14.決行の夜
宵の口、風が生暖かく吹いていた。
昼ごろ一時激しく降った雨は次第に弱まり、細かな霧雨に変わっていた。
「夜半には、やみましょう」
イグレシアスは、声をひそめて言った。
その身には、戦装束の厚いローブを纏っている。
朧気な明かりの、幕舎の中。忙しく身支度をしているダイスは帯刀し、鎧こそ着けていないものの、これもまた戦地に赴く際の出で立ちである。
「宵のうちにはトリュグに着くよう、急げ。明けてからでは面倒になる」
手袋を嵌めながら、相変わらずの下品な笑いを浮かべる。
「お任せを。第六軍は魔術師も少なく、結界も脆くありましょう。
アダム様も剣士、さりとて、ダイス様に及ぶ腕ではございますまい」
魔導士もにやりと笑った。浅黒い顔に、皺が深く刻まれる。
「トリュグには地の利もある……油断せず、早々に片を付けよ。
その後、一気に北上する」
「第六軍さえ破れば、王宮は遠くありませぬ。
前線に報の届くより先に、城の結界とても破れるかと……」
「雨季ゆえだ。遠征せし者どもも、安閑としておろう」
ダイスの闇緑色の眼が、狂気に満ちて輝いている。
「指揮は任せるぞ、イグレシアス。トリュグを越えたあと……そうだな、タランソに至るまでには追いつく」
イグレシアスは目を伏せて、恭しげに頭を下げた。
「では、タランソにて」
その言葉を聞くが早いか、ダイスは幕舎を出た。
風は南西、チグリノのほうから吹き、なんの花か、微かに甘い薫りを運んでくる。
――今日こそは我が手に、あの人を。
高ぶる気持ちを抑えながら、将軍は一人闇に紛れて陣営を離れた。
――
風が木々の雫を撒き散らすばかりで、雨はやんでいた。チグリノの森は柔らかな水の匂いに包まれ、その闇の中にほのかな灯りが連なり、灯っている。
ふっと、端から一つ二つ、灯りが順に消えていく。
その中を黒い人影がゆっくりと進んで、最後に残った灯りの前に立った。揺らめきながら灯り続ける、その灯りの幕舎の中に、影はすっと入っていった。
幾重にも垂れ下がった薄布の向こうに、静かな人の気配。魔力はわずかにも感じられない。
「絶対防魔法結界」の術は、見事に陣営内を包み込んだようである。
結界が完成した今、この陣営内では、いかなる魔力も発動できない。
人影は安堵した様子で歩を進め、奥まった寝台の前まで来た。
暗闇の中、微かな灯りが横たわる人の姿を浮かび上がらせる。そこへ手を伸ばそうとして、不意に感じた強烈な殺意に、慌てて影は横へ飛びのいた。
剣が一閃、影の代わりに吊るされた布を真横に切り裂いた。
途端に燭台の火が再び明るく燃え上がり、そこに二人の男を照らし出した。
剣を構えたダイスの眼前には、期した人でなく、見覚えのある人間の姿があった。
「チッ!」
ラシードは、急いた自分に舌打ちした。
「貴様は!?」
ダイスは驚いて、対峙した男を見返した。
「カナンの……」
ダイスが言いかけると、その言葉が終わるのを待たず、ラシードは再び剣を振り上げた。ダイスはそれを受け流し、間合いを取ると、
「貴様、なぜここに!?」
困惑の表情で、しかしさすがに、隙なく構えて言った。
「さてね、どうしてだろうな!」
ラシードは叫ぶと同時に、斬りかかる。
ダイスは剣を髪一重で躱し、また間合いを取った。
トルキスの戦いにおいて、最も手応えのあった剣士だ。
だが自分には相手にもならず、嬲った挙げ句に谷底へ転落させたはず。止めを刺さなかったとはいえ、あれで生きているわけがない。
いや、あの時の男とは、まるで腕が違いすぎる。とすると、やはり別人か?
そんなことより、なぜ人間がこんなところにいるのか。あの人は、一体どこに――。
ダイスが考えを巡らせている間も、剣が間断なく襲いかかってきた。
「何考えてんだよ!」
一瞬の暇も与えようとせず、ラシードは攻め続ける。
「イレーヌに会いたきゃ、目の前の亡霊を倒してからにしな!
せっかく礼をするために、地獄から舞い戻ってやったんだ!」
「何!?」
遂に外幕までも切り裂かれ、二人とも外に出た。
ラシードがイレーヌの名を口にしたことが、かえってダイスを冷静にした。
次のラシードの動きを完全に見切り、ダイスは攻勢に出た。ラシードは必死で剣を受け、後退する。
「この、こわっぱが!」
ダイスの剣がラシードの胸に突き刺さろうとした瞬間、眩い光の矢が、その間に割って入った。
「ぐあっ!」
雷を受けたようにダイスは仰け反り、よろめいて後ずさった。
光が飛んできた方向、6・7ヤードほど離れた木の下に、イレーヌが立っていた。
静かに、艶冶な微笑みを浮かべて。
「イレー……」
その姿にダイスが気を取られた刹那、後方からジークが、その右肩に斬りつけていた。
「っ! なっ……!?」
ダイスの右手から、剣が落ちる。
「ラシード!」
イレーヌの声にラシードは我に返り、剣を敵の心臓目掛けて、突き立てた。
「ぐ、ぅっ……!」
剣を伝い、鮮血が滴り落ちる。同時にラシードの右手に伝わる、死の感触。
ダイスの身体が、崩れ落ちるように倒れた。
ジークは無表情に剣を収め、イレーヌのほうを見た。
イレーヌはゆっくりと歩み寄り、ダイスの体の上に手を翳した。その懐に、何か光る物が見えた。
「解除!」
イレーヌの呪文とともに、光る水晶が弾け飛ぶ。陣営の四方で同じように、何かが光った。
「対魔法の中でも最上級の『絶対防魔法結界』など、この者に操れるはずがないと思ったが……
なるほど、よい媒体を手に入れていたものだ」
――もっとも、こちらが先に「完全魔法結界」を張っていれば、意味はない。あらゆる対魔法の干渉を無効化する、魔力増強の結界を。
イレーヌは、その迂闊さに嘲笑わずにはいられなかった。
ラシードは放心して、仇敵の亡骸を見つめていた。
その手にはまだ、剣が握られている。
やがて、焦点の定まらぬ目でふらふらと歩き出した。イレーヌはそれを横目で見ると、ジークに声を掛けた。
「あとを頼むぞ」
「……はい」
頭を下げるジークを残し、イレーヌはラシードを追った。
ラシードは地に視線を落とし、無言で歩き続けた。イレーヌも黙って付いていく。
しばらく行ったところで巨大な樹木に立ち塞がれ、ラシードは歩みを止めた。
剣がその手から滑り落ち、水飛沫が上がる。
「見事、本懐を遂げたな」
イレーヌは静かに言った。
「首級が欲しければ持たせるぞ。英雄の生還に、仲間はさぞ喜ぶことだろう」
ラシードは背を向けたまま、動かない。
「それとも――ここに留まるか?」
風に舞った雨の雫が、ラシードの頬にかかる。
「……私の側に」
ラシードはゆっくりと振り返った。
そこには、魔女が微笑んでいる。女神のごとく、優美な姿で。
「ラシード?」
弾かれたように、ラシードはイレーヌを抱きしめた。柔らかな体の、鼓動を微かに感じる。
その冷たい唇に触れると、もう何も考えることはできなかった。




