第3部 前夜 第2章 軍事心理学
トラック環礁 夏島沖 第4艦隊所属内火艇
1943年 11月17日 4:10
夜明け前の海は鏡のように凪いでいた。
その静謐を切り裂くのは、十五メートル型内火艇が吐き出すガソリンエンジンの単調な唸りだけである。目的地たる春島までは、一時間の航海であった。
副官は後ろの席で軽く舟を漕いでいる。
この贅沢な空間を占有する乗客は、僅かに三名。昨今の南方方面の具合を考えると、それは奇妙なほどに贅沢な空間であった。
事の起こりは、港へと急ぐ公用車の窓越しに、八原陸軍中佐の姿を捉えたことに始まる。
目的を急ぐ者特有の、焦燥を含んだ歩法。それを認めるや否や、首席参謀は車を止めさせた。
「乗りたまえ、八原君」
有無を言わさぬ誘い――実質的な拉致に近い強引さで彼を車中へ引きずり込み、そのまま内火艇へと連行したのである。
八原陸軍中佐は、何も言わず一括りの書類を鞄から取り出した。
首席参謀は、拝見するよと断わるとページをめくった。
昭和18年11月
太平洋南西方面ニ於ケル米軍侵攻経路予想ニ関スル件
一、目的
本件ハ、帝国ノ南方要域ヲ確固保持シ、敵ノ反攻企図ヲ未然ニ挫折セシムルヲ目的トス。
二、敵軍侵攻経路予想(案)
甲案:アドミラルティ諸島ニ対スル電撃侵攻
敵ハ豪州ニ待機中ノ陸軍挺進部隊ヲ以テ、ラバウル北方マヌス島ヲ含ムアドミラルティ諸島ヘ降下セシメ、併セテ海兵隊ヲ上陸セシム。短期間ニ同地ヲ占拠シ、我ガ後方連絡線ヲ遮断スルヲ目論ムモノト認ム。
乙案:ニューギニア北岸「マダン」付近ニ対スル逆上陸作戦
敵母艦部隊ヲニューブリテン島北東方海域ニ展開シテ我ガ基地航空部隊ヲ牽制吸引シ、其ノ隙ニ乗ジ第五航空軍ノ残存全力及ビ豪州軍部隊ヲ動員。我ガ兵站拠点「マダン」若シクハ「ウェワク」ニ対シ大規模ナル上陸作戦ヲ敢行スルモノト予想ス。
丙案:ブーゲンビル島ニ対スル上陸空挺作戦
偽電等ノ謀略及ビ実艦隊ノ機動ニ依リ我ガ艦隊ヲ誘引。敵水上部隊ノ援護下ニ上陸部隊ヲ揚陸セシメ、同島ノ航空基地奪取ヲ図ルモノト認ム。
丁案:ブーゲンビル島ニ対スル連続波状空襲
本案ハ丙案ト併用セラルル公算大ナリ。敵ハ残存機ヲ挙ゲテ我ガ南北飛行場ヲ連続攻撃シ、地上撃破ヲ以テ航空拒止ヲ図ルモノト認ム。
三、判断
(一)右各案ノ生起確立ニ関シテハ、現下ノ情勢ニ鑑ミ目下判断ヲ保留ス。
(二)但シ、敵将マッカーサーノ性格及其ノ経歴ニ照ラセバ、其ノ企図スル所極メテ過大ニシテ、常軌ヲ逸シタル飛躍的進攻作戦ヲ採用スル蓋然性極メテ大ナリト認ム。
各案ノ細部実施要領ハ、別紙記載ノ通リトス。
首席参謀は、紙面に踊る「アドミラルティ」「マダン」「ブーゲンビル」といった地名を、将棋の駒でも眺めるように見つめ、三の判断まで読んだところで顔を上げた。
八原中佐の顔には何の表情も浮かんでいない。
「八原中佐。貴公の予測が正しいとして、なぜこれほどまでに不規則な跳躍戦術を繰り返す? 戦術的合理性を無視してまで、マッカーサーが『蛙跳び』に固執する理由はどこにある」
「——『坊や』だからですよ」
一瞬、内火艇のエンジン音だけがキャビンを支配した。八原の口から出た言葉は、およそ軍人間の会話には似つかわしくない、幼気な響きを持っていた。
「坊や、だと?」
「左様でございます。殿下は、落語の『将棋の殿様』という演目をご存じでしょうか。世間知らずの殿様が、己の我儘を通すために『お飛び越し』や『お打ち払い』という、盤上の法を無視した勝手極まる指し手を繰り出す。
……今次の戦争は、あの男にとっては玩具にしか過ぎません」
八原中佐の視線は首席参謀を通り抜け、どこか遠くに焦点を結んでいるように見えた。
その視線の先には、現実の戦争ではなく、一個の歪んだ精神構造が透けて見えているようだった。
「マッカーサーという男は、本質的に『坊ちゃん』なのです。……物事というものは、すべて自分の思い通りに運ばねばならぬと信じている。だが、現実は往々にして彼の誇り高い鼻をへし折る。そうなった時、この種の男が取る行動は一つしかありません」
「放り出す、というのか。その戦域を」
宮様の問いに、八原は微かに、だが氷のように冷たい笑みを浮かべた。




