Part2 11.王太子の疑念
魔族の平和なときは、永く続いた。
地方領主は相変わらず、王宮に対する野心を抱いていたものの、大きな内乱にまで発展することはなかった。
魔天王レ=オンは厳粛に統治し君臨し、慈悲深く公正な君主として国を治めている。その治政は、他種族にも「賢王」の名を広めるほどだった。そして王妃のマルガレータを唯一人の妻として尊重し、一人の側室を持つこともしなかった。
けれどその子供である王太子は、幼いころから両親にどこか違和感を覚えていた。聡明な母と偉大な父の、微妙な擦れ違いを。
それはまず、三歳になった直後の記憶から始まっていた。
「殿下、お待ちくださいませ!」
侍女の声を尻目に、父の私室に駆けていった時のこと。
「父上っ……!」
声を掛けようとしたその瞬間、ダリウスは窓辺に立っている父の後ろ姿を見て、思わず足を止めた。
父は、泣いていた。
肩を小刻みに震わせ、声を殺し、それでも父は泣いていた。
ダリウスは踵を返して、今度は「奥の宮」へ――母の部屋へ、一目散に走っていった。
――
「母上!」
「……ダリウス?」
突然現れた息子に、母は眉を顰めて言った。
「ダリウス、いつも申しているでしょう。母の部屋に容易く入ってきては……」
「父上が……父上が泣いておられます!」
「え?」
ダリウスは母の衣の先を握って、必死に訴えた。
「父上が、お一人で……」
母は一瞬、目を見開いたあと俯いた。
「母上……」
「お戻りなさい」
顔を上げた母は、毅然とした表情で言った。
「許しもなく、陛下の私室に入ってはなりません。自分の部屋にお戻りなさい。
――誰か、王太子をお連れしなさい」
冷然とした口調で女官を呼ぶ母に、ダリウスは衝撃を受けた。
「で……でも、父上が」
「そんなことを口にしてはなりません!」
母の叱責に、呆然となった。その衝撃は、忘れられない出来事となった。
――
それから数ヶ月経った時。母に会いたくて、また無断で奥に行った。
今度は母の、涙を見た。
いつでも凛として誇り高い王妃である母の、人知れず泣く姿。それはあまりに哀しく、美しい姿だった。
声を掛けられず、肩を落として奥から自室のある王と王太子の私的宮殿へと戻っていくと、表の宮から父がやってきた。
「ダリウス、どうした?」
「父上……」
「……母上に追い返されたのか?」
父は優しく、自分を抱き上げた。
「このところ、お会いしていなかったのだな。一緒に行くか」
「あ、あの、今は……」
「ん?」
母が泣いているのを見たと言ったら、父にも怒られるかと思えて、ダリウスは口を噤んだ。
「奥には奥の決まりがあるゆえな。日に一度も会えぬのは、辛かろうが」
父はその“だんまり”を誤解して、自分を慰めながら歩いていく。
「あの、父上……」
「なんだ?」
「母上が――」
母の部屋の前に来たところでやっと言いかけると、丁度その時、母が廊下に出てきた。
「陛下、ダリウス」
「マルガレータ」
母は涙の跡も見せず、いつもと変わりのない姿で立っている。
「どうなさったのですか?」
「母上が恋しいようなのでな、連れてきた」
「まあ……」
父は自分を母に抱き渡して、頭を撫でてくる。
「今日は奥で食事を取る。ダリウスも同席させよう」
「よろしいのですか?」
「たまには親子で過ごすのもよかろう? なあ、ダリウス」
普段通りに、会話を交わしている二人。母はつい今し方、あんなにも苦しそうに泣いていたのに。父も一人で、泣いていたのに。
(母上、なぜ――なぜ、何もおっしゃらないのですか。どうして父上に……)
ダリウスは何も言えなかった。
仲睦まじい、比翼の鳥とも人に言われる父と母。けれどどちらも、互いに秘めた想いを胸に抱いている。
母はなぜ、父を慰めようとしなかったのか。なぜ慰められようとしなかったのか。
誰に問うこともできない小さな疑念は、幼い心に埋み火となって燻り続けた。




