百年前の迷子
百年前に消えた村。
その村に続く道が、俺には見えている。
しかも、十年間動かなかった母さんの方位磁針まで、突然動き始めた。
こんな偶然があるだろうか。
「ルカお兄ちゃん、早く行こう!」
隣でニナが俺の手を引っ張った。
さっきまで泣いていたのが嘘みたいな笑顔だ。
その顔を見ていると、今すぐ森へ飛び込みたくなる。
けれど、俺は足を止めた。
「ニナ。出発する前に、一つだけ寄り道してもいいかな?」
「……寄り道?」
少女の顔が曇る。
「おうち、帰れないの?」
「帰るための寄り道だよ」
俺は地図を取り出した。
「誰も行けなくなった場所には、理由がある。森に魔物がいるかもしれないし、道が途中で壊れているかもしれない」
「……うん」
「だから、昔の地図を調べたいんだ。安全に帰るためにね」
ニナは少し考えた。
そして、小さな声で尋ねてきた。
「……ルカお兄ちゃん、いなくならない?」
「え?」
「さっきのおじいちゃん、村なんてないって言ったでしょ。だから……」
ニナの指が、俺の小指に絡んだ。
「ルカお兄ちゃんも、やっぱりないって言って、どこかに行っちゃうのかなって」
その言葉に、胸が痛んだ。
昨日までの俺なら、きっと気づかなかっただろう。
この子が怖がっているのは、森の魔物だけじゃない。
自分の言葉を誰にも信じてもらえなくなることだ。
「いなくならないよ」
俺は目線を合わせて答えた。
「でも、一つだけ正直に言わせて」
「……なあに?」
「俺にも、村にたどり着けるかは分からない」
ニナの表情が強張った。
「だけど、分からないからって諦めたくないんだ。道が本当にあるなら、ちゃんと確かめたい」
しばらくして、ニナがこくんとうなずいた。
「……分かった」
「ありがとう」
「でも、早くしてね。お母さん、心配してるから」
「うん。約束する」
俺は少女の手を握り直した。
今の俺にできるのは、根拠のない安心を与えることじゃない。
帰れる可能性を、一つずつ確かめていくことだ。
◇
王立地図院。
王都アレストの北区にある、古い石造りの建物だ。
国内の街道、河川、山岳地帯の記録を管理している。
冒険者や商人には欠かせない場所だけれど、わざわざ古い地図を読みに来る人間は少ない。
俺は昔から、ここが好きだった。
建物に入ると、紙と革表紙の匂いがした。
「わあ……!」
ニナが天井を見上げる。
高い書棚には、分厚い本や地図筒がぎっしり並んでいた。
「お城みたい!」
「本のお城、かな」
「全部、道の本?」
「道以外の本もあるよ。山とか、村とか、昔の国とか」
「じゃあ、エルダ村の本もある?」
「探してみよう」
受付へ向かうと、丸眼鏡の老人が顔を上げた。
「おや、ルカじゃないか」
「こんにちは、ロイさん」
地図院の資料管理人、ロイさん。
俺が冒険者になったばかりの頃、地図の読み方を教えてくれた人だ。
「今日はまた、妙な道でも見つけたのかね?」
「……どうして分かるんですか?」
「お前さんが古地図を調べに来るときは、だいたいそうだからな」
ロイさんは愉快そうに笑った。
けれど、俺が村の名前を告げた瞬間、その笑顔が消えた。
「……エルダ村を?」
「はい」
「なぜ、そんな名前を?」
俺はニナを紹介し、事情を説明した。
今朝までエルダ村にいたこと。
白い動物を追いかけて森に迷い込んだこと。
そして、俺には村へ続く道が見えたこと。
ロイさんは最後まで黙って聞いていた。
「……なるほど」
やがて、静かに立ち上がる。
「二人とも、こちらへ来なさい」
◇
案内されたのは、地図院の地下資料室だった。
古い油灯の明かりが、壁一面の書棚を照らしている。
ロイさんは大きな地図筒を一つ取り出した。
「これは、百十二年前に作られた王都北部の地図じゃ」
机に広げられた羊皮紙には、今とは少し違う街道が描かれていた。
王都から北へ伸びる道。
広い森。
その奥にある、小さな村。
『エルダ村』
俺は、思わず息を呑んだ。
「あった……!」
「うん!」
ニナが身を乗り出す。
「これ! ここが私のおうち!」
少女が指さしたのは、村の西側に描かれた小さな家だった。
「ここにリンゴの木があるの! それで、こっちにパン屋さん!」
ロイさんが目を細めた。
「……村のことを、よく知っておるようじゃな」
「だって、ずっと住んでるもん!」
ニナは胸を張った。
ロイさんは返事をせず、別の書物を取り出した。
「では、お嬢ちゃん。一つ聞いてもいいかな」
「なあに?」
「エルダ村には、鐘楼があったそうじゃな?」
「うん!」
「その鐘には、何の模様が描かれておった?」
「麦の穂!」
ニナは即答した。
「四本あるんだよ!」
ロイさんの手が止まった。
「……四本?」
「うん。前から見たら三本だけど、後ろにもう一本あるの」
「なぜ、それを知っておる?」
「おじいちゃんに教えてもらったの!」
ロイさんは慌てて本のページをめくった。
古い紙を何枚も繰り、あるところで指を止める。
「……そんな馬鹿な」
「ロイさん?」
俺が声をかけると、老人は本をこちらへ向けた。
そこには鐘の修理記録が記されていた。
『鐘楼修復の際、裏面に第四の麦穂を確認』
「……本当だ」
俺はニナを見る。
少女は得意そうに笑っていた。
「ほらね!」
けれどロイさんは、笑っていなかった。
「この記録は百年前のものじゃ。鐘楼の修理を担当した職人が残した、ただの覚え書きにすぎん」
「……つまり?」
「一般に知られるような話ではない。まして、この子の年齢で知っているのは……」
老人は言葉を切った。
地下室が静まり返る。
地図に載っていたから、村が実在したのは確かだ。
けれどニナが、その村の住人だという証拠にはならない。
そう思っていた。
今までは。
「ロイさん」
「……何じゃ?」
「もう少し、詳しく聞かせてください。エルダ村は、どうして消えたんですか?」
老人はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「正確なことは、今でも分かっておらん」
そう前置きして、古い調査記録を開く。
「百年前の秋、エルダ村への物資を運んでいた商隊が、森の途中で道を見失った」
「道を?」
「ああ。昨日まで通れた石畳が、突然なくなったそうじゃ」
俺は、母さんの方位磁針を握りしめた。
「何度森を探しても、村へたどり着けなかった。地図に記された場所には、木々と岩ばかりが広がっていたという」
「村人は……?」
「一人も見つからなかった」
ロイさんは静かに答えた。
「王国は何度も調査隊を送った。しかし成果はなく、ついには村の捜索を打ち切った」
百年。
それほど長い間、誰も村へ帰れなかった。
もし本当に、村が今も存在しているなら。
そこに暮らす人々は、どうなっているんだろう。
「……ちがうよ」
突然、ニナが呟いた。
振り返ると、少女は唇を震わせていた。
「おうち、なくなってないもん」
「ニナ……」
「お母さんも、お父さんも、いるもん。昨日だって、みんなでご飯食べたもん」
握られた手に、力がこもる。
「朝になったらね、お父さんが新しい靴を買ってくれるって約束したの」
俺は、ニナの足元を見た。
片方しかない、小さな靴。
泥で汚れた足。
「だから……」
声が震える。
「だから、ちゃんと帰らないと」
俺は何も言えなかった。
百年前の村だろうと、何だろうと。
この子にとっては、昨日まで普通に暮らしていた家なのだ。
今すぐ帰って、いつもの食卓に座りたい。
それだけなんだ。
「……大丈夫」
俺はニナの頭に手を置いた。
「まだ、帰れないって決まったわけじゃないよ」
するとニナは、こくりとうなずいた。
ロイさんが俺たちを見つめていた。
その表情は、さっきより少し柔らかかった。
◇
「……ところで、その木札は何じゃ?」
ロイさんがニナの胸元を指さした。
細い紐で下げられた、小さな木の札。
表には、リンゴの木と鐘を組み合わせた紋章が彫られている。
「これ?」
ニナが木札を外した。
「お父さんにもらったの!」
「見せてもらってもよいかな?」
「うん!」
ロイさんは札を受け取り、古い資料と見比べた。
「……エルダ村の通行札じゃ」
「通行札?」
「村の外へ出るときに持つ身分証のようなものじゃな。昔はこういう札を使う村も多かった」
老人の指が、紋章の上で止まる。
「彫り方まで一致しておる」
俺は身を乗り出した。
「じゃあ、やっぱりニナは……」
「……いや」
ロイさんが首を振った。
「もう一つ、奇妙なことがある」
「奇妙なこと?」
「この木札じゃ」
ロイさんは札を裏返した。
「百年前のものとは思えんほど、新しい」
言われてみれば確かにそうだった。
木札には多少の泥がついている。
けれど、木はほとんど傷んでいない。
紐も新しく、彫られた文字の溝もくっきりしていた。
「最近作られたもののように見える」
「だって、最近だもん」
ニナが不思議そうに言った。
「……え?」
「昨日、お父さんにもらったんだよ」
ロイさんの手が止まった。
俺も、言葉を失った。
昨日。
また、その言葉だ。
村は百年前に消えた。
なのにニナは、昨日までそこで暮らしていたという。
百年前の記録にしかない鐘の秘密を知り、木札は作られたばかりのように新しい。
それなら。
もしかして。
村の中では、百年も経っていないのか?
そんな考えが頭をよぎった。
けれど、確かめる方法はまだない。
「……ルカ」
ロイさんが、低い声で呼んだ。
「本当に、その道が見えるのか?」
「はい」
「王都の北、灰霧の森の中に?」
「そうです。青白く光る石畳が続いていました」
老人の顔色が変わった。
「……青白い、石畳」
「知っているんですか?」
「百年前の調査記録にも、一度だけその記述がある」
胸が高鳴る。
「本当ですか?」
「ああ。第七調査隊の案内人が、霧の奥に光る石畳を見たという」
「その人は、村まで行けたんですか?」
ロイさんは、答えなかった。
代わりに、古い記録の最後の一行を指さした。
『案内人一名、帰還せず』
背筋が冷たくなった。
「……戻ってこなかった?」
「そうじゃ」
ロイさんは、静かに本を閉じた。
「どこへ行ったのかも、分かっておらん」
俺はしばらく黙っていた。
道が見えることと、そこを安全に歩けることは違う。
昨日、岩狼から逃げたときだって、トッドは道を見失いかけた。
俺が少し間違えていたら、みんな谷底に落ちていたはずだ。
今度は、ニナが一緒にいる。
俺の判断一つで、この子まで危険にさらすかもしれない。
「……やっぱり」
小さな声がした。
ニナだった。
「帰れないのかな……」
少女の目に、涙が浮かぶ。
俺はすぐには答えられなかった。
帰れると断言するのは簡単だ。
けれど、その約束を守れなかったら。
……いや。
違う。
俺が怖いのは、約束を破ることだけじゃない。
誰かに期待されて、結局役に立てなかったときのことだ。
昨日、パーティーを追放されたばかりなのに。
また同じ思いをするかもしれない。
それが怖い。
そんな自分が、少し情けなかった。
俺は息を吸った。
「ニナ」
「……なあに?」
「道が危なくなったら、一緒に引き返そう」
「……うん」
「もし今日たどり着けなくても、別の方法を探そう。俺一人で無理なら、助けてくれる人を探す」
少女が顔を上げた。
「……あきらめない?」
「うん」
俺は、まっすぐに答えた。
「約束する。君を一人で困らせたままにはしない」
ニナは、しばらく俺を見つめていた。
そして、ようやく小さく笑った。
「……ありがとう」
その一言が、胸の奥に染み込んだ。
今まで俺は、強い仲間たちについていくために必死だった。
でも、今日は違う。
俺自身が、この子を助けたいと思っている。
誰かに命令されたからじゃない。
役に立つと認められたいからでもない。
俺が、そうしたいのだ。
ロイさんが、小さく息を吐いた。
「……まったく。お前さんは、昔からそういうところがある」
「え?」
「危ない場所ほど、放っておけんのじゃろう」
老人は立ち上がり、棚から一枚の地図を取り出した。
「持っていきなさい」
「これは……?」
「百年前のエルダ村周辺図の写しじゃ。古い橋や沢の位置も記してある」
「でも、貴重なものじゃ……」
「写しだと言ったじゃろう」
ロイさんは少し笑った。
「ただし、忘れるなよ」
その表情が、真剣になる。
「道案内人の仕事は、目的地へ連れていくことだけではない」
「……はい」
「無事に帰してやることも、仕事のうちじゃ」
その言葉に、母さんの声が重なった気がした。
『道はね、人と人をつなぐものでもあるのよ』
俺は地図を大切に鞄へしまった。
「……ありがとうございます」
ロイさんに頭を下げる。
「必ず、帰ってきます」
ニナも隣で、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとう、おじいちゃん!」
ロイさんは照れくさそうに笑った。
「うむ。気をつけてな」
◇
王都の北門を出た頃には、空が少し曇っていた。
灰霧の森までは、徒歩で一時間ほどだ。
ニナは最初こそ元気よく歩いていたけれど、途中から少しずつ口数が減った。
片方の靴をなくした足が、痛むのだろう。
「ニナ、ちょっと休もうか」
「……大丈夫」
「本当に?」
「うん」
そう言いながら、少女は小さく足を引きずっている。
俺は道端の石に腰を下ろし、鞄を開いた。
予備の布を取り出す。
「ちょっと足、見せて」
「……え?」
「怪我してるだろ?」
ニナは困ったように笑った。
「……ちょっとだけ」
足の裏には、小さな傷がいくつもできていた。
俺は水で泥を落とし、布を巻いてやった。
「痛かったら、ちゃんと言っていいんだよ」
「……だって」
「ん?」
「ルカお兄ちゃん、急いでくれてるから」
俺は手を止めた。
ニナはうつむいたまま続ける。
「私のために、いろいろしてくれてるでしょ。だから、わがまま言ったらいけないかなって」
その言葉を聞いて、何も言えなくなった。
つい昨日までの俺も、同じようなことを考えていた。
戦えない自分が迷惑をかけないように。
役に立たないと思われないように。
つらくても、平気な顔をしていた。
この子まで、そんな思いをする必要はない。
「ニナ」
「……なあに?」
「疲れたら休んでいいんだよ」
俺は笑った。
「道は逃げないから」
少し考えてから、付け加える。
「……たぶん」
「たぶん?」
「ごめん。今から行く道は、たまに消えるんだ」
ニナが目を丸くした。
そして。
「ふふっ!」
小さく笑った。
「ルカお兄ちゃん、変なの!」
「よく言われるよ」
俺も笑った。
しばらく休んだあと、俺たちは再び歩き始めた。
森が近づくにつれて、空気が冷たくなっていく。
木々の間には、薄い霧が漂っていた。
鳥の声が少ない。
風が吹いているのに、森の奥からは葉の揺れる音がほとんど聞こえなかった。
「……ここだ」
俺は足を止めた。
灰霧の森の入り口。
普通の街道は、ここで東西に分かれている。
けれど、俺にはもう一本の道が見えていた。
古びた石畳。
青白い光。
霧の奥へと伸びていく、不思議な道。
俺はロイさんにもらった地図を広げた。
百年前の地図。
その中央に描かれた、エルダ村への街道。
見比べる。
森の入り口。
大きな岩。
道の脇にある、曲がった木。
すべてが一致していた。
「……間違いない」
思わず呟く。
ニナが、俺の袖を引いた。
「ルカお兄ちゃん!」
「うん?」
「あの道!」
少女が、霧の奥を指さす。
「私が歩いてきた道だよ!」
胸が高鳴った。
やっぱり、そうなんだ。
ニナは本当に、あの道から来たんだ。
俺は方位磁針を取り出した。
針は、今も森の奥を指している。
その先には、何があるんだろう。
百年間、誰もたどり着けなかった村。
母さんが残した方位磁針。
そして、俺にしか見えない道。
すべてが、ここにつながっている。
「……よし」
俺は地図をしまった。
「ニナ。行く前に、もう一度だけ確認するよ」
「うん!」
「絶対に俺から離れないこと。足元に道が見えなくなったら、すぐ止まること。何か怖いものを見たら、隠さず教えること」
ニナは真剣な顔でうなずいた。
「分かった!」
「よし。じゃあ――」
そのときだった。
かさり。
森の奥で、草が揺れた。
「……?」
俺は顔を上げた。
もう一度。
かさり。
何かが、こちらへ近づいている。
「……ニナ」
「なあに?」
「俺の後ろに隠れて」
「……え?」
「いいから」
少女が、ぎゅっと俺の服をつかんだ。
霧の向こうから、低い唸り声が聞こえた。
グルルルル……。
獣だ。
けれど、普通の狼とは声が違う。
もっと低く、湿った音。
俺は腰の短剣を抜いた。
刃が小さく震えている。
……いや。
震えているのは、俺の手だ。
戦闘適性E。
岩狼一匹すら倒せない、役立たずの道案内人。
そんな俺が、正体も分からない魔物と向き合っている。
逃げるべきだ。
そう頭では分かっていた。
けれど、背後にはニナがいる。
この子を置いて逃げるわけにはいかない。
霧が、ゆっくりと揺れた。
最初に見えたのは、二つの赤い光。
次に、黒い前足。
そして。
全身をひび割れた黒い外皮に覆われた、狼に似た魔物が姿を現した。
「……なんだ、あれ」
普通の狼より、一回り大きい。
四肢は不自然に長く、背中には骨のような突起が並んでいる。
ひび割れた皮膚の隙間から、紫色の光が漏れていた。
俺はこんな魔物を見たことがない。
黒い獣は、一歩踏み出した。
ニナが小さく悲鳴を上げる。
「……ルカお兄ちゃん」
「大丈夫。俺の後ろにいて」
そう答えながら、俺は逃げ道を探した。
左には深い茂み。
右には崩れかけた岩壁。
正面には黒い獣。
背後には、霧の中へ続く石畳。
もし逃げるなら、あの道しかない。
けれど。
獣の様子がおかしかった。
赤い目が、俺たちをじっと見つめている。
……いや。
違う。
あいつは、ニナを見ていない。
俺の顔も見ていない。
もっと下だ。
胸元。
「……え?」
その瞬間。
カチリ。
小さな音がした。
方位磁針だった。
俺は慌てて蓋を開いた。
針が、震えている。
十年間、動かなかった針。
それが今。
激しく回転し始めた。
「……なっ!?」
カチリ、カチリ、カチリ。
針が何度も回る。
まるで何かに反応しているようだった。
黒い獣が、低く唸った。
赤い瞳が、方位磁針を捉える。
そして、ゆっくりと口を開いた。
黒い霧が、牙の隙間からこぼれ落ちる。
俺は息を呑んだ。
こいつは、ニナを追ってきたんじゃない。
少なくとも、今は違う。
この獣が狙っているのは――。
「……母さんの、方位磁針?」
その言葉を口にした瞬間。
黒い獣が、地面を蹴った。
「ニナ!」
俺は少女を抱き寄せた。
鋭い爪が、目の前に迫る。
逃げ道は、一本しかない。
百年前に消えた村へ続く、誰にも見えない道。
俺はニナの手を握りしめた。
「走るよ!」
そして、霧の中へ飛び込んだ。
背後で、獣の咆哮が響く。
十年間動かなかった方位磁針が、狂ったように回り続けていた。




