2.拾われた敵
遠くで声がする。
微かに、笑い声。
(どうした、もっと打ちかかってこい!)
愉しげに嘲り笑う男の声。
その姿が、ぼんやりと見える。
(その程度か。残念だったな!)
男の右手が大きく振り上げられ、その手に握られた剣の先端が、鈍く光った。
(人間にしては、なかなかだったぞ。さらばだ!)
左肩から右の腹まで貫かれる衝撃。
体は熱く、芯が痺れ、生温かい何かが肌を覆う。
力が抜ける――落ちていく。
――俺は、死ぬのか。
冷たい流れ。
その冷たさすら、次第にわからなくなる。
わからなくなる。
「酒を。ああ、それでいい」
女の声。
「イレー……!」
誰かの驚く声。
同時に、唇に柔らかなものが触れた。
熱いものが喉の奥に流れ込む。
「すぐに意識も戻る。私の幕舎に運べ」
「……ははっ」
遠い声。足音。
暖かな光――
「気がついたか?」
その声にラシードは飛び起き、辺りを見回した。
薄暗い、広い幕舎内だ。
燭台が一つ二つ灯る中、敷布の上には衣装箱や小さな卓台が整然と置かれ、その上に酒瓶や果物籠が並んでいる。
天幕からは仕切りの布が幾重にも垂れ下がり、その向こうに寝台がほのかに見えた。
――傍らに、気配と視線。
それを感じて横に立つ男へ目を移そうとした時、奥の椅子に座る女が視界に入った。
思わず、ラシードは息を呑む。
そこには人間と同じ姿の、いや、人の範疇を遥かに超えた美しさの女が、自分を見下ろして座っていた。
長い金髪、紅紫の瞳、踊り子と見紛うほど手足の露な白い衣装が、同じく白いマントから覗く。
首元には、黄金のチョーカーが光っていた。
「ま……」
声が震える。
「まさか……イ、イレーヌ!?」
「――ほう?」
名を呼ばれ、女が笑った。
魔天七将軍の一人であり、魔天王ガルシアの愛人。
人間軍なら、今や知らぬ者はいない。
イレーヌ・ラ・フォンテーヌだ。
「どうした。まだ意識がはっきりせぬか」
女が笑う。
その瞬間、体にほのかな痛みが走り、ラシードは我に返った。
見惚れている場合ではない。
目の前にいるのは、敵だ。
とっさに剣を取ろうとして、丸腰であることに気づくより早く、ジークの剣が喉元に突きつけられていた。
「それ以上動くな」
「せっかく助けてやった命を、また散らせるつもりか?」
イレーヌが、揶揄を含んだ口調で言った。
――助けてやった?
そう言われて、ラシードははっとする。
自分の服はあちこち裂けているが、体には傷一つ残っていなかった。
あの時、たしかに無数の剣を受けたはずなのに。
「痛みは、いくらか残っていようが」
「助けただと? 俺を!?」
ラシードは敵に目を向け、再び自分の体に視線を落とす。
生きている。
しかも、まったく怪我もなく。
「クラウ河で沐浴中、そなたが流れてきたのだ。虫の息であったが、そなたは運がいい」
イレーヌは微笑を浮かべ、続けた。
「ほかの者は、おそらく全滅であろうよ。あの男と対峙したとあってはな」
――あの男。
ラシードの脳裏に、自分を嘲る笑い声が蘇る。
「ダイスは魔天軍きっての剣士だ。いや、剣鬼というべきか」
あの男、ダイス。
ダイス・グウィド。魔天軍随一の剣術を誇る黒魔族だ。
「あの男、ぶっ殺してやる!!」
「どうやって?」
叫んだラシードに、イレーヌは立ち上がって尋ねた。
「どうやって殺すのだ。ここから逃げ出すのか?
この私から?」
答えに詰まったラシードに、なおも畳みかける。
「よしんば、無事逃げられたとしても、だ。
あれほど嬲られた程度の腕では、ただの一太刀すら、ダイスに浴びせられまい」
ラシードは反論できなかった。
これまで、剣技には自信を持ってきた。
少なくとも、人間軍の中では比類なき腕であったはずだ。
だが、真の剣鬼の前では、赤子同然だった。
「まずは腕を磨くことだ。剣は言うに及ばず、魔術も必須。
剣士といえど、魔天軍の将軍は皆、なんらかの魔術を修めている。ダイスはさほどでもないが、側近には有能な魔術師が常に控えているゆえな」
「……生きてりゃな!」
「何?」
「どうせ俺を、魔天王にでも突き出すんだろうが!
それともあの男に、ダイスに送りつけるのか!?」
吐き捨てるように言うラシードに、イレーヌは高らかに笑った。
「わざわざ傷を治して送りつけるだと?
なぜ私が、あの不心得者の愚劣な遊興に倣わねばならんのだ!」
イレーヌは歩み寄り、ラシードの顔に近づいて囁いた。
「そなたの願いを叶えてやろう。ダイスを殺せ」
「……なっ!?」
ラシードはもちろん、ジークも驚愕の表情を露わにした。
「イレーヌ様!?」
「すぐには無理だ。先ほども言った通り、まずはそなたを鍛えねばならぬ。
そして時が来た暁には、本懐を遂げるがいい。私が協力してやろう」
「ば……馬鹿言え!
てめえの仲間を殺そうってのか!? 魔天王を裏切る気かよ!」
たじろぐラシードに、イレーヌは笑みを崩さず続けた。
「このジークは、剣技においては将軍にも引けを取らぬ。
そなたの師として、これ以上望むべくもない。悪い話ではなかろう?」
「そ、そんな戯言を、信じろってのか」
気圧され、ラシードの声が細くなる。
「不心得者――と言ったであろう」
イレーヌはくるりと背を向け、椅子に座り直した。
「魔天軍には、もはや要らぬ者だ。あれは害をなす。陛下にとってもな」
一瞬、ジークですら背筋に悪寒が走った。
口元の笑みとは裏腹の冷たい眼差しは、イレーヌの美貌を魔女のように見せる。
「魔天軍にも少数ながら人間はいるが……用が済めば、そなたは自由だ。
仲間の許へ戻るなり、なんなりと好きにするがいい。
――どうせ逃げられぬのだ。騙されたと思って、留まってみてはどうだ」
イレーヌに見据えられた。
――声が出ない。
体も動かない。痛みのせいか。
硬直するラシードを見て、イレーヌは少しだけ目つきを和らげ、尋ねた。
「そなた、名は?」
どうにか息をして、ラシードは上目遣いになる。
「……ラシード。
ラシード・カルディオス……だ」
なんとか答えると、魔女の顔は慈愛に満ちた微笑みに変わった。
「ラシードか。
明日の日没まで、猶予をやろう。
己が幸運を、考えてみることだな」




