8.重なる運命
広大なる世界。
光溢れ、地には緑が生い茂り、豊かなる河の流れは果てなき海に注ぎ行く。美しきこの地には、だが血の匂いも絶えることがない。
国家はなきに等しく、点在する村落が各々の生きる場所。
神の与えた魔力を、人はいつから知っていたのか。数千、数万の年月のうちに、もはや知り得ようはずもない。
神はいない。
今、地にあるのは、神の力を持つ支配者であった。
「わかるか? そのお方に仕える幸運が」
いとも優雅な笑みを浮かべて、イレーヌが言った。
ラシードは疲労困憊といった表情で、木に凭れかかったまま返事もしない。
シトーの戦闘から、半月が経っていた。
第四軍は順調に進軍を続け、その中でラシードは、一部の兵しかその存在を知らぬ捕虜となり、ジークには剣術を、イレーヌには魔術を、それぞれ指導されていた。
そしてつい今し方も、野営地の外れでイレーヌの教えを受けていたところだった。
鍛えた体と天性の勘をもってする剣術と違い、魔術の修行はラシードにとってまったくの苦行である。
才能を実力とすることが、これほど難儀な技術は、魔法のほかにこの世にはない。高い魔力を有する者が、必ずしも優秀な術者になれるわけではないことを、その精神修行をした者ならば誰でも痛感する。
なのに。どうして自分は、この女に従っているのか。
ラシードはぼんやりと考えていた。
仇を討たせるという口約束を、素直に信じられるわけがない。
魔天王と魔天公爵――二人の王に次ぐ、その魔力に対する恐怖ゆえか。
この半月、目の当たりにしてきた。
イレーヌは噂以上に途方もない、圧倒的な術者だった。かつては人の王であったフェアリアの、原始の力をその血の中に蘇らせた、最強の魔女だ。
「ラシード? まだ口も利けぬのか?」
イレーヌはラシードに近づき、上目遣いに顔を覗き込む。
とっさにラシードはその手を掴み、ぐいとイレーヌを自分の腕の中に抱き寄せた。
「元気だぜ、俺は。体はな」
「……そのようだな」
イレーヌは身じろぎもせずに応えると、まっすぐにラシードを見据えた。
「頼もしい限りだが、褒められぬ振る舞いだ。素っ首、ジークに刎ねられたいか?」
静かな声には、不安など微塵も感じられない。
その瞳の中に、ラシードは自らの問いの答えを見出していた。
魔力よりも、噂以上と思い知らされた、その美しさ。
見ているだけで胸が騒ぎ、喉が渇く。見慣れることなどなく、見るたびに驚きが増していく。
まさに、我が目を疑うほどの――。
おそらくはジークも……いや、魔天王でさえ、この女の、この瞳に従わされているのかもしれない。
男が身のうちに持つ獣という名の狂気に、この瞳が火を点けるのだ。
「あんたには、魔力なんて要らねえな」
ラシードが呟いた。
「ここの奴らも……あんたとガルシア、一体どっちに忠誠を誓ってるのか」
イレーヌは小さく笑った。
「兵にとっては、己が将は主も同然。私の命は、陛下の命だ。
――つまりは、どちらも同じこと」
「味方はな。俺は違うだろ」
ラシードの目は、イレーヌに見惚れているかのように動かず、口だけが言葉を語る。
「魔術も軍も要らねえ。あんただけで陥落できる。
……そんな馬鹿が昔、いたな」
その瞬間、イレーヌの表情がわずかに曇った。
それに気づきながら、ラシードは言葉を続けた。
「もう十年ぐらい前か。
一人の人間が、偵察中に出会ったフェアリアに惑わされ、魔天軍に寝返って――自分が率いていた軍を、全滅させちまった。
……覚えてるか?」
陽が少し翳った。
穏やかに吹く風に、木々がざわめいている。
イレーヌは答えず、無表情のまま、少しだけ視線を逸らせた。
「俺はまだガキだったが、よく覚えてるぜ。あの男のこともな。俺に一番最初に剣を教えてくれた男だった」
ぴくりと、イレーヌの肩が動いた。
「あいつ、どうなったんだ? 今も魔天軍にいるのか?」
しばらくの間、二人とも無言だった。
風と木のざわめく音だけが聞こえ、辺りを通りすぎてゆく。
どれほどの時間がすぎたか。
ラシードが沈黙に耐えきれず、口を開こうとした時だった。
「死んだ」
ぽつりと、イレーヌが呟いた。
ゆっくりと、ラシードに視線を戻す。
「自軍が全滅後、ダイスの軍に一人で特攻を仕掛け、戦死した。人間として、な」
ラシードは少なからず驚き、イレーヌを見返した。
すぐには、言葉が出なかった。
「私は何も言わなかった。ただ、あの男が突然現れて、己が軍のすべてを話して、悔いて、己を呪って――あの男、何が欲しかったのか」
嘲笑とも苦笑ともつかない、憂いを含んだ笑み。
「私の許しも、助けも拒んだ。私など、必要とはしなかったのだ。……それでも、私を責めるか」
魔女の瞳が、ラシードを見つめる。
いや、周囲の者が、それを魔女に仕立てるのだろうか。
その瞳のように紅く、深い。
心と体の奥から、抑えようもなく湧き上がってくるもの。
「別に、俺はただ」
ラシードは、自分の体が火を帯びているように感じていた。
「ただ……」
――今なら、あの男の気持ちがわかる。
そこまでは、声にならなかった。




