23.伝説の神
これまで、魔天軍の進撃は順調なものだった。
その真の目的が達成されようとされまいと、魔天王の手に世界が落ちるだろうことは、誰も疑いようがなかった。
だが永すぎた乱世は、人の手によってのみ、争いの終焉を迎えるわけにはいかなかったのか。
陣営の隅の幕舎では、ジークが「それ」に関する、第一の報告を受けていた。
「……ディヴァイン・ドラゴン? 本当にそう言ったのか?」
ジークの目に、驚きの色が浮かんだ。
「はっ、確かに! ディヴァイン・ドラゴンの裁きが下る……と」
白魔族の兵士は怯えながら、表面は平静を装いつつ言った。
「少し前から、噂になっていたらしいのです。
出どころはわかりませんが、人間軍の間では、まことしやかに流れております」
「死に際の虚勢というわけでも、なさそうなのだ。
この先のアンビエの丘では、殉教者の集団自殺があったとの報告も聞いた」
イアンが厳しい表情で言った。
「百年前の例もあるからな、容易く信用できる話ではないが」
ジークは黙りこくり、思案する。
ディヴァイン・ドラゴン。
人ならば誰しも、畏怖の念なくては、その名を口にすることはできない。
それは神の名である。太古の昔、現世に実在したという全知全能の神。
魔族も妖精もない、人がすべてただの「人」でしかなかったころの、大いなる世界の父だ。
そして、人々が今のような数多くの種に別れた時、ディヴァイン・ドラゴンは自らを封印し、永い眠りについたと言われている。
最後の審判の、その時まで――
――
「なるほどな。この大戦が神を覚醒させた、というわけか」
夜に自分の幕舎で報告を受けたイレーヌは、宙を見ながら無感動に答えた。
「筋は通っているな。
少なくとも、百年前の空騒ぎよりは幾分、納得がいく」
神妙な面持ちで前に立つジークに目を向けると、揶揄を交えた口調で尋ねた。
「そなたはあのころ、まだ年端もゆかぬ少年か。知っているか?」
「覚えております。直接には、存じませんが」
「直接に、というのなら私も同様だ。まだ森の中で暮らしていたころ、伝え聞いただけの話だからな」
イレーヌは座り直して、軽く腕を組んだ。
「しかし此度のことも、この辺りだけに限る話ならば問題は……」
「失礼致します! ただ今、第五軍より使者が参りましてございます!!」
イアンが紐で封印された書簡を携えて、息を荒くしながら入ってきた。
「ディールから?」
イレーヌはその書状を受け取ると、すぐに開いて目を通した。
ジークはじっと、主人の挙措を見守る。
「誰ぞ、伝令を呼べ」
イレーヌは立ち上がり、呟いた。
「陛下のご判断次第だな」
――
王宮にはその日、立て続けに同じ報告が届いた。
人間軍の間で囁かれている、「神の復活」の噂である。
「ディヴァイン・ドラゴンですと……!?」
ゾノバは目を見開き、立ち尽くした。
「『封印』から何万年経つかわからぬのに、今になって二度までもその名を聞くとはな。よくよく、私は『神』と縁があるらしい」
玉座のガルシアは、小さく声を出して笑った。
「笑いごとではございますまいに……」
老師は滅多に見せない動揺を隠しきれず、珍しくも声を微かに震わせている。
「早合点することはあるまい。
どこかの痴れ者が妄想に取り憑かれたがゆえの、虚言とも考えられよう」
「神の名を騙る不届き者など、そうそういるものではございませぬ。
もしそうならば、何事もなく済みましょうが」
ゾノバは深く呼吸し、天井を仰いだ。
かつて、やはりその名が世界を駆け抜けたことがあった。
一人の人間が「ディヴァイン・ドラゴンの啓示を受けた」として、魔族に戦いを挑んだのだ。
事実その男の魔力は凄まじく、当時の魔天王とその父を、ともに葬ったのである。
人の中で最も長い伝統を持つ魔天王国の歴史は、そこで終わるかに見えた。
その危機を救ったのが、若き日のガルシアとラルフだった。
人知れず成人を迎えようとしていた二人が突然現れ、わずか五百の兵で二万の軍勢を全滅させ、その首謀者の首を持って王宮に凱旋したのである。
結局、その人間はディヴァイン・ドラゴンなどとは無縁の、ただの狂気に走った魔術師だった。
だが王も敵わなかった敵を、ガルシアは制した。その事実がガルシアを王位に就け、王太子や王妃、王女らが王宮を去る結果となったのだ。
今はもう百年も昔の、人間にはじかに知る者もほとんどいない、過去の話である。
「――あの折は、狂人の妄想にすぎなかった」
「陛下、此度囁かれているのはディヴァイン・ドラゴン“自体”の『復活』ですぞ。
よほどの確証なくしては、とてもそのような騙りはできますまい」
「確かに、少々厄介やもしれぬな」
ゾノバの言葉に、ガルシアも思案気な表情になる。しかし、口調は普段の余裕を失ってはいない。
「悠長なおっしゃりようを……」
「お前も『信者』であったのか? ゾノバ」
「陛下……!」
「わかっている。そう急くな」
ディヴァイン・ドラゴンの伝説は、宗教となって語り継がれてきた。
そもそもは魔術も、「神の治める自然の力を、その許しを得て借りる行為」という概念のものだったのである。
白魔術の術者を「僧侶」と呼ぶのも、その称号が「アカライト(侍僧)・ヒーラー(信仰療法家)・ハイプリースト(高僧)・ペイトリアーク(総大司教)・セイント(聖人)」と続くのも、元々は聖職だった証である。
もっとも今では、名ばかりの称号でしかない。術者としての僧侶は、必ずしも教会に従事する者でも、神を信じる者でもない。魔術の源である「自然の力」が「神の力」だと信じる者は、数少ない本当の「聖職者」たちであり、それが「信者」と呼ばれる者だ。
しかし、この世の人は誰しも皆、生まれながらに「神」の存在を信じている。
ディヴァイン・ドラゴンの名に畏れを抱き、我知らず平伏する。
理由は、宗教としての力ではない。
「神」がただの伝説ではないことを示す存在が、今も世界にあるからだった。
「真偽のほど、確かめねばならぬな。
……探ってみるか」
「陛下、もしや」
ゾノバははっとして、王を見た。
「『神』のことは、『神の代理人』に尋ねるがよかろう」
王は静かに言うと、目を閉じて笑った。




