1.最悪の出逢い
これは、かの王が生まれる以前の物語。
やがて世界を揺るがす炎となる、一番はじめの火種。
誰に知られることなく燃え上がり、消えていった小さな……
小さな、想い――
――
夏の始めの昼下がり、穏やかな陽光に緑が美しく映えていた。
屋敷内には魔族の人々が、白きも黒きもさざめき笑い合い、宴の準備はつつがなく執り行われている。
王宮の東方に位置するロメオの街、ここは街の南側に離れた丘の上にある、魔天公爵の別邸である。
公爵の屋敷にしては手狭だが瀟洒なこの屋敷で、今日は魔天王も招いての貴族の集会――と無粋な呼び方の似合わぬ、華やかな宴が催されることになっていた。
夕暮れ前でまだ主人の挨拶も行われていないが、すでに招待された有力貴族は到着し、大広間に集って談笑し合っている。厨房や裏方の者は忙しく働き、間もなくの開宴を皆が心待ちにしていた。
その中で騒がしく、表側の廊下を走り回っている女たちがいた。
「姫様ー!
姫様、カミーユ様ーっ!!」
白魔族の侍女たちが、廊下から階段へと慌ただしい声を響かせている。
「公爵の邸内だぞ、騒々しい。
ウラカ、カミーユはどうしたのだ」
口髭を貯えた中年の白魔族が、一人の侍女を捕まえて顔を厳めしく曇らせた。
背は低いが招待客の中でも一際品があり、着飾ってはいないものの、白装束にそこはかとなく威厳を漂わせている。
「申し訳ございません、子爵様。先ほどから、お姿が見えません」
小太りで少し歳のいった侍女が、恐縮して頭を下げた。
「控えのお部屋にも、広間にも……お屋敷の隅々まで、お探ししているのですが」
「――またか!
今日は魔天王陛下も、王太子殿下を伴われてのご臨席なのだぞ!?
それを公爵の血縁たる、ヴァロア家の娘ともあろう者が……!」
主人の叱責に、その娘の乳母でもあるウラカは、丸い体をさらに丸めて身を縮ませた。
「ええい、探せ、探せ!
お目通りの時までに、探し出すのだ!」
「は、はい!
姫様ーっ! カミーユ様、どちらにおられますかー!?」
――
そのころ、中庭の茂みの中に、何か動くものがあった。
「……ふうっ!」
四つん這いになって出てきたのは、美しく着飾った白魔族の娘だった。
長くウエーブがかった髪に木の葉が絡みついていて、とても貴族の令嬢とは思えない格好である。
「どうにか抜け出したわ」
娘は髪とドレスを叩きながら、大きく深呼吸した。
「まったく、陛下ご臨席の宴席だなんて、冗談ではないわ。
こんなところまで連れてこられて、縁談を強行されでもしたら、断るのも一苦労しそう。
お父様も、数多い娘のうちの一人ぐらい、不出来を諦めてくださればいいのに」
ぶつぶつと文句を言っているこの娘こそ、ヴァロア子爵令嬢カミーユ・フォン・ヴァロア、その人である。
カミーユは勝気そうな目で辺りを見回すと、その場に座り直して天を仰いだ。
雲一つなく広がる空は、いつにも増して青い。
見つめていると、吸い込まれていきそうである。
――こうしていると、自分がとても小さなものに感じられる。
手を伸ばせば届きそうでいて、決して掴めないあの青。この瞳には同じ色が宿っていながら、なんて遠く隔たっているのか。
風の音が、静かに辺りを渡ってゆく。
カミーユは目を閉じて、じっとその音に聞き入った。
そうして座っている様は、高貴で美しい。
体つきは優美で顔立ちも整い、大きな瞳は空よりも明るく、澄んだ青である。袖なしの白いドレスの上に青い薄布が全身を覆う重ねの衣装で、華奢な腕が青の向こうに、ほんのりと透けて見える。
胸元に子爵家の紋章を型取った銀の飾りが光り、ほかには装飾品を着けていない。それがかえって、年頃の娘の艶やかさを際立たせていた。
誰が見ても申し分ない、父の子爵がその気性に悩まされながらも、溺愛して無理のない姿である。
ふと、遠くから誰かが呼ぶ声がして、カミーユは耳をそばだてた。どうやら庭のほうにも、捜索の手が伸びてきたようである。
カミーユは後ろを窺い振り返りながら、そっと立ち上がって足早に歩き出した。
と、足元に何かがあった。
「きゃ……!」
その「何か」に躓いて、カミーユは勢いよく、前に倒れ込んでしまった。
「痛っ!」
顔を上げると、そこには人の足があった。
「ぶ……」
「無礼者!」
思わず自分が怒鳴ろうとしたのと同じ言葉が返ってきて、カミーユは驚いた。
見ると、若い黒魔族の男だった。
自分と同じぐらいの年齢か。
綺麗すぎるほどの顔は非常に端整で、ことに珍しい金色の瞳が目を引く。黒の比較的ぴったりとした服装は貴族の子弟らしい礼装で、金細工で左肩に止めた黒いマントを、身体の下に敷いている。
少し長目の黒髪に草が付いていて、どうも昼寝をしていたらしい。
少年はまっすぐに、カミーユを睨んで言った。
「突然人の足に伸しかかるとは、何事だ!!」
「な……」
「さっさと退け!」
少年の足の上に覆い被さっていたカミーユは、慌てて上体を起こした。
「無礼と言うなら、そちらこそだわ。
こんなところに寝ていたら、踏まれても仕方がないでしょう」
カミーユも、きつく睨み返した。
「先ほどからの高慢なお言葉、私が誰か承知の上での非礼なのかしら?」
「お前こそ、私を誰だと思っている」
「さあ、存じませんわ。
でも宴を抜け出して、中庭で寝転んでいるところを見ると、ご身分のほども知れたものではないかしら」
「なんだと……!?」
取り澄ました顔でつんと横を向いたカミーユに、少年はさらに立腹して眉を吊り上げた。
「その様子では、抜け出してきたのはお前も同じだろう。どこの田舎貴族か知らぬが、とんだ令嬢もあったものだ」
「なんですって!?」
火花も散らさんばかりに睨み合い、双方一歩も譲らない。
「カ……姫様ー!」
「……ン様ー! レ=オ……ー!」
二人を探し回る声が、だんだんと近づいてきた。
少年はすっと立ち上がると、一段ときつい視線をカミーユに浴びせて、自分を呼ぶ声のするほうへ行ってしまった。
「姫様! まあ、こんなところにおいでで!」
その反対側から、ウラカが体を揺すりつつ、茂みを掻きわけて現れた。
「旦那様がお怒りですよ。もう宴も、始まっております」
主人を見つけた乳母が安堵のため息とともにそう言うと、カミーユは物も言わずに立ち上がった。
「カミーユ様? どうかなさいましたか?」
「戻るわ」
それだけ応えて、カミーユは屋敷に向かって歩き出した。
「何よ、あの男……!」
小声で何か呟くカミーユの様子に戸惑いながら、ウラカは忙しくそのあとを追った。
――
「どこに行っていたのだ、カミーユ!」
廊下で待っていた子爵は娘を見るなり、駆け寄って怒号を上げた。
「まったく、もう間もなく陛下のお言葉があるところだぞ。
なんだ、髪もこんなに乱れて!」
カミーユは仏頂面で、返事もしない。
「ウラカ、カミーユの身なりを整えろ。私は公爵に挨拶せねば」
乳母にそう命じると、子爵は大広間のほうへと慌ただしく去っていった。
「カミーユ様、こちらへ」
ウラカは控えの部屋へカミーユを促し、鏡台の前に座らせた。
「本日は王太子殿下もいらっしゃるのですから、きちんとなさいませんと」
手早く、カミーユの髪を梳かし始める。カミーユは相変わらず黙り込んで、先刻の少年のことを考えていた。
……一体、誰だったのか。
黒魔族の貴族はあまり知らないけれど、あんな横柄な態度は、見たことがない。
「殿下はカミーユ様とお歳も近くていらっしゃいますし、少しばかり殿下のほうがご年少であられますけれど、よいお話相手になられるかもしれませんわ。
王族にしては気さくで、快活な方だそうですから」
ウラカが話しかけるが、カミーユは聞き流して考え続ける。
――誰だか、従者が名前を呼んでいた。
なんて言っていたか……確か、レオ……?
「さ、よろしゅうございます。では、大広間のほうへ」
乳母の言葉に曖昧に頷き、宴の会場へ向かう。
扉の前で警護の兵に礼をされ、ウラカに見送られて、大広間の中に入ったその時。
「我が嫡男レ=オンも、次なる魔天王として、皆の支援を受けられることを……」
広間の奥に設えられた一段高い上座から、魔天王が挨拶をする声が耳に入ってきた。
見ればその傍らに、一人の少年が立っている。
カミーユは、あっと声を上げそうになった。中庭で会った、あの少年だったのだ。
「やっと支度ができたか。早くこちらへ参れ!」
王を見上げて話を聞いている人々の中から、子爵が小声で呼んだ。
「何をしている、カミーユ!」
子爵は周囲を気にしながらやってきて、呆然としている娘の手を引いた。
「エレノアが病に伏しているので、代わりに娘のお前を連れてきたというのに。
陛下のお言葉も、もう済んでしまうではないか」
――陛下の、ご嫡男。
ぼんやりと王のほうを見ている娘の様子に気がついて、子爵は言った。
「ああ、お前はまだ、存じ上げていなかったな。
陛下の横におわすお方が王太子殿下、レ=オン様だ」
その瞬間、カミーユとレ=オンの目が合った。
魔天王の挨拶が終わり、拍手が起こって静まると、あちこちで思い思いの会話が始まった。
大柄な体躯を黒服で包んだ魔天王は、座に着席し、小さなため息をついた。
時の魔天王の名は、ドルアーグ。
若き日々を戦場で長く過ごしたその勇猛さと、多くの子を様々な女性に儲けたその多情さで、他種族にも有名な「荒振る王」である。
豊富な髪や鼻下から顎全体を覆う見事な髭が、鷲鼻や吊り上がった眉と相まって、王者の風格を漂わせていた。
容貌の似ていない息子をちらりと見て、王は零した。
「まったく、お前がおらぬので、挨拶も滞ってしまった」
父親の愚痴を意に介さず、レ=オンは小声で囁いた。
「父上、あの者ご存じでございますか」
レ=オンが指差す方向を見て、王は答えた。
「ん? ああ、ヴァロア子爵か?
ジルベール・ヴォン・ヴァロア、先代公爵の従妹筋に当たる有力者だ」
「その隣の娘です」
「……おお、カミーユか。子爵の第四女で、女子の中では唯一の嫡出よ。
活発すぎるのが珠に瑕だが、美貌も魔力も、公爵令嬢にも優ると評判の娘だな」
――魔天公爵の一族の、子爵令嬢。
(なるほど、道理でな)
(あの傲慢な態度……!)
「あの通り、王妃様譲りの端麗なご容貌に、魔力も高くていらっしゃる。
ご性情も素直で……」
(社交辞令も弁えないで、素直どころか、無礼と呼ぶべきよ)
「勝気なのは、身に持つ才の高さゆえだろう。
子爵には不満もあるようだが、幾度か話した様子では聡明で明朗な、心根の優しい娘だと感じた」
(勝気も過ぎると、愛嬌では済まぬ。女の自尊は、恥ずべきことだ)
「戦も続き、亡き王妃様は病がちで、陛下には待望のご長男であられた。
皆の愛情を一身に受けられ、自由奔放にご成長なさったところが、人望も集められた所以であろう」
(甘やかされて育ったものだから、あんなに尊大になったのね)
「子爵自身も、結局のところは目の中に入れても痛くない、というほどの溺愛ぶりだ。
公爵にも目をかけられ、可愛がられているらしい」
(窘める者もおらぬから、ああも我が強くなるのだ)
(――まったく、なんて……)
(なんて女だ……!)
これが二人の、出逢いだった。




