19.将軍招集
雨はその後三日三晩降り続け、やがてその役目を終えた。
一年で最も光に満ちた季節、雨季明けの春、「盛春」の到来である。
空気はまだ水の匂いを含んでいたが、陽の光は眩しく世界を照らしだす。木々の緑が空の青に映え、野も森も、洗われたすべてが生の息吹に輝いていた。
そして人だけがまた、大地を穢す準備を始めた。
魔天軍は進軍を開始するより先に、元帥ラルフと将軍全員が非常召集を受け、テクスターナに向かっていた。今は主のいない、第三軍の残留する陣営である。
陣営は将軍たちを迎えるために兵士が忙しく駆け回り、戦闘前のような活気に満ちている。
その中で、喧騒の届かぬ奥まった幕舎の裏手に、一人の美しい娘が立っていた。
白い衣に映える褐色の肌、長い耳、肩の辺りでそよぐ薄い白金の髪――どれもが、ダークエルフの血に適っている。
ダークエルフとは、もとはエルフと他種族の混血である。
白色人種で髪も金髪やプラチナ、薄茶などの明るい色を持っているエルフは、混血すると肌が黒くなる。そして混血同士で血が濃くなればなるほど、髪色も黒く染まっていった。
長い年月のうちに、ダークエルフのみの里も増え、一種族に数えられるほどになった。一方今でも、稀にエルフと他種族が交わり、明るい髪のダークエルフが生まれることがある。
白金の髪は、他種族との混血として生まれた、原初に近いダークエルフの証だった。
瑠璃色の瞳に気高さを漂わせ、凛として立っている――彼女の名は、ヴェナ・ヴィ・ラング。
言わずと知れた、魔天王ガルシアの養女である。
ヴェナは所在なげに、宙を見ていた。鎧は着けずにレイピアを帯刀し、白に薄紫を重ねた戦闘服に薄手のマントを羽織ったその装いは、略式ながら将軍の礼装である。
だがその顔つきは、およそ将軍の名に似つかわしいものではなかった。
知らぬ者がその顔だけを見れば、誰もが恋人を待つ娘の風情だと合点するだろう。
表情を殺していながら、その瞳の明るさと緩んだ頬の有り様は、間違いなく恋する乙女のそれであった。
……王に会うのは、半月ぶりのことである。
ヴェナは喜びと恥じらいとを抑えきれず、少女のごとく胸を弾ませていた。
幼いヴェナが、狼人間に襲われていたところをガルシアに助けられたのは、もう百年も昔である。
それ以来養女として長くともにありながら、ヴェナは未だに無垢な心のままガルシアを慕い、こうして胸ときめかせる。
世界が眩しく感じられるのは、ヴェナにとっては、雨季の明けたためではないのだ。
「お早いお着きですね」
不意に現実に引き戻され、ヴェナは声のしたほうを振り返った。
茶褐色の瞳に、控えめだが強い意思を感じさせる眼差しの、穏やかな風貌をした若い黒魔族。やはり鎧なしで見事な長剣を腰に帯び、厚いマントの礼装をしている。
その姿を認めると、ヴェナは男の名を呼んだ。
「ディール」
「お久しぶりです」
男は優しく微笑んだ。ヴェナよりも少し長めの、黒髪が風に揺れる。
「確か、第五軍は最南を進軍中のはず。そなたこそ、随分と早く参ったな」
ヴェナは何気なく言った。聖騎士ディール・アル・フェリオ将軍が率いるのは、大半が魔族の騎士からなる、第五軍である。
「我が軍への伝令が早かったのでしょう。格別、急いだわけではありません」
ディールは落ち着いた口調で答えると、辺りを見回して言った。
「この陣営には、将軍は不在のようですね。ダイスは……」
「――やはり、戦死したらしいな」
続けて言ったのはヴェナではなく、太い男の声だった。
ディールは振り返り、声の主が来るのを見て、声を掛けた。
「アダム」
「早いな、ディール。ヴェナ様も、お変わりなく」
並外れて大柄な、黒魔族の剣士が現れた。第六軍の将軍、アダム・ゴードン。
体躯同様に少々恐ろしげな顔立ちではあるが、人懐こそうなはしばみ色の瞳に、陽気な笑みを湛えている。
「戦死か」
ヴェナがぽつりと言ったのを受けて、アダムは続けた。
「此度の召集は、新たな将軍披露のためとも聞きました。いずれにせよ、陛下がおいでになれば、わかることかと」
「そうだな」
その言葉に、ディールも軽く頷いた。
「そういえば今し方、ゾノバに会った。前触れとして参ったのなら、そろそろ陛下も」
「ゾノバが? どこに?」
アダムが言い終わらぬうちに、ヴェナが言葉を遮って尋ねた。
「あ、いや、雑兵たちの休憩所に」
「失礼する」
アダムの返答を聞くや否や、足早にヴェナは去った。
残された二人はその後ろ姿を見送って、しばし呆然としていた。やがてアダムははっとして、小声でディールに囁いた。
「……邪魔をしたか」
二人はもともと同じ領主に仕えており、幼いころから剣技を競い合った友として、心中を忌憚なく話し合う仲なのである。
「済まん。余計なことを言った」
「――いいさ」
ディールは寂しげに笑って、呟いた。
「相変わらずだな、あの方は」
その様子を見て、アダムは自分の粗忽さに軽い罪悪感を覚え、眉をひそめた。
「雨季も明けたというのに、晴れやかとは言いがたい表情だな」
「まだ、お二方だけですか?」
残る将軍のうち、二人が同時に姿を現した。
女のような美貌の、髪も長い黒魔族と、品のよい優しげな瞳をしたエルフの、二人とも若い男である。
「サイラス、フォウ」
「久しいな。ヴェナ様は向こうにおいでだ」
先に来ていた二人は、嬉しげに微笑して答えた。
第七軍の将軍シン・サイラス・コウは魔剣士で、爵位を継ぐ嫡男ではないが、黒魔族の貴族である。
第八軍の将軍マリスト・フォウは聖騎士、エルフの中でも有力な里の出身で、由緒正しき里長の血筋だった。
つまり将軍たちは、生まれも血筋も異なっており、ガルシアに見出されたことで、偶然集った者同士である。
しかし、年齢に似合わず将軍位を受けた彼らは、その並外れた戦闘力ゆえに、多くは対等な友人を持てずに成人している。
そのため、将軍として同等の力を持つ互いを尊敬し認め合い、同僚として以上の連帯感を持って、厚い友誼を分かち合っているのだった。
「そういえば、陛下の前触れがすでに参っていたようだな。
……さては貴公ら、取り残されたのか」
勘のいいサイラスが、ディールの顔をちらりと見て、意地悪く笑った。
その言葉に、ディールよりもアダムのほうがきまり悪そうな顔をしたのを見て、フォウが助け船を出した。
「召集も久方ぶりのことですから。私も、皆様方にお会いするのが楽しみでした」
「“皆様”に入らぬ輩もあっただろうが、もはや顔を見ることはないか」
するとサイラスも、それ以上の追及をせずに、話を変えた。
「貴公らも、すでに聞いているか」
アダムが真顔になって尋ねると、フォウも表情を改めた。
「雨季の最中、罠に掛かられて、二千の兵とともに戦死なされたとか」
四人揃って、しばしの間沈黙した。ダイスだけは友と呼べる相手ではなかったものの、同じ将軍の死に、何も感じぬわけはなかった。
「――しかし二千もの殉死者を従えてのことならば、御霊の慰めにはなっただろう」
サイラスが口を開いた。
「魔天軍においては、あれは天命を全うした。そうではないか?」
その言葉の真意に気づきながら、誰も答えようとはしなかった。答えるわけにはいかなかった。
ダイスの死の真相を知る者は、ここにはいない。知ろうともしない。
その死がどれほど疑わしいものだとしても、王が否定したならば、それは邪推にすぎないのだ。王が戦死と言うのなら、それが信じるべき真実である。
彼らは王の臣下であるのだから。
今は亡き将軍の名を汚さぬためにも、それ以上の言葉は語れないのである。
「こんなところで、どうなされた?」
明るい声が、その沈黙を破った。
一同は驚いて振り返り、そこに立つ人の姿に息を呑んだ。
「……イレーヌ殿」
「久方ぶりだな」
サイラスの呼び声に応えたイレーヌは、相変わらずの微笑を湛えている。だがその衣装だけはいつもと異なり、ほかの将軍たちのような、礼装もしていなかった。
普段の衣以上に服とは呼べない、長い布を胸と腰とに巻きつけただけのような、紛れもない踊り子の衣装に、金細工で前を止めたマントをすっぽりと被っている。
「おのおの方、息災であられたか?」
四人に視線を移しながら尋ねる。
その笑顔にはまったく邪気がなく、美しい。
「はい。ここにおります者は」
サイラスが答えると、イレーヌは一層艶やかに笑った。
「何よりだ。では、あちらの席に参られよ。
陛下や公爵閣下も、間もなく到着なされる」
「参りましょう」
フォウが従いつつ皆にも促すように言って、先を歩き出した。
「そのお召し物は……舞われるのですか?」
イレーヌに向かうフォウの表情は、いつもの穏やかなものに戻っている。サイラスも、和らいだ笑顔でそのあとに続く。
「陛下の命で、のちほどな。此度の召集は、戦勝祈願の宴も兼ねてのものとかで……」
イレーヌは二人に挟まれ、愉しげに語らいながら歩いていく。その姿をぼんやりと眺めていたアダムの肩を、ディールが軽く叩いた。
「我々も行こう、アダム」
「あ、ああ。うむ」
アダムは一瞬なんとも複雑な、羞恥と恐縮の入り交じった表情を見せて、ゆっくりと歩き始めた。
ディールはそんな友の胸中を、共感に近く察していた。
――自分たちも所詮、死んだ男と同じ。
ただ、違うのは己を知っていること。王と自分の器の違いに、畏れを抱いているだけなのだ。
ふと、誇り高いダークエルフの面影が脳裏をよぎり、ディールは思わず苦笑した。




