18.問われぬ罪
「……ク殿……ジーク殿!」
はっとして、ジークは傍らの、声の主を見た。
「何度もお呼びしたのだが、いかがなされた?」
イアンが心配そうに、自分の顔を覗き込んでいる。
「――失礼、イアン殿」
ジークはそう言って、前方の兵士たちに目をやった。
雨季の晴れ間、陣営内の広場に集った雑兵たちは、武具の手入れに余念がない。あちこちで、剣を交える音も聞こえてくる。
若い兵の多い第四軍は闘気に溢れ、戦地に再び立つことを、心待ちにすらしている感があった。
「やがてまた降ろうが、これが最後の休息でしょうな」
イアンは空を仰いだ。
「間もなく、雨季も終わる。ジーク殿も心は早、戦場へ向かわれたか」
「長すぎる休息に気の揉める向きもあったが、我が軍の志気に危惧することなどなかろう」
同僚の揶揄じみた言葉には応えず、ジークは前方から視線を逸らさず、言った。
「それは無論。皆一刻も早く、イレーヌ様に己が雄姿を、ご高覧いただきたいのだ」
イアンも兵のほうを見て、満足げに目を細めた。
その時、一際高い金属音が辺りに響いた。
ラシードが、手合わせを申し出たエルフの剣を飛ばしていた。
試合が済むとたじろぐ兵士たちを尻目に、面倒臭そうに輪を離れ、木陰の下に立っている。
「ほほう。なかなかの手練れですな」
イアンは、感嘆の声を洩らした。
「人間というのでどれほどの者かと思えば、大したものだ」
ラシードの存在が一般兵の知るところとなったのは、数日前のことである。
敗走中の自軍に見切りをつけ、雨に紛れてこの陣営に辿り着いた、ということになっていた。
当然、敵の間者として送り込まれたのではないかと、嫌疑をかけられた。だがイレーヌがそれを疑わず認めたことで、兵士たちは訝りながらも、ラシードを受け入れた。
仇を取っても、仲間の許に戻らないだろうことは、ジークにも予想が付いていた。
(よいのか。二度とは戻れまいが)
(邪魔者は、とっとと失せろってのか)
ラシードが軍に残ると聞き、ジークも真意を確かめた。
(しょうがねえだろ。俺も、お前と同じだ)
達観とした様子で、ラシードは淡々と言った。
(お前も同じなんだろ、結局。
……厄介な女に、関わっちまったよ。どうにもならねえけどな)
事由など問うまでもなかったが、ラシードもやはり、イレーヌからは離れられないと理解したのだ。
「メッサー殿の穴を埋めるほどにはならずとも、あれならば……」
何気ないイアンの言葉に、ジークは瞬間、体を硬くした。
メッサーは側近の任を解かれ、第四軍を抜けた――その後任を受けたイアンの口からは、そう発表された。
将軍の側近が軍を異動するとなれば、相応の理由があるはずである。しかし、イアンも何も聞かされていない。
イレーヌは兵士たちに向け、「王命によるものだ」と告げた。
(メッサーは、もはや戻らぬ。私が、そうさせたのだ)
呆然としていた、あの夜のイレーヌの言葉。残されていた剣。
ジークは事情を聞かなかった。問うことも、できなかった。
以前ラシードを迎え入れた夜、尋ねようとする口を塞がれたように。
――それよりも重い罪で。
(恨んでもよいぞ)
自分の腕の中で、主人は言った。
(そなたが咎めを受けることはない。だが、恨むがいい。私は、そなたを貶めた)
虚ろな光を宿した瞳には、何も映っていないような気がした。
(――恨むというのなら、わたくし自身をこそ)
ジークは静かに答えた。
(お許しを……)
それが、口にできた精一杯の言葉だった。
――どうして恨めるだろう。
十年想い続けた、唯一人の女性を。
側近くにありながら、心の奥深く沈めてなお、燻り続けた激情。
理由は知らない。しかし、ジークにはわかっていた。
イレーヌが自分に求めた罪は、ガルシアに所以するものだと。
だからこそ、咎めを受けることはないのだ。
主人が欲したものが裁きなのか救いなのか、どちらにせよ、それは王に対する裏切りではない。裏切りではありえない。
イレーヌはただ、命じただけなのだ。そして、自分は従うのみの存在である。
とはいえ、やはり自分は従うべきではなかったのではないか。部下として自刃しようとも、止めるべきではなかったか。
――愚かな限りだ。この、未熟者が。
ジークは、自分が責められてならなかった。
自分は命令に従ったのではない、ただ、己が欲望に身を任せただけだ。そして、許されざる背信の輩になり下がった。
けれど、それも王にとっては、取るに足らぬことだろう。そう思われた。
自分ごとき卑小な存在がどうあろうと、気にも止めないのだろう。あまりにも小さき存在ゆえに。
こうして懊悩することすら、驕った振る舞いだとわかっている。
しかしそれでも、思いきれはしない。
一夜の夢と、忘れる勇気すら、自分にはなかった。
「翳って参ったな」
イアンの言葉を待っていたかのように、雨が落ちてきた。降り出すと瞬く間に、辺りのものを濡らし始めている。
「それまでだ。皆、幕舎に戻れ!」
イアンが声を掛けるまでもなく、兵士たちはめいめい、幕舎内に戻っていった。ラシードの姿も、いつの間にか見えなくなっている。
「ジーク殿も、お早く!」
促されてイアンのあとを追いながら、ジークはこのまま、雨に打たれていたい気がしていた。




