Part1 2.魔力のもたらすもの
診察を終えてウィストリアの部屋を出た侍医は、カタリナに向かって言った。
「一体何をしたのだ、カタリナ。ここ数日落ち着いておられたのに……」
厳しい口調で諌められて、カタリナは恐縮して頭を下げる。
「申し訳ございません! 私はただ、ラルフ様のことを」
「ラルフ様の?」
髭を生やした壮年の侍医は、その名を聞いて表情を曇らせた。
「は、はい。ラルフ様が先ほど裏庭で、山鳩を大勢従えるようにしていらして……話をなさっていたとかおっしゃるのを、奥様に申し上げたら……」
眉間に皺を寄せて、侍医はため息をついた。
「……滅多なことを。ラルフ様のことは極力お知らせするなと、あれほど言ったではないか」
「ウィストリア様のほうから、お尋ねになられたものでつい……それに、ご自分のお子様のことですわ」
「それでもだ! ウィストリア様は、心のご病気なのだぞ。何より、ラルフ様のことを一番恐れておられるのだからな」
ウィストリアが現魔天公爵エヴァンと出会ったのは、丁度十年前の春、エヴァンが公爵となる以前のことである。体は弱かったものの、もとは朗らかな優しい娘だった。
エヴァンの正室フランシスは、権門であるルボン侯爵の娘で、二人は成人前に式を挙げた。完全な政略結婚ゆえ、夫婦はなかなか打ち解けなかった。子供は成しても、夫は気位高い妻に飽き足らず、幾人も側室を迎えた。
そのうちに見出された娘が、ウィストリア・クー・バージェである。
生家は男爵家とはいえ弱小貴族で、公爵の後継に相応しい家柄とは言えなかった。そのためにエヴァンは当初自分の身分を隠し、密かに愛を育てていた。
が、しばらくしてその仲が知れ、エヴァンは周囲の猛反対を受けた。愛する人が次期魔天公爵と知り、ウィストリアも別れを覚悟した。しかしエヴァンは彼女を愛し必要とし、やがて彼女を側室として、公爵の本邸に迎え入れたのである。
離れに住まう彼女への偏愛は、公爵の親族やほかの側室、特に正室の著しい不興を買い、ウィストリアに対する風当たりは強かった。数年後、二人の間にラルフが生まれてからはなお一層、ウィストリアは針の筵に座るがごとくの心労の日々だった。
その上、魔天王の交代に伴い王国の執政に変化が起こり、その少し前に公爵位を継いでいたエヴァンが執務に忙殺されているうちに、ウィストリアの精神は次第に不安定なものになっていった。
そして、その子供が――ラルフが母を元気づけようとしたことが、逆にその心の破綻を決定的なものにしたのだった。
「呪文も碌にご存じないはずのラルフ様が、いとも容易くウィストリア様の体を宙に浮かせたときは、我らとても驚愕したものだ。
『飛翔』は、決して低位の魔術ではない」
恐怖したウィストリアは絶叫し、エヴァンが宥めようとしても、首を振って逃げ惑うばかりだった。
その発狂に際して仕方なく、エヴァンは断腸の思いで母子を遠方へ移した。
「いっそのこと、ラルフ様は母君とお離ししようかと提案されるほどだったのだ」
「そんな……! ラルフ様は心底、お母様を慕っていらっしゃるのに」
「うむ……まだいとけない、幼子であられることだしな。
ウィストリア様も少しずつ落ち着かれて、姿さえご覧にならなければ、ラルフ様のことを思いやられることとておありなのだが……しかし、ラルフ様はお力がありすぎる」
侍医は、畏怖するような表情で言う。
「あの方の魔力は測りしれぬと、公爵直属の最上級魔術師も言っていた。ご成長の暁には、どれほどの術者となられるか想像もつかぬ」
カタリナも、返す言葉がなく黙り込む。
「とにかく、ラルフ様はもうしばらくの間、ウィストリア様に近づけぬことだ。ラルフ様のためにも、それがよかろう」
侍医は幼子に同情をしつつも、医師としてウィストリアを守ることを優先するほかなかった。




