磁針だった。


 俺は慌てて蓋を開いた。


 針が、震えている。


 十年間、動かなかった針。


 それが今。


 激しく回転し始めた。


「……なっ!?」


 カチリ、カチリ、カチリ。


 針が何度も回る。


 まるで何かに反応しているようだった。


 黒い獣が、低く唸った。


 赤い瞳が、方位磁針を捉える。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


 黒い霧が、牙の隙間からこぼれ落ちる。


 俺は息を呑んだ。


 こいつは、ニナを追ってきたんじゃない。


 少なくとも、今は違う。


 この獣が狙っているのは――。


「……母さんの、方位磁針?」


 その言葉を口にした瞬間。


 黒い獣が、地面を蹴った。


「ニナ!」


 俺は少女を抱き寄せた。


 鋭い爪が、目の前に迫る。


 逃げ道は、一本しかない。


 百年前に消えた村へ続く、誰にも見えない道。


 俺はニナの手を握りしめた。


「走るよ!」


 そして、霧の中へ飛び込んだ。


 背後で、獣の咆哮《ほうこう》が響く。


 十年間動かなかった方位磁針が、狂ったように回り続けていた。


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