10.忠誠と想い
木洩れ日が、湖面の細波に揺れて煌めいている。
誰もいないはずの水面に、足跡のような波紋が連なり、広がっていく。
湖の中央近くにある岩の浮き島まで波紋が届くと、初めてその「足跡」の主は姿を現した。
透ける虹の羽を広げ、天を仰ぐようにして、その主――イレーヌは、体を伸ばした。
雪肌には無数の水滴。唯一その身に着けられた黄金のチョーカーが、静かに輝いている。
妖精族、ことにフェアリアは「水の友」と言える種族である。
凍える寒さを知らぬ彼らは、季節に捕らわれず水に親しみ、唯一の里は川に囲まれた森の奥にある。
「はぐれ者」として里の外で生きる者も、必ず湖などの傍に身を置く。
裸体で生活する所以も、そこにあるのだろう。
その習性は、彼らの存在が伝説となってからも広く知られ、人には「聖水人」とも呼ばれていた。
イレーヌもまたその民の一人として、微かな水の匂いを嗅ぎ分け、その近くに陣を取る。
無論、沐浴中の彼女の護衛兼見張りを務めるのは、側近たるジークの役目である。
二人の側近のうち、いつもその任を命じられるのがメッサーではなく自分であることの意味を、ジークは己の未熟さを見抜かれてのことだと解釈していた。
ラシードが言った通り、第四軍の兵士は皆、ガルシアに対するそれに匹敵するか、あるいは凌ぐほどの忠誠を、崇拝に近い盲目さでイレーヌに誓っていた。
その上にまた、あってはならぬ想いを重ねて。
ジークは幾度か、その腕で主人を抱きしめたことがある。
奔放な妖精は、時として無防備なほど心を晒す。
魔女と恐れられる将軍の冷酷さの奥に、無垢な魂を宿し、他愛ないことでいとも容易く傷を負ってしまう。
そんな彼女には、部下であっても、縋るべき相手が必要なのだ。
だが、それは本来、自分ではない。
木陰に立って物思う部下のことなど知らぬげに、なんのわだかまりも抱かず、イレーヌは無邪気に戯れていた。
何を考えることもなく、水の腕にその身を委ねて――。
「そうして水の中にいるときが、一番美しいな」
突然の声に驚き、イレーヌが振り返ると、先刻までなんの気配もなかった岩場の上に、黒い人影があった。
ジークは不意に現れた強力な魔力の存在に気づき、木陰から飛び出した。
「イレーヌ様!?」
岸辺から少し離れた岩の上、黒装束の魔天王が立っていた。
その腕の中で、胸に顔を埋めるようにして、イレーヌが抱かれている。
「久しいな、ジーク・リフ・アラート」
ガルシアの言葉が終わらぬうちに、ジークは跪いていた。
「失礼を!」
「半刻ほど下がれ。何者も無用だ」
穏やかな、しかし圧倒的な威勢を持った声。
「――御意」
視線を落としたまま立ち上がり、ジークは一礼してその場を辞した。
森の中を足早に歩き、水音も聞こえぬほど遠くまで来ると、目を閉じて顔を上げる。
……わかっていたことなのだ。
あの女性が必要としているのは誰なのか。
自分は何者なのか。
わかっていながら心に湧き起こる、小さな絶望。
「呆れ果てた未熟者だ……」
それは、ジーク自身を失望させた。
――
穏やかな午後の雲が、ゆっくりと上空を西へ流れていく。
柔らかな陽光が、辺りを静かに包み込んでいた。
「――風が出てきたな」
岩場の上に腰を下ろしたガルシアは、前髪を掻き上げ、物憂げに呟いた。
「そろそろ雨季に入るか」
「空の明るさには、未だ翳りの兆しも見えませぬゆえ、もうしばらくは」
ガルシアの腕の中で、イレーヌが静かに応える。
「時が来れば、荒れるか?」
「そうなりましょう」
「ふむ……」
宙を見据えるガルシアの横顔を、イレーヌはじっと見つめていた。
闇色の髪と同じ色の衣に縁取られたその顔貌は、白い彫像のように感情を悟らせない。
「とはいえ、さほどのことではございませぬ。
おそらくは御身に及ばぬうちに、天より鎮圧されるかと」
イレーヌは、静かに微笑んだ。
「ほう?」
ガルシアは視線を下ろし、イレーヌを見返す。
「天とはな。御使いでも降りてきたか」
同じように、薄く笑みを返した。
「二月ほど前、人の姿を借りて、わたくしの前に現れました」
「“人間”か。なるほど、面白い」
ガルシアは目を伏せ、低く笑う。
「その者、人の技に通じているか?」
「我が騎士に師事しておりますれば。何より、己が使命をよく心得ております」
嬉しさを滲ませつつ、落ち着いた口調で話す。
ガルシアは目を細め、イレーヌの耳元に囁いた。
「お前に任せよう」
「はい」
「雨季が明ければ、一度将軍に呼集をかける。
変わらぬ顔触れであればよいがな」
立ち上がり、後半は独り言のように呟いた。
「お戻りになられますか」
座したまま、頼りなげに問いかけるイレーヌに、ガルシアは手を差し伸べた。
「間もなく、伝令が城に参るころだ」
そのまま抱き寄せ、長い接吻を交わすと、ゆっくりと身を離す。
「ジーク」
ガルシアの呼び声に応え、いつの間にか戻っていた臣下が木立の影から進み出て、無言で跪いた。
「これまで以上に、よく仕えよ。
いずれ嵐が来よう。主を護るは、お前の役目だ」
「御意」
ジークは目を閉じ、短く答えた。
その様子を一瞥し、ガルシアはもう一度、イレーヌの髪に口づける。
「雨季のあとに会おう」
「お待ち申し上げております」
憂いを隠さぬまま呟き、イレーヌは身を引いた。
ガルシアの周囲を風が取り巻き、マントが翻る。
次の瞬間、その姿は掻き消えるように消えていた。
イレーヌは、しばらく動けなかった。
いつも――いつでも、王はこうして去っていく。
前触れもなく現れ、自分の中を駆け抜けて。初めて出逢った時と、同じように。
いつか離れず、王とともに居続けられる日も来る。
そう信じていても、寂しさは振り払えない。
命じられて戦場に立っているのもまた、己の望み通りであるのに。
自身の力は、愛する人の役に立つのだから。
今はただ、戦い続けるだけ。
それが、自分に与えられた役割だった。
「行くぞ」
その声にジークが顔を上げると、そこにはすでに衣装を身に纏い、凛然と立つ将軍の姿があった。




