28.賢者
イレーヌたちは大陸から遠く隔たった南方、外海の上空を飛んでいた。
雲の上まで昇っていた飛竜の前には、入道雲風に盛り上がった形の、厚く連なる雲の塊がある。
その周囲は風もなく穏やかで、何かを守護するかのごとく、雲の表面がぼんやりと光って見える。飛竜はそのまままっすぐ、雲の中へと入っていった。
薄い靄のように柔らかな白い壁がどこまでも続き、飛竜の周りを取り囲んでいる。
「雲が避けていくな。これが『道』か?」
「ええ。もうすぐ、見えてきます」
白い壁の向こうでは、雷鳴が轟いている。イレーヌの表情が、無意識のうちに険しくなった。
凄まじい結界を感じる。位置の判明したところで、転位などできないだろう。
「あれです」
前方に雲の切れ間が見えた、と、途端にそこを抜け、飛竜は下降を始めた。
下の海上にさほど大きくなさそうな、緑に覆われた島が浮かんでいる。
「あの島が、ルーンか」
「はい。降りますよ」
陽の光は雲に遮られているはずなのに、島の周囲は明るかった。
飛竜は大きく羽ばたいて、静かに島の西側、少し拓けた海岸に降り立った。イレーヌは飛び降りて、辺りを見回す。
降りてみると思ったほど樹々があるわけではなく、林程度に緑が繁っている。
鳥の声が波音に混じって聞こえ、海岸の岩々には虫が這う。穏やかに吹き渡る風は、どこか優しい。
「特に、どうというところには見えぬが」
「見かけだけですよ」
ハートミィも降りてきて、イレーヌの傍らに並んだ。飛竜は翼を動かしたかと思うと、再び上空高く舞い上がり、あっという間に去っていった。
「実際には、この地の時間は止まっているようなものですから」
「では、賢者たちが数千年生きのびてきた、という話は」
「本当です。まるで年老いないわけではありませんけど。
結局は人間ですから、あなたのような妖精や、魔族のようには生きられません」
ハートミィの瞳の中に、何か翳るものがあった。
「しかし、それが『神』に選ばれた一族なのだろう。
人間は人のうちで、最も古い種族であるとも言われているしな」
「……こちらです」
ハートミィが、先に立って歩き出した。
「『ルーンの賢者』がいつからおられるのか、私たちセイントサイドの者も、知りません。
伝説通り、『神』の封印された時を本当にご存じなのかも、わかりません。
ただ、賢者様たちには魔力と異なる不思議なお力があって、それによって世界のすべてを“感じて”いらっしゃいます。ことに最長老様は、神に最も近い方であられるとか」
林の中の道を行きながら、ハートミィが語った。
「今回言われているご降臨も、百年以上前から、予見なされておられたようです」
「彼らは『神の声』を聞くのか?」
「いいえ、神からはお言葉の下ることはありません。賢者様は預言者ではなく、いわば『番人』ですから」
「番人……」
視線を感じて、イレーヌは振り返った。だが目の前には、美しい風景が広がっているばかりである。
「妙な気配だ。そこかしこに『気』を感じるが、何もおらぬ」
「ここは神の棲まう地――聖域です。魔力も、普通には働きませんよ」
ハートミィは窘めるような、揶揄するような口調で言った。
「……ほう」
イレーヌが警戒すると、ふっと笑った。
「といって、あなたが身構える必要はありませんけどね」
不意に辺りが暗くなり、霧が広がってきた。
「はぐれないでください」
霧はたちまち濃くなり、数歩離れてしまえば、お互いの姿も見えなくなりそうだった。すでに周囲の様子は、まったくわからなくなっている。
ハートミィはその中を、躊躇せずに歩いていく。
「先ほど、賢者は『番人』だと申したな。それはどういう意味だ?」
「『聖域』とも言ったでしょう? 神が封印なされ、眠りに就いていることは誰しも知っています。
――けれど、一体“どこ”に封印されているのか、考えてみたことがありますか?」
少年の口元が歪み、目が妖しく笑う。
「……それは、まさか」
「そのまさかですよ。“ここ”に、神がいらっしゃるのです」
イレーヌは思わず、立ち止まった。
「どうしました? 怖じ気づいたのですか」
「……そなた」
「神がお待ちですよ。あなたを」
先刻までとは別人に見える、少年の表情。
……何かに、取り憑かれているような。
この案内人は、見た目通りの年ではない。
イレーヌは一層、警戒心を強めた。
「なぜ、私を連れてきた。そなた、一体」
「会いたいと言ったのは、あなたでしょう?
――待っていたんですよ、私も」
「待っていた?」
「ええ。ずっと、お待ちしておりました」
ハートミィは笑っている。
瞳は怪しい光を宿し、イレーヌを見つめていた。
「……何を」
「あなたを、ですよ。妖精の、女王」
イレーヌはとっさに、魔力を高めた。その姿が、薄ぼんやりと光る。
「おや」
ハートミィが、片眉を上げた。
「私に、何をさせる気だ」
「怖いのですか?」
「聞いているのは私だ。そなた、何を考えている」
ハートミィは無言で、目を細めた。
「ふ……もう、遅い」
ハートミィの体を、霧が包み込み始めた。
「魔天王も甘い……言われるままに、あなた一人で、ここまで来させるとは」
その姿が、霧の中に吸い込まれていく。
「待て、ハートミィ!」
「ここは神の地。
もはや、逃れること叶わぬぞ……」
イレーヌの伸ばした手の先で少年は掻き消え、不気味な笑い声だけが反響して、やがて何も聞こえなくなった。
「――不覚!」
イレーヌは舌打ちした。
一見した時から、ただ者でないことは気づいていたのに。ハートミィから魔力をまったく感じなかったため、油断した。
しばらくの間立ち尽くしていたが、霧は一向に晴れる気配を見せず、鳥の声一つ聞こえてこない。
「考えたところで、なるようにしかならぬな」
ふっとため息をつくと、イレーヌは霧の中を歩き出した。




