Part2 9.遠い憧憬
夕暮れ時、ルイーゼがガルシアたちのいる部屋に入ってきた。
「失礼致します、セイレーンを見かけておられませんか」
「いや。おらぬのか?」
例によって本を読んでいたラルフがそう答えると、本を手にしながら窓辺に立っていたガルシアが言った。
「戻ってきたぞ」
窓の外を見るその視線の先に、ふらふらと力ない足取りで、屋敷のほうへ歩いてくる侍女の姿があった。
「森にいたようだな」
「まあ、今ごろまで? では、失礼を」
礼をして、ルイーゼは慌ただしく出ていった。
その時、ラルフはガルシアが微かに笑うのを見た。
「――ガルシア?」
「ん?」
振り向いて、ガルシアもラルフを見る。
「なんだ」
真顔になっている友に、ラルフは言葉を飲み込んだ。
「……別に」
「そうか」
無表情に本を捲り始めたガルシアを見ながら、ラルフは何か奇妙な感じを覚えていた。
――
数日後、夜も更けたころだった。侍女たちも一日の勤めを終えて、厨房近くの休憩部屋で紅茶を飲みながら、一息ついていた。
「セイレーン、ガルシア様にもお茶をお持ちして」
厨房から、フィアナがやってきた。
「まだお寝みにならないようだからって、シェラ様が」
「え……」
セイレーンは立ち尽くして、微動だにしない。フィアナは心配そうに尋ねた。
「セイレーン? 気分でも悪いの?」
「あ……あの……」
「このごろ変よ。どこか具合が悪いんじゃない?」
「休んでたほうがいいわ、私が代わりに」
ほかの侍女が立ち上がると、
「あなたは昨夜お持ちしたでしょう、エルマ」
手にしていたカップを置いて、ルイーゼが厳しく言った。
「あなたの番よ、セイレーン。早くお行きなさい」
「……はい」
俯きがちに、セイレーンは出ていった。
「ルイーゼ、あんな言い方……」
「シェラ様のお言い付けでしょう。病気のようにも見えないわ」
フィアナの言葉を制して、ルイーゼは廊下のほうへきつい視線を向けた。
「でも……」
「さ、私たちはまだ片づけがあるわ」
立ち上がったルイーゼに促されて、残った侍女たちもそれぞれに部屋を出ていった。
――
「失礼致します」
声が震えるのを必死で抑えながら、セイレーンはワゴンを押してガルシアの部屋に入った。寝室に続く部屋の、窓の下にある長椅子に腰掛けて、ガルシアは本を読んでいた。
「お茶を、お持ち致しました」
セイレーンの声など聞こえていないかのように、顔を上げることすらしない。
セイレーンは無言で、ワゴンの上のカップを手にした。震える手が不自然にカップを滑らせて、陶器の澄んだ音を部屋に響かせる。
「今は要らぬ」
ガルシアは本を見たまま、普段と変わらない声で言った。その声もいつの間にか、低い大人のものになっていることに、セイレーンは今さら気づいた。
「で……ではお下げ致しま……」
「セイレーン」
本を閉じて、ガルシアは顔を上げた。
「来い」
金の瞳が、まっすぐに自分を見る。その鋭さに畏れと羞恥を感じて、とっさにセイレーンは俯いた。
「――来い」
静かに、繰り返す声。
セイレーンは俯いたまま、おずおずとガルシアに近づいた。
ガルシアは立ち上がり、右手を侍女の顎に当ててその顔を上に向けさせた。
人を射抜く金色の眼に宿る光は、幼いころから変わらない。だが今では、その目はセイレーンの目線よりも高いところにあって、彼女を見下ろしている。
「……ガルシア様」
「私が好きか、セイレーン」
その声は穏やかに響き、けれど心を波立たせる。
「それとも、嫌いか」
「い……いいえ!」
思わず、声が大きくなる。セイレーンがはっと我に返ると、ガルシアは優しく微笑んだ。
あの日とは別人のような静かな抱擁に、セイレーンも拒むことはできなかった。
――
書庫から自室に戻る途中、ラルフはガルシアの部屋の前で足を止めた。
微かに、洩れ聞こえてくる声。
……セイレーン?
侍女の優美な笑顔が、脳裏に浮かぶ。数多い侍女の中でも、最も安心を得られた笑顔。
そして、あの時一瞬見たガルシアの表情。
(あなた様の星はその者に飲まれ……)
かつて言われた予言が、心に浮かぶ。
ラルフは、静かに歩き出した。
――すべては、友のために。友の手に。
それが自分の運命であることを、ラルフは改めて感じていた。




