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MASTERY - マスタリィ【第1部】  作者: 洲澄英里
Period 1 MASTERLESS - 第1章 神の眷族
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2.拾われた敵

遠くで声がする。

微かに、笑い声。


(どうした、もっと打ちかかってこい!)


愉しげに嘲り笑う男の声。

その姿が、ぼんやりと見える。


(その程度か。残念だったな!)


男の右手が大きく振り上げられ、その手に握られた剣の先端が、鈍く光った。


(人間にしては、なかなかだったぞ。さらばだ!)


左肩から右の腹まで貫かれる衝撃。

体は熱く、芯が痺れ、生温かい何かが肌を覆う。


力が抜ける――落ちていく。


――俺は、死ぬのか。


冷たい流れ。

その冷たさすら、次第にわからなくなる。


わからなくなる。


「酒を。ああ、それでいい」


女の声。


「イレー……!」


誰かの驚く声。

同時に、唇に柔らかなものが触れた。


熱いものが喉の奥に流れ込む。


「すぐに意識も戻る。私の幕舎に運べ」


「……ははっ」


遠い声。足音。


暖かな光――



「気がついたか?」


その声にラシードは飛び起き、辺りを見回した。


薄暗い、広い幕舎内だ。

燭台が一つ二つ灯る中、敷布の上には衣装箱や小さな卓台が整然と置かれ、その上に酒瓶や果物籠が並んでいる。

天幕からは仕切りの布が幾重にも垂れ下がり、その向こうに寝台がほのかに見えた。


――傍らに、気配と視線。


それを感じて横に立つ男へ目を移そうとした時、奥の椅子に座る女が視界に入った。


思わず、ラシードは息を呑む。


そこには人間と同じ姿の、いや、人の範疇を遥かに超えた美しさの女が、自分を見下ろして座っていた。

長い金髪、紅紫の瞳、踊り子と見紛うほど手足の露な白い衣装が、同じく白いマントから覗く。

首元には、黄金のチョーカーが光っていた。


「ま……」


声が震える。


「まさか……イ、イレーヌ!?」


「――ほう?」


名を呼ばれ、女が笑った。


魔天七将軍の一人であり、魔天王ガルシアの愛人。

人間軍なら、今や知らぬ者はいない。

イレーヌ・ラ・フォンテーヌだ。


「どうした。まだ意識がはっきりせぬか」


女が笑う。

その瞬間、体にほのかな痛みが走り、ラシードは我に返った。


見惚れている場合ではない。

目の前にいるのは、敵だ。


とっさに剣を取ろうとして、丸腰であることに気づくより早く、ジークの剣が喉元に突きつけられていた。


「それ以上動くな」


「せっかく助けてやった命を、また散らせるつもりか?」


イレーヌが、揶揄を含んだ口調で言った。


――助けてやった?


そう言われて、ラシードははっとする。


自分の服はあちこち裂けているが、体には傷一つ残っていなかった。

あの時、たしかに無数の剣を受けたはずなのに。


「痛みは、いくらか残っていようが」


「助けただと? 俺を!?」


ラシードは敵に目を向け、再び自分の体に視線を落とす。


生きている。

しかも、まったく怪我もなく。


「クラウ河で沐浴中、そなたが流れてきたのだ。虫の息であったが、そなたは運がいい」


イレーヌは微笑を浮かべ、続けた。


「ほかの者は、おそらく全滅であろうよ。あの男と対峙したとあってはな」


――あの男。


ラシードの脳裏に、自分を嘲る笑い声が蘇る。


「ダイスは魔天軍きっての剣士だ。いや、剣鬼というべきか」


あの男、ダイス。

ダイス・グウィド。魔天軍随一の剣術を誇る黒魔族だ。


「あの男、ぶっ殺してやる!!」


「どうやって?」


叫んだラシードに、イレーヌは立ち上がって尋ねた。


「どうやって殺すのだ。ここから逃げ出すのか?

この私から?」


答えに詰まったラシードに、なおも畳みかける。


「よしんば、無事逃げられたとしても、だ。

あれほど嬲られた程度の腕では、ただの一太刀すら、ダイスに浴びせられまい」


ラシードは反論できなかった。


これまで、剣技には自信を持ってきた。

少なくとも、人間軍の中では比類なき腕であったはずだ。


だが、真の剣鬼の前では、赤子同然だった。


「まずは腕を磨くことだ。剣は言うに及ばず、魔術も必須。

剣士といえど、魔天軍の将軍は皆、なんらかの魔術を修めている。ダイスはさほどでもないが、側近には有能な魔術師が常に控えているゆえな」


「……生きてりゃな!」


「何?」


「どうせ俺を、魔天王にでも突き出すんだろうが!

それともあの男に、ダイスに送りつけるのか!?」


吐き捨てるように言うラシードに、イレーヌは高らかに笑った。


「わざわざ傷を治して送りつけるだと?

なぜ私が、あの不心得者の愚劣な遊興に倣わねばならんのだ!」


イレーヌは歩み寄り、ラシードの顔に近づいて囁いた。


「そなたの願いを叶えてやろう。ダイスを殺せ」


「……なっ!?」


ラシードはもちろん、ジークも驚愕の表情を露わにした。


「イレーヌ様!?」


「すぐには無理だ。先ほども言った通り、まずはそなたを鍛えねばならぬ。

そして時が来た暁には、本懐を遂げるがいい。私が協力してやろう」


「ば……馬鹿言え!


てめえの仲間を殺そうってのか!? 魔天王を裏切る気かよ!」


たじろぐラシードに、イレーヌは笑みを崩さず続けた。


「このジークは、剣技においては将軍にも引けを取らぬ。

そなたの師として、これ以上望むべくもない。悪い話ではなかろう?」


「そ、そんな戯言を、信じろってのか」


気圧され、ラシードの声が細くなる。


「不心得者――と言ったであろう」


イレーヌはくるりと背を向け、椅子に座り直した。


「魔天軍には、もはや要らぬ者だ。あれは害をなす。陛下にとってもな」


一瞬、ジークですら背筋に悪寒が走った。

口元の笑みとは裏腹の冷たい眼差しは、イレーヌの美貌を魔女のように見せる。


「魔天軍にも少数ながら人間はいるが……用が済めば、そなたは自由だ。

仲間の許へ戻るなり、なんなりと好きにするがいい。

――どうせ逃げられぬのだ。騙されたと思って、留まってみてはどうだ」


イレーヌに見据えられた。


――声が出ない。

体も動かない。痛みのせいか。


硬直するラシードを見て、イレーヌは少しだけ目つきを和らげ、尋ねた。


「そなた、名は?」


どうにか息をして、ラシードは上目遣いになる。


「……ラシード。

ラシード・カルディオス……だ」


なんとか答えると、魔女の顔は慈愛に満ちた微笑みに変わった。


「ラシードか。

明日の日没まで、猶予をやろう。

己が幸運を、考えてみることだな」

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