17.一夜の名残
ドルアーグは満足だった。
目論見通り、レ=オンは妻を迎えて出歩くのをやめ、王太子の義務をよく務めていた。マルガレータとの夫婦仲も良好のようで、すぎた嫁に感謝の思いは尽きなかった。
唯一の危惧するところは、レ=オンの言った「想う女」のことである。
が、その後レ=オンも忍び出ることはなく、注進してくる者もいない。あの晩で上手く片をつけたのだろうと、不問に付すことにした。
「若い時分の恋情は、誰しもあることよ。時が忘れさせてくれよう。なあ、スエロ?」
「……御意」
レ=オンの侍従は無表情で、王の言葉に頭を下げた。
――
カミーユは遠い子爵邸で、風の噂にレ=オンのことを伝え聞いていた。新しい妃とは仲睦まじく、じきに後継も望めるだろうと人々は噂した。
(怪しまれぬよう、妃とは不仲にせぬだろう。あれには、秘することもできぬ)
(……マルガレータ様に、お話になりますの?)
(『妻』がほかにいることはな。マルガレータはもともと、王家に嫁がせることを期して育てられたはず。
己が誇りを守ろうと、胸に秘めておくだろう。自ら望んで妃になるわけもないのだろうから)
レ=オンの言葉は同情に満ちていて、カミーユは複雑な思いに駆られた。
(お前は私を信じろ。表面上どうあろうと、私が想うはお前だけだ)
(レ=オン様……)
(――愛している、カミーユ)
そう言って、その腕はまたカミーユを求めた。
――
あの夜から、もう三ヶ月が過ぎていた。
あれはなんて、残酷な時だったのだろう。
息苦しいほど、幸福だった。
痛いぐらい抱きしめる腕に身動き一つできず、掴まれた手首にまだ痕が残っているような気さえする。
(あの方の瞳、唇……こんなにはっきりと、憶えている)
ともすれば零れようとする涙を、カミーユは必死に堪えていた。
いくら思い返したところで、あの夜は二度と還りはしない。あの永遠の刻は、凍りついたままなのだ。
(私は、それを抱えて一生生きていく。たった一人で――)
「カミーユ様、子爵様がお呼びです」
侍女の声に、カミーユははっと我に返った。
「今行くわ」
悟られてはいけない。
あの日のことは、ウラカのほかに知る者はいないのだから。
――
「――そんな、旦那様!」
「……ウラカ?」
カミーユが父の部屋に入っていくと、子爵が満面の笑みを湛えて迎えた。
「おお、カミーユ」
「姫様……」
ウラカが哀しげに振り返る。子爵は軽くため息をつき、頭を振って笑った。
「まったく、お前の乳母は困り者だ。主人の幸福よりも、自分の寂しさが優先すると見える」
「……なんのお話ですの?」
「お前の縁談だ」
「縁……!」
子爵は上機嫌で、カミーユを見つめた。
「卑しくも魔天公爵の血を引く者だ、これまでなかなか思い切れずにいたが、此度の話はあのラミレス伯爵からなのだ。
公爵家に次ぐ、モルティン侯のご令息だぞ。次男ながら、その才覚に若くして伯爵位を賜ったラミレス卿ならば、公爵のご令嬢をお迎えしてもよいほどなのに……なんと、あちらからお前を是非にと言ってこられたのだ」
父は舞い上がって、言葉を続ける。
「先日の、ローディ伯の茶会に招かれた際、お前を見初めたらしい。
大変なご執心だと、侯爵からもお口添えがあって……いやまったく、これ以上の良縁は望むべくもあるまい」
絶句している娘にようやく気づき、子爵は自重して、声の調子を落とした。
「いや……伯爵のご本宅は、少しばかり遠方であるからな、少々不安がないではないが、お前ももう」
そこまで言いかけると、カミーユが言葉を遮った。
「お断りしてください」
「……何?」
カミーユは毅然とした目で子爵を見る。
「嫁ぐ気などありません。……お断りくださいませ」
「な……」
子爵は目を剥いて、娘を見返した。
「何が不満だ! この話のどこが……」
「別に、伯爵様に不満があるわけではございません。私は生涯、どなたにも嫁ぎません。
――そう決めたのです」
その言葉と瞳に、嘘はなかった。子爵は見る間に顔色を変え、眉を吊り上げた。
「何を馬鹿なことを! 許さんぞ、カミーユ!」
「お許しいただかなくとも、結構です。お目障りでしたら、家を出ます」
「なっ……」
子爵は怒りにうち震えて、声も出ない。
ウラカはおろおろと、二人のやり取りを見ているばかりである。
「お話が済みましたなら、これで。失礼致します」
背を向けて出ていこうとする娘に、慌てて父は駆け寄った。
「ま……待て、カミーユ! 話はまだ済んでおらん!」
カミーユの腕を掴んで、がなり立てる。
「許すものか! お前は……」
「旦那様!」
ウラカがその剣幕に驚いて、二人の仲裁に入ろうとした。が、その前にカミーユが自力で子爵の腕を振りほどき、その瞬間、崩れるように倒れ込んだ。
「カミーユ!?」
子爵が抱き起こすと、カミーユの顔色は真っ青になっていた。
「姫様!?」
「……侍医を呼べ! 何をしておる、早く!!」
カミーユは、その声を遠く聞いていた。
――
執務室にいたレ=オンは、不意に顔を上げた。
「レ=オン様?」
スエロが怪訝そうに声を掛ける。
(……カミーユ!?)
遠い地にいる恋人に、何かがあった。
レ=オンはそう感じながら、必死にカミーユの気配を探っていた。




