表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
MASTERY - マスタリィ【第1部】  作者: 洲澄英里
Period 1 MASTERLESS - 第1章 神の眷族
11/86

10.忠誠と想い

木洩れ日が、湖面の細波に揺れて煌めいている。

誰もいないはずの水面に、足跡のような波紋が連なり、広がっていく。


湖の中央近くにある岩の浮き島まで波紋が届くと、初めてその「足跡」の主は姿を現した。


透ける虹の羽を広げ、天を仰ぐようにして、その主――イレーヌは、体を伸ばした。

雪肌には無数の水滴。唯一その身に着けられた黄金のチョーカーが、静かに輝いている。


妖精族、ことにフェアリアは「水の友」と言える種族である。

凍える寒さを知らぬ彼らは、季節に捕らわれず水に親しみ、唯一の里は川に囲まれた森の奥にある。


「はぐれ者」として里の外で生きる者も、必ず湖などの傍に身を置く。


裸体で生活する所以も、そこにあるのだろう。

その習性は、彼らの存在が伝説となってからも広く知られ、人には「聖水人(せいすいびと)」とも呼ばれていた。


イレーヌもまたその民の一人として、微かな水の匂いを嗅ぎ分け、その近くに陣を取る。

無論、沐浴中の彼女の護衛兼見張りを務めるのは、側近たるジークの役目である。


二人の側近のうち、いつもその任を命じられるのがメッサーではなく自分であることの意味を、ジークは己の未熟さを見抜かれてのことだと解釈していた。


ラシードが言った通り、第四軍の兵士は皆、ガルシアに対するそれに匹敵するか、あるいは凌ぐほどの忠誠を、崇拝に近い盲目さでイレーヌに誓っていた。

その上にまた、あってはならぬ想いを重ねて。


ジークは幾度か、その腕で主人を抱きしめたことがある。


奔放な妖精は、時として無防備なほど心を晒す。

魔女と恐れられる将軍の冷酷さの奥に、無垢な魂を宿し、他愛ないことでいとも容易く傷を負ってしまう。

そんな彼女には、部下であっても、縋るべき相手が必要なのだ。


だが、それは本来、自分ではない。


木陰に立って物思う部下のことなど知らぬげに、なんのわだかまりも抱かず、イレーヌは無邪気に戯れていた。

何を考えることもなく、水の(かいな)にその身を委ねて――。


「そうして水の中にいるときが、一番美しいな」


突然の声に驚き、イレーヌが振り返ると、先刻までなんの気配もなかった岩場の上に、黒い人影があった。


ジークは不意に現れた強力な魔力の存在に気づき、木陰から飛び出した。


「イレーヌ様!?」


岸辺から少し離れた岩の上、黒装束の魔天王が立っていた。

その腕の中で、胸に顔を埋めるようにして、イレーヌが抱かれている。


「久しいな、ジーク・リフ・アラート」


ガルシアの言葉が終わらぬうちに、ジークは跪いていた。


「失礼を!」


「半刻ほど下がれ。何者も無用だ」


穏やかな、しかし圧倒的な威勢を持った声。


「――御意」


視線を落としたまま立ち上がり、ジークは一礼してその場を辞した。


森の中を足早に歩き、水音も聞こえぬほど遠くまで来ると、目を閉じて顔を上げる。


……わかっていたことなのだ。

あの女性が必要としているのは誰なのか。

自分は何者なのか。


わかっていながら心に湧き起こる、小さな絶望。


「呆れ果てた未熟者だ……」


それは、ジーク自身を失望させた。


――


穏やかな午後の雲が、ゆっくりと上空を西へ流れていく。

柔らかな陽光が、辺りを静かに包み込んでいた。


「――風が出てきたな」


岩場の上に腰を下ろしたガルシアは、前髪を掻き上げ、物憂げに呟いた。


「そろそろ雨季に入るか」


「空の明るさには、未だ翳りの兆しも見えませぬゆえ、もうしばらくは」


ガルシアの腕の中で、イレーヌが静かに応える。


「時が来れば、荒れるか?」


「そうなりましょう」


「ふむ……」


宙を見据えるガルシアの横顔を、イレーヌはじっと見つめていた。

闇色の髪と同じ色の衣に縁取られたその顔貌は、白い彫像のように感情を悟らせない。


「とはいえ、さほどのことではございませぬ。

おそらくは御身に及ばぬうちに、天より鎮圧されるかと」


イレーヌは、静かに微笑んだ。


「ほう?」


ガルシアは視線を下ろし、イレーヌを見返す。


「天とはな。御使いでも降りてきたか」


同じように、薄く笑みを返した。


「二月ほど前、人の姿を借りて、わたくしの前に現れました」


「“人間”か。なるほど、面白い」


ガルシアは目を伏せ、低く笑う。


「その者、人の技に通じているか?」


「我が騎士に師事しておりますれば。何より、己が使命をよく心得ております」


嬉しさを滲ませつつ、落ち着いた口調で話す。

ガルシアは目を細め、イレーヌの耳元に囁いた。


「お前に任せよう」


「はい」


「雨季が明ければ、一度将軍に呼集をかける。

変わらぬ顔触れであればよいがな」


立ち上がり、後半は独り言のように呟いた。


「お戻りになられますか」


座したまま、頼りなげに問いかけるイレーヌに、ガルシアは手を差し伸べた。


「間もなく、伝令が城に参るころだ」


そのまま抱き寄せ、長い接吻を交わすと、ゆっくりと身を離す。


「ジーク」


ガルシアの呼び声に応え、いつの間にか戻っていた臣下が木立の影から進み出て、無言で跪いた。


「これまで以上に、よく仕えよ。

いずれ嵐が来よう。主を護るは、お前の役目だ」


「御意」


ジークは目を閉じ、短く答えた。


その様子を一瞥し、ガルシアはもう一度、イレーヌの髪に口づける。


「雨季のあとに会おう」


「お待ち申し上げております」


憂いを隠さぬまま呟き、イレーヌは身を引いた。


ガルシアの周囲を風が取り巻き、マントが翻る。

次の瞬間、その姿は掻き消えるように消えていた。


イレーヌは、しばらく動けなかった。


いつも――いつでも、王はこうして去っていく。

前触れもなく現れ、自分の中を駆け抜けて。初めて出逢った時と、同じように。


いつか離れず、王とともに居続けられる日も来る。

そう信じていても、寂しさは振り払えない。


命じられて戦場に立っているのもまた、己の望み通りであるのに。

自身の力は、愛する人の役に立つのだから。


今はただ、戦い続けるだけ。

それが、自分に与えられた役割だった。


「行くぞ」


その声にジークが顔を上げると、そこにはすでに衣装を身に纏い、凛然と立つ将軍の姿があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ