Part2 14.母の想い
奥に向かって歩きつつ、ダリウスはまだ、不信と疑惑の念に駆られていた。
そんなはずはないと思いながらも、幼い日の記憶に捕らわれ、邪心を振り払うことができない。心は千々に乱れて、今にも叫び出しそうになる。
「いかがなさいました、殿下」
顔を上げると、スエロが立っていた。
(スエロ様は……お父上の、陛下にご報告するために……)
女官の言葉が脳裏に蘇る。
「お……お前こそ、奥から参るとはどうしたのだ。これより先の奥の宮に足を踏み入れられる男子は、父上のほかには我ら王の子のみぞ」
平常心を装いつつ、ダリウスの言葉は自然に絡んだ言い方になる。
「陛下に許可をいただき、王妃様のお見舞いに伺いました。わたくしの妻も、奥におりますので」
スエロの妻は、マルガレータに仕える女官の一人である。先刻レ=オンを冷やかした、物静かなスエロとは対照的に陽気な女だった。
「あ……ああ」
「殿下のことをご心配なさっておいででした。すぐに退出なさったはずだと」
「父上には謝罪申し上げた。これから母上にも申し上げる!」
ダリウスは顔を背けて、吐き捨てるように言った。
「では、失礼致します。広間にて、のちほど」
スエロは慇懃に頭を下げて、表の宮へと去っていこうとした。が、
「――スエロ!」
ダリウスの声に、足を止めて振り返った。ダリウスは背を向けたまま呟く。
「お前、先ごろ王宮から退っていたな」
「はい。母の具合が思わしくありませんでしたので」
「シェラの?」
繰り返す声が、知らず知らずのうちに震える。
「本当に、それだけか」
「は?」
「父上に何か、密命を受けていたのではないの……か?」
ダリウスの心臓は早鐘を打ち、握りしめた拳はじっとりと汗をかく。
「何もございません。仮にご命令があったとしても、密命とあれば、殿下にも申し上げることは叶いません」
思わず、ダリウスは振り向いた。スエロはいつもの無表情である。
「何もございません。……失礼致します」
そう言ってもう一度礼をすると、スエロは立ち去った。
(そんな、はずは……!)
――
「ダリウス、どうしたのです」
やってきた息子を見て、マルガレータは眉を顰めた。
「あれからすぐに広間に行かれたのではなかったのですか? 宴が始まっても姿が見えなかったと、スエロ様に聞きましたよ」
「申し訳、ございません……」
ダリウスは立ったまま、うなだれて応える。
「私に謝っても仕方がないでしょう。お待たせした方々に、きちんとご挨拶なさったのですか?」
「……いえ、その」
母は沈んだ様子の息子に、きつい言葉で畳みかけるようなことはしない。何事かと、黙ってその顔を見つめる。
「母上」
ダリウスは椅子に座ると、不意に顔を上げた。
「なんですか?」
まっすぐに自分を見る母の顔。誰より美しく、気高い女性。
「母上は……」
たった一度だけ見た、その涙。
「母上は、お幸せですか」
突然の問いに、マルガレータは目を丸くした。
「父上の妃になられて、ご満足ですか?」
ダリウスは混乱しながら、言葉を続ける。
「本当に、幸せでいらっしゃいますか。父上に、ご不満は」
「ダリウス!」
母は落ち着いた口調で、息子を窘める。
「……何を言い出されるかと思えば。そのような言葉、口にしてよいものではありません」
「ですが、母上」
「ご自分の父上を、侮辱なさるおつもりですか!?」
マルガレータは、小さくため息をついた。
「王太子殿下ともあろうお方が、軽率な……父上と何かあったのですか」
ダリウスは俯いて、何も答えようとしない。そんな息子の様子を見て、マルガレータは静かに言った。
「……私は、王国一の果報者と自ら信じています。陛下に嫁いで、身に余るご恩情を受けて」
寝台の上から、息子の頬に手を伸ばす。
「ご立派なお子を、天より授かりました。なんの不足があるというのです?」
「……っ!」
「母は幸せです、ダリウス。なぜ疑うのですか」
穏やかに、微笑む。その深い瞳に、慈しむが浮かぶ。
「母上……」
「陛下にも、あなたにも感謝しています。たとえ、この先何があろうとも死する時まで、幸せだったと言えるでしょう。
ご恩に報いることのできるよう、生きていきたいと願っています」
その言葉と温かな手に、ダリウスは何も言うことができなかった。
――
(母上は、きっとご存じなのだ)
塔に上って夜風に吹かれながら、ダリウスは一人考え込んでいた。
(すべて承知の上で、王妃として座していらっしゃる……)
穏やかな瞳の優しさの中には、一抹の翳りが感じ取れた。
(幸せです、ダリウス。なぜ疑うのですか)
そう言った言葉の裏に潜んでいた、強い決意。おそらくは血を分けた息子の自分だからこそ気づいた、いや自分にしかわからないだろう真実だ。
(父上さえ、もしかしたら……いや、母上が気づかれまいとなさっているのだろう。母上は、父上を愛しておいでなのだから)
何も語らず、耐え抜く決意。夫を責めずに王妃たろうとする、哀しい心。
立ち聞きした噂の真偽のほどはわからない。だが、母にあの決意を強いた「誰か」は存在しているだろう。
(父上が想いをかけた、誰か……
だが、それがなんだというのだ?)
どこの誰であろうと、構わない。魔天王の正妃は唯一人。
庶子があろうと、変わりない。王太子は唯一人。
「未来永劫変わらぬ事実だ! ――私こそは王太子、魔天王ルーク・エリス・レ=オンの長子、エリス・ダリウス・ディ・ラング!」
ダリウスは己を鼓舞して叫んだ。
「エリス」の称号。王太子に与えられる、王位を継ぐ正統なる者の証である。
(王になる、私は王に……父上を越える魔天王に、必ずやなってみせる!)
ダリウスにできる、心からの誓いだった。




