4.魔天公爵
「では、西域はもはや危惧する必要はないか」
チェスの駒を右手で弄びながら、ガルシアは言った。
「ああ。エルフの里長どもは、軍の機嫌を取り結ぶことに必死だ。背叛の気配など、微塵もない」
盤上の「王」を眺めながら、真向かいに立つ長身の男が答えた。
白い戦装束にマントをまとい、竜の爪から削り出した膝当てのほかは、鎧らしきものも身につけていない。
左腰には、反り返った片刃剣を帯びている。
白魔族の王と呼べる魔天公爵、ラルフ・ユージィン・ヴォルグナー。
物静かで整った顔立ちは、まったくの無表情であった。肩に掛かるほどの後ろ髪は細い紐で束ねてあるものの、やや長めの前髪が右目にかかり、それがなおさら心中を察しにくくさせている。
王宮の中奥、王の私宮の一室。
久しぶりに二人の王が揃い、談笑とも談合ともつかぬ、宵の時を過ごしていた。
王の部屋にしては簡素な室内に、窓はない。中央に卓が一つ、その四方に椅子があるのみである。
卓上に置かれた、たった一つの燭台が、その周囲だけを妙にくっきりと照らしていた。
燭台の傍らには、一揃いのチェスが広げられている。
座しているガルシアが、頬杖をつきながら駒を動かしているだけで、ラルフは別にゲームの相手をしているわけではなかった。
「ふむ……では、これで詰み、か」
ガルシアは「騎士」を動かし、呟いた。
「さて、次はどうするか」
「どう攻めようと、大差あるまい。気になるのは、むしろ手中の駒だ」
そう言いながら、ラルフは「歩兵」を一つ手に取った。
「獅子身中の虫――と呼ぶには、いささか寸足らずだな」
ガルシアはラルフの手中の「歩兵」を一瞥し、鼻先で笑った。もっとも、ガルシアという男は常に、微笑を絶やさない。
それは、支配者の余裕の表れにほかならなかった。
「しかし『歩兵』といえど、位置によっては『女王』を奪うこともできる。
そういうことか、ラルフ」
燭台の炎が、金の瞳に照り返る。
一方ラルフの前髪には橙の光が射すばかりで、空色の瞳は闇青色に翳って見えた。
「忠告するつもりなどない。お前には、考えあってのことだろう」
「無論。何より、この『女王』は強い。ゾノバにも言ったことだが、“あれ”には手に負えぬ。
私以外に、手中にできる者があるとすれば」
駒からラルフへと視線を移しつつ、ガルシアはまた笑う。
「お前くらいのものか」
「――つまりは、誰においても不可能だ」
盤上の「女王」を見つめ、ラルフが呟いた。
と、その次の瞬間には「歩兵」を置き、まっすぐにガルシアへ向き直る。
「次に私が行くべきところは?」
魔天軍の総帥は、ガルシアである。
魔天王、ルーク・ガルシア・ディ・ラング・フォース。
先の魔天王の長子でありながら、貴族・王族階級にはありえない黒・白両魔族の混血であり庶子であるがゆえに、最も王位から遠かった。
それが、並外れた絶大なる魔力によって覆されたのは、およそ百年前のこと。
突如現れた人間の軍隊との、王国の存亡を賭けた戦いの時だった。
前魔天王は、侵略者に敗れ命を落とした。
王宮に迫らんとしていた侵略軍を、ガルシアとラルフが殲滅したのである。
魔族とは、力ある者が王たるべき国である。
ゆえに、ガルシアは王位に就き魔天王となった。
以来、政情不安であった魔族を魔天王の名の下に統一し、やがてエルフ・妖精・巨人・小人・人間――すべての種を制さんがため、かつてない大戦を巻き起こした。
有史以来、おそらくは王位を得た者が一度は夢見、果たし得なかった全土統一は、今まさに成し遂げられようとしている。
争うことによってしか生を知らずにいた愚か者どもの棲む世界に、希望の言葉としてのみ存在していた「平和」という名の時代が、訪れようとしているのだ。
ラルフは、それを幼いころより知っていた。
やはり庶子であった自分が、初めて自身の魔力の強大さを知った日。
(どこかへ連れていって! あれは……あの子は、私の子などではないわ!
あんな、あんな恐ろしい、力……!!)
母は自分の力に怯えていた。それきり、二度と会うことはなかった。
そして自分は、遠い地で友を得た。
父もなく、母もない。お互い、ただひとりきりの同胞。
(王の星をお持ちじゃ。――この世にあまねく渡る、真の王の。お望みならば、その手にすべてを得られよう)
人里離れた屋敷で暮らしていたころ、盲目の占者が迷い込んできた。
その老婆が年端もゆかぬ自分に語った言葉を、今もラルフは覚えている。
(じゃがお側にもう一人、同じ星を持つ者がいる……。
あなた様の星はその者に飲まれ……ただ、その者のためにのみ、生を捧げることとなる)
同じ力を持ち、同じところにありながら、まったく異質の心を持つ友。
権力を渇望する野心を。
(その運命に従うのなら、それもよし。じゃが、もしも……)
「私が行くべきところは?」
いつも尋ねる。
対等の友と認め合い、それゆえに付き従う。
――我が道は、我が友の征く道。
蒼い瞳が語る決意を、無論、王は知っていた。




