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役立たずの道案内人、追放されたので誰も行けない場所を目指します  作者: ナナメ横


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1/5

役立たずの道案内人

 俺には、誰にも見えない道が見える。


 地図に載っていない道。

 何百年も前に失われた道。

 崖の向こうや、深い森の奥へと続く、不思議な道。


 子供の頃から、それが当たり前だった。


 だから俺は、自分の力が特別なものだと思ったことはない。


 ただ一つ、はっきりしていることがある。


 どれほど道が見えたところで、剣も魔法も使えなければ、冒険者としては役立たずだということだ。


 少なくとも、俺の仲間たちはそう考えていた。


 そして今日。


 俺は三年間所属していたパーティーを追放されることになる。


     ◇


「ルカ! 何やってんだ! 早く道を探せ!」


 怒鳴り声が山肌に響いた。


 声の主は、冒険者パーティー《白銀の牙》のリーダー、バルドだ。


 大きな盾を構えた彼の正面には、全身を岩のような外皮に覆われた魔物が三匹。


 岩狼。


 山岳地帯に生息する、厄介な魔物だ。


 一匹でも手強い相手なのに、三匹同時となれば話は別だった。


「探してる! もう少し待って!」


「もう少しって、何回言わせる気だ!」


 バルドが盾で岩狼の突進を受け止めた。


 鈍い衝撃音が響く。


 その巨体が、じりじりと後ろへ押し込まれた。


 俺たちは、薬草採取の依頼を終えて王都へ戻る途中だった。


 本来なら、魔物との遭遇も少ない安全な経路を通るはずだった。


 ところが帰路で山崩れが起こり、予定していた街道が塞がれてしまった。


 迂回路を探しているうちに岩狼の群れと遭遇し、今では崖際まで追い詰められている。


「エリナ! 魔法は!?」


「もう無理よ! さっきので魔力が尽きたわ!」


 魔法使いのエリナが、苦しそうに答える。


 弓使いのトッドも、矢筒を確認して顔をしかめた。


「こっちも残り二本だ! これじゃ全然足りねえ!」


 状況は最悪だった。


 バルドは左腕を負傷している。


 エリナは魔力切れ。


 トッドの矢も尽きかけている。


 そして俺、ルカ・アルベインは――。


「くそっ!」


 短剣を握りしめながら、自分の無力さに歯噛みした。


 俺の職業は《道案内人》。


 戦闘適性は最低のE評価。


 攻撃魔法も使えないし、剣の腕もからっきしだ。


 目の前の岩狼を一匹倒すことすらできない。


 でも。


 それなら、俺にできることをするしかない。


 俺は周囲を見回した。


 切り立った崖。


 苔むした岩壁。


 霧に覆われた谷。


 普通の人には、行き止まりにしか見えない場所だろう。


 けれど。


「あった……!」


 崖の向こう。


 何もないはずの空間に、細い石畳が続いていた。


 古びた石畳は、谷を横切るように伸び、白い霧の向こうへと消えている。


 俺にしか見えない道。


 昔から、ときどき見つける不思議な道だ。


「バルド! こっち!」


 俺が叫ぶと、バルドが振り返った。


「こっちって……崖じゃねえか!」


「道がある!」


「どこにだよ!」


「崖の向こう!」


 バルドが、一瞬だけ絶句した。


「……お前、正気か?」


「正気だよ!」


「俺たちに飛び降りろって言うのか!?」


「違う! 俺の後をついてきて!」


 岩狼の一匹が唸り声を上げた。


 バルドが慌てて盾を構え直す。


 このままでは、あと数分も持たない。


 俺は覚悟を決めた。


「俺が先に歩く。危なかったら、みんなは止まって!」


 エリナが青ざめた。


「ルカ、待って! あなたまで死ぬつもり!?」


「死なないよ」


 俺は笑ってみせた。


 本当は怖かった。


 足が震えていたし、心臓も痛いくらい鳴っていた。


 けれど。


「俺、道を探すのだけは得意だから」


 そう言って、崖へ向かって走った。


「ルカ!」


 背後から叫び声が聞こえる。


 俺は足を止めなかった。


 一歩。


 二歩。


 そして三歩目。


 何もない空間へ、足を踏み出した。


 ――落ちなかった。


 靴底に、確かな石の感触があった。


 俺は崖の外に立っていた。


「……ほら」


 振り返る。


「道、あるだろ?」


 仲間たちは、呆然としていた。


 当然だろう。


 彼らには、俺が空中に立っているようにしか見えないのだから。


「エリナ、手を!」


 俺は腕を伸ばした。


 エリナは震えながら、俺の手を握った。


「だ、大丈夫なの……?」


「俺の足元を見て」


 彼女が恐る恐る視線を落とした。


 その瞬間。


「……え?」


 大きな瞳が見開かれた。


「石畳……?」


「見えた?」


「ええ……今、急に……!」


 俺のすぐ近くにいる人間には、俺が見ている道が一時的に見えることがある。


 ただし、離れすぎると認識できなくなってしまう。


 だから、慎重に進む必要があった。


「バルド! トッド! こっち!」


「……ちくしょう!」


 バルドが岩狼を盾で押し返した。


「トッド! エリナを頼む!」


「分かってる!」


 三人が俺の後を追ってくる。


 俺は鞄からロープを取り出し、全員に握らせた。


「絶対に離さないで!」


 俺たちは霧の中へ進んだ。


 眼下には、底の見えない谷が広がっている。


 もし足を踏み外せば、助からないだろう。


 それでも、石畳は確かに続いていた。


「……すげえ」


 トッドが小さく呟いた。


「本当に道があったのかよ……」


 俺は思わず笑った。


「だから言っただろ?」


 そのときだった。


「あっ!」


 トッドが突然よろめいた。


 足元の石畳が薄れたのだ。


 俺から少し離れすぎたらしい。


「トッド!」


 反射的に手を伸ばす。


 ロープが張り、俺の体まで引っ張られた。


 まずい。


 このままじゃ全員落ちる。


「バルド!」


「おう!」


 バルドが岩壁に手をかけ、踏ん張った。


 エリナも必死にロープを握る。


 数秒後。


 ようやくトッドを引き戻すことができた。


「はあ……はあ……」


 トッドが地面にへたり込む。


「死ぬかと思った……」


「だから離れるなって言っただろ!」


「悪かったよ!」


 俺も胸を押さえた。


 本当に危なかった。


 道が見えるからといって、必ず安全なわけじゃない。


 俺の力には、まだ分からないことが多すぎる。


 それでも。


「行こう」


 俺はみんなを見回した。


「ここまで来たんだ。絶対に、全員で帰ろう」


 バルドが短く笑った。


「……言われなくても、そのつもりだ」


 そして俺たちは、霧の向こうへ進んだ。


     ◇


 一時間ほど歩いただろうか。


 ようやく霧が晴れた。


 目の前には、見慣れた王都へ続く街道が広がっていた。


「……助かった」


 バルドがその場に座り込む。


 エリナは膝をつき、トッドは空を見上げて笑った。


「はは……生きてる……!」


 俺も大きく息を吐いた。


 よかった。


 本当によかった。


 全員、無事に帰ってこられた。


「ルカ」


 バルドが俺を呼んだ。


「……ありがとな」


 その声は、いつもより小さかった。


「お前がいなかったら、全滅してた」


「ううん。俺一人じゃ何もできなかったよ」


 実際そうだった。


 バルドが岩狼を防いでくれなければ、道を探す時間すらなかった。


 エリナとトッドが支えてくれなければ、途中で誰かが落ちていたかもしれない。


 全員で帰ってこられた。


 それが嬉しかった。


「でもさ、ルカ」


 トッドが苦笑する。


「お前のその力、ほんと意味分かんねえよな」


「俺も分かんないよ」


「変な道ばっか見つけやがって」


「便利だろ?」


「便利っていうか……怖えよ」


 みんなが笑った。


 俺も笑った。


 三年間、一緒に冒険してきた仲間たち。


 この人たちとなら、これからも旅を続けられる。


 そのときは、そう信じていた。


     ◇


「ルカ。今日限りで、パーティーを抜けてもらう」


 翌日。


 冒険者ギルドの酒場で、バルドがそう言った。


「……え?」


 思わず聞き返した。


 目の前には、昨日一緒に死にかけた仲間たちが座っている。


 誰も笑っていなかった。


「昨日は助かった。本当に感謝してる」


 バルドは真剣な顔だった。


「だが、俺たちは来月からBランクの討伐依頼を受けることになった」


「……うん」


「今のままじゃ戦力が足りねえ」


 胸の奥が、冷たくなった。


「前衛をもう一人増やしたい。けど、パーティーの人数にも限りがある」


 バルドが続ける。


「お前の案内が役に立つことは分かってる。でも、毎回あんな道が見つかるわけじゃねえだろ?」


「……そうだね」


「昨日だって、お前が岩狼と戦えれば、あそこまで追い詰められなかったかもしれねえ」


 それは、否定できなかった。


 俺には戦う力がない。


 そして、これからみんなが目指すのは、もっと危険な場所だ。


「悪く思うなよ」


 トッドが言った。


「俺たちも、上を目指したいんだ」


 エリナは、ずっと黙っていた。


 けれど、ぎゅっと握られた手が震えていた。


「……ごめんなさい、ルカ」


 小さな声。


「昨日、あんなに助けてもらったのに……」


「いいよ」


 俺は笑った。


 たぶん、うまく笑えていなかった。


「みんなの言ってること、分かるから」


 本当は、分かりたくなかった。


 三年間、一緒に旅をした。


 何度も助け合った。


 昨日だって、全員で生きて帰れたことが嬉しかった。


 なのに。


 たった一日で、俺はもう必要なくなってしまったらしい。


「今まで、ありがとう」


 俺は立ち上がった。


 バルドが革袋を差し出してくる。


「昨日の報酬だ。お前の分は多めにしてある」


「……ありがとう」


 受け取った革袋は、思ったより重かった。


 それが、余計につらかった。


 俺の働きを認めてくれている。


 それでも、一緒にはいられない。


 そういうことなのだろう。


「じゃあ、元気で」


 俺は三人に頭を下げた。


 バルドは何か言いたそうにしていた。


 エリナは顔を伏せたままだった。


 トッドだけが、いつものように軽く手を上げる。


「おう。またどこかでな」


「……うん」


 俺はギルドを出た。


 扉が閉まる直前。


「本当に、これでよかったの?」


 エリナの声が聞こえた。


 続いて、バルドの低い声。


「……次の依頼に連れていったら、あいつは死ぬかもしれねえだろ」


 俺は足を止めた。


「だったら、ちゃんとそう言ってあげればよかったのに……」


 それ以上は聞かなかった。


 聞いてしまったら、戻りたくなる気がしたから。


     ◇


 王都アレストの空は、どんよりと曇っていた。


 俺は人通りの少ない路地を、当てもなく歩いていた。


 十七歳。


 冒険者歴三年。


 所属パーティーなし。


 剣も魔法も使えない、最低評価の道案内人。


「……これから、どうしようかな」


 思わずため息が漏れた。


 ギルドで新しい仲間を探すこともできる。


 商隊の護衛に混じって、道案内をする仕事だってある。


 でも。


 俺は、何のために冒険者になったんだっけ。


 ふと、そんな疑問が浮かんだ。


 胸元から、小さな方位磁針を取り出す。


 古びた真鍮の蓋。


 ひびの入ったガラス。


 針はずっと、北を指したままだ。


 十年間、一度も動いていない。


 俺が七歳のとき、母さんが残していったものだった。


『ルカ。道に迷ったら、これを見なさい』


 優しい声が、記憶の奥によみがえる。


『道はね、ただ場所と場所をつなぐものじゃないの』


 母さんは、俺と同じ道案内人だった。


 けれど、俺とは違って、誰も知らない道を見つけるすごい人だった。


『人と人をつなぐものでもあるのよ』


 あのときは、意味が分からなかった。


 ただ、母さんと一緒に歩く道が好きだった。


 十年前。


 母さんは旅に出たまま、帰ってこなかった。


 最後に向かったのは、地図から消えた道だったという。


 だから俺は冒険者になった。


 いつか母さんの歩いた道を見つけられるかもしれないと思って。


「……母さん」


 俺は方位磁針を握りしめた。


「俺、ちゃんと前に進めてるのかな」


 返事はなかった。


 そのとき。


「……お兄ちゃん」


 小さな声が聞こえた。


 顔を上げる。


 路地の先。


 古い井戸のそばに、一人の少女が立っていた。


 十歳くらいだろうか。


 長い金髪は乱れ、白いワンピースの裾は泥だらけ。


 片方の靴をなくしたらしく、小さな足がむき出しになっている。


 少女は、今にも泣き出しそうな顔で俺を見ていた。


「どうしたの?」


 俺はしゃがんで目線を合わせた。


「迷子?」


 少女は、小さくうなずいた。


「おうちに、帰れないの」


「そっか」


 俺はできるだけ優しく笑った。


「お父さんとお母さんは?」


「おうちにいる」


「じゃあ、一緒に探そうか」


 少女の瞳が、少しだけ輝いた。


「……ほんと?」


「うん。俺、こう見えて道を探すのは得意なんだ」


 そう言うと、少女が小さく笑った。


 よかった。


 少しは安心してくれたらしい。


「名前は?」


「ニナ」


「俺はルカ。よろしくね、ニナ」


「……ルカお兄ちゃん」


 少女は俺の名前を確かめるように呟いた。


 そして、恐る恐る手を伸ばしてきた。


 俺が手を差し出すと、その小さな指がぎゅっと絡まった。


 冷たい手だった。


「ニナのおうちは、この街にあるの?」


「ううん。村にあるの」


「村?」


「エルダ村」


 俺は首をかしげた。


 聞き覚えのない名前だった。


「王都の近く?」


「うん! 森を抜けたところ!」


 ニナは嬉しそうに続ける。


「大きな鐘があってね、リンゴの木がいっぱいあるの! お母さんが焼くパイ、すっごくおいしいんだよ!」


「へえ。いい村なんだね」


「うん!」


 俺は鞄から地図を取り出した。


 王都周辺なら、ほとんどの村の名前を覚えている。


 けれど、エルダ村という名前は見つからなかった。


「……あれ?」


 何度も確認する。


 北の森。


 東の街道。


 西の山道。


 どこにもない。


 地図が古いのかもしれない。


 そう思って顔を上げると、近くの露店の老人が、俺たちをじっと見ていた。


「あの、すみません」


 俺は声をかけた。


「エルダ村って、ご存じですか?」


 その瞬間。


 老人の顔色が変わった。


「……なんだって?」


「エルダ村です。この子の故郷らしいんですけど」


 老人は答えなかった。


 ただ、ニナをじっと見つめている。


 その目には、明らかな恐怖が浮かんでいた。


「坊主」


「はい?」


「その名前を、どこで聞いた?」


「この子からです」


 老人は、一歩後ずさった。


「……馬鹿な」


 かすれた声だった。


「ありえん……」


「どういうことですか?」


 老人はしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「エルダ村はな……もう、ないんだよ」


「……ない?」


「ああ」


 老人は王都の北に広がる森を指さした。


「あの森の奥には昔、小さな村があったそうだ。果樹園が広がる、豊かな村だったらしい」


 ニナが顔を上げた。


「あるよ」


 小さな声。


「エルダ村、ちゃんとあるよ」


 老人は、少女を見た。


 その表情が、さらに険しくなる。


「だが、ある日突然、村へ続く道が消えた」


「道が……?」


「調査に向かった兵士も、冒険者も、誰一人として村を見つけられなかった。どれだけ森を探しても、村のあった場所へたどり着けなかったんだ」


 俺は思わず地図を見た。


 王都の北。


 森の奥。


 そこには、不自然なほど広い空白地帯があった。


「……いつの話ですか?」


 俺が尋ねると、老人は低い声で答えた。


「百年前だ」


 息が止まった。


「百……年?」


「ああ。百年前の《エルダ消失事件》。今じゃ古い記録にしか残っておらん」


 俺はニナを見た。


 少女は首を横に振っていた。


「ちがう……」


 小さな声が震えている。


「ちがうもん……」


「ニナ?」


「エルダ村、あるもん!」


 少女が叫んだ。


 周囲の人々が振り返る。


 けれどニナは、そんなことを気にする余裕もないらしかった。


「お父さんも、お母さんも、いるもん! 大きな鐘も、リンゴの木も、ちゃんとあるもん!」


 瞳に涙が浮かぶ。


「昨日だって、お母さんと一緒にパイを焼いたんだよ……!」


 昨日。


 俺はその言葉に引っかかった。


「ニナ」


 なるべく落ち着いた声で尋ねる。


「村を出たのは、いつ?」


「……今日の朝」


「今日?」


「うん」


 ニナは涙を拭った。


「ポポを追いかけてたの。そしたら森の中に入っちゃって……気がついたら、知らない道に出てた」


「ポポ?」


「白くて、ふわふわで、ちっちゃい子!」


 ニナは両手で小さな丸を作った。


「村の近くにいたんだけど、どこかに行っちゃったの」


 俺は考え込んだ。


 百年前に消えた村。


 今朝、その村から出てきた少女。


 普通に考えれば、ありえない話だ。


 ニナの勘違いかもしれない。


 誰かに嘘を教えられた可能性だってある。


 でも。


 彼女の涙は、本物だった。


 帰りたいと願う気持ちも。


「……分かった」


 俺は地図を閉じた。


 ニナが不安そうに顔を上げる。


「ルカお兄ちゃん……?」


「探してみよう」


「……え?」


「君の村。まだ、あるかもしれないだろ?」


 ニナは目を大きく見開いた。


 露店の老人が慌てて口を挟む。


「おい、坊主! 馬鹿なことを考えるな!」


「え?」


「あの森には近づくな! 昔から人が消える場所なんだぞ!」


「……分かってます」


「何も分かっとらん! 百年も誰も見つけられなかった村を、お前なんかが――」


「それでも」


 俺は老人を見た。


「もし本当に道があるなら、見つけられるかもしれません」


 老人は絶句した。


 俺はニナのほうへ向き直る。


「一つだけ、約束して」


「……なあに?」


「危ないと思ったら、すぐ引き返す。無理に進まない。いい?」


 ニナは少し迷ってから、うなずいた。


「……うん」


「よし」


 俺は立ち上がった。


「じゃあ、まずは森の入り口まで行ってみようか」


 そのときだった。


 胸元で、小さな音が鳴った。


 カチリ。


「……ん?」


 方位磁針。


 俺は慌てて蓋を開いた。


 十年間。


 一度も動かなかった針が。


 ゆっくりと。


 北から、わずかにずれた。


「……え?」


 目を疑った。


 針が動いている。


 それは王都の北に広がる森の、その奥を指していた。


 俺は顔を上げた。


 そして、息を呑んだ。


 ――道があった。


 城壁の向こう。


 森の木々の間。


 灰色の霧に包まれた、一本の石畳。


 あんな道は、今まで一度も見たことがなかった。


 古びた石畳の隙間に、青白い光が流れている。


 霧の向こうへ続く道は、まるで夜空の星を地面に並べたように輝いていた。


 遠くから、鐘の音が聞こえた気がした。


 ごおん。


 ごおん。


 風に紛れるほど、かすかな音。


 けれど確かに、聞こえた。


「……ニナ」


「なあに?」


「ちょっと、あっちを見てくれる?」


 俺は森の奥を指さした。


「あそこに、何か見える?」


 ニナは目をこすった。


 そして。


「……あっ!」


 突然、大きな声を上げた。


「あの道!」


 小さな手が、俺の服をつかむ。


「あの道だよ!」


「……本当?」


「うん! 私が朝、通ってきた道!」


 ニナの瞳が輝いていた。


「あそこを歩けば、おうちに帰れる!」


 俺はもう一度、道を見た。


 霧の奥へ続く、古い石畳。


 その先に何があるのかは分からない。


 危険な場所かもしれない。


 それでも。


 道は、確かにそこにあった。


 そして今。


 その道を必要としている子が、目の前にいる。


「……そっか」


 俺は笑った。


「じゃあ、行こうか」


「……いいの?」


「うん」


「ほんとに、連れていってくれる?」


「もちろん」


 ニナの手を、そっと握り直す。


「俺は道案内人だからね」


 少女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。


「……よかった」


 その言葉は、とても小さかった。


「やっと……」


 ニナは震える声で続けた。


「やっと、迎えに来てくれた」


 俺は少しだけ首をかしげた。


 迎えに?


 俺たちは、さっき出会ったばかりなのに。


 けれど、少女はもう泣きながら笑っていた。


 だから俺は、その言葉を深く考えなかった。


 方位磁針を閉じ、鞄を背負い直す。


 そして、ニナと一緒に歩き始めた。


 王都の北。


 百年前に消えた村へ続く道を目指して。


 そのときの俺は、まだ知らなかった。


 あの道を歩くことが、世界の秘密に触れる第一歩になるなんて。


 そして。


 百年前に閉ざされた道を見つけたことが、世界中の人々の運命を変える旅の始まりになるなんて。


 ただ、一つだけ確かなことがあった。


 昨日まで、俺は自分の居場所を失った冒険者だった。


 けれど今日。


 俺の手を握る小さな少女が、俺を必要としてくれている。


 それが、どうしようもなく嬉しかった。


 だから俺は、胸を張って言った。


「大丈夫。必ず、君の帰り道を見つけるよ」


 ニナは笑った。


「うん!」


 そして、俺たちは霧の森へ向かって歩き出した。


 その背後で。


 王都の鐘が、正午を告げていた。


 けれど、誰も気づかなかった。


 森の奥から聞こえてきた鐘の音が。


 王都の鐘よりも、ほんの少しだけ早く鳴っていたことに。


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