1600-2 掌中
<1600年 4月下旬>
上方の情勢を急ぎ調べようと吉次に手紙を送るも、その返事が届く前に、徳川家康の使者が臼杵に現れた。
使者は、面識のある山口直友。
つい先日まで庄内の乱で調停使を務めていた、あの実直な旗本である。
直友が携えてきたのは、他ならぬ徳川家康からの上洛命令の書状であった。
書状の文面には、まず先の庄内の乱における二階堂家の出陣と働きを過分なまでに誉めそやす言葉が並んでいる。
しかれども、公儀の調停を待たずに都之城を落とした島津の真意や、戦の最中に風聞のあった伊東領境での不穏な動きについて、現地に布陣して事の経緯をつぶさに見ていた二階堂左京亮殿の生の声を聞き、今後の九州の仕置きについての意見を直に聞きたい――とのことだった。
山口直友自身にはまったく他意がなく、徳川家康の書状の内容を額面通り受け取って臼杵までやってきたようだ。
「我が主君も左京亮殿の忠節を深く頼みにしておられますぞ」などと語り、上洛の期日を俺に申し渡し、直友は何の疑いもなく去っていった。
だが、徳川家康の本心がそんな儀礼的な話で済むはずがない。
使者が館を去った直後、俺は正室の南御前、四男の行栄、重臣代表の志賀親次、そして前田利益を奥の小広間に呼び寄せ、前後策を協議する席を設けた。
「どういうことだ、夫殿」
張り詰めた空気を破り、真っ先に口を開いたのは南御前であった。
白髪の混じり始めた眉をきつく寄せ、鋭い眼差しで俺を射抜いてくる。
「政宗が軍事同盟を結ぼうとしているイスパニアと敵対している国の南蛮船が、浦戸沖で座礁した。その乗組員はすでに大坂へ送られているそうじゃ。はや徳川内府は、彼らが如何なる理由で日ノ本に来たか、その目的や素性を厳しく吟味しておろう。政宗が豊臣家に無断で異国と結ぼうとしている事実が露見すれば、まず間違いなく徳川内府は政宗を討とうとするはず」
俺の言葉に、傍らで控えていた行栄がハッと息を呑んだ。
「……父上を召喚したのは、父上の身柄を大坂で拘束して、東国の兄上たちを牽制するため、というわけですか」
「その通りよ」
俺を人質にして大坂に留め置けば、奥羽鎮守府に属する二階堂盛隆や岩城盛行、さらには娘婿の伊達成実に対して決定的な圧力をかけることができる。
徳川家康の狙いはそこにある。
「大殿、上洛はなさらず、ここは病とでも称して様子見をされた方がよろしいかと存じます」
志賀親次が重々しく進言してきた。
だが、俺は首を横に振る。
「いや、ここはあえてこの誘いに乗ろうと思う。この臼杵に籠もっていては、宇都宮や須賀川の本国は遠すぎる。伝令が往復するだけで月日を費やし、もしもの時に間違った手を打ってしまうやもしれん」
「しかし、上方に行けば確実に身柄を拘束されよう」
南御前の懸念はもっともであった。
だが、俺の頭の中ではすでにチートな歴史知識をベースにした、次の一手が組み上がっている。
「そこは先んじて手を打ち、盛隆らに文を出しておく。徳川内府は奥羽征伐に乗り出す際、相手を奥羽鎮守府全体ではなく、伊達政宗個人に限定してくるはずだ。『政宗以外の大名には咎はなし』と触れを出し、自分に恭順するよう調略の使者を出すだろう。当然、盛隆や盛行のところにもその手は伸びる。そこで盛隆らにこう回答させるのだ。『我が父、二階堂盛義を無事に須賀川まで連れてきてくださるなら、仙台まで徳川殿の軍勢を案内いたしましょう』とな。政宗には、徳川内府を油断させるための方便だとあらかじめ裏を通じておけばよい」
「それでどうなりましょう? 父上が徳川内府の奥羽征伐に同道せねばならなくなるだけではございませぬか。それに父上が敵中に捕らえられているとなれば、兄上たちは満足に戦えますまい」
怪訝な顔をする行栄に、俺は口元を歪めてみせた。
「そこでもう一手よ。二階堂家と岩城家を合わせて百万石が徳川に寝返るとなれば、労せずして政宗討伐が成功するやもしれぬ――と、吾妻鏡を愛読するあの徳川内府なら考える。真の武家の棟梁たる己を示すため、源頼朝の奥州藤原氏征伐のひそみにならって、自ら大軍を率いて奥羽征伐を完遂させようとするであろう。となると、徳川内府は大坂の秀頼君の側を離れることになる。上方は完全に空白となるのだ」
そこまで言って、俺は一度言葉を切り、広間の面々を見渡した。
「徳川内府を恨む者は上方にごまんと居る。家中の領土分配に口を出されて面白くない毛利輝元、濡れ衣を着せられて大坂城を追い出され怒り心頭の宇喜多秀家、伏見城を退去させられ屈服させられた三奉行、そして佐和山で療養中の石田三成も思うところがあろう。徳川内府不在を千載一遇の好機と見て、秀頼君を戴いて決起しようとする粗忽者が必ず出てくる。それを事前に煽っておくのだ」
「……さすが夫殿。何と悪辣な策を考えるものよ」
南御前が心底呆れたようにため息をついた。
「上方で反徳川の火の手があがれば、奥羽征伐どころではなくなる。そこで『父上の身柄を無事にお戻しいただけるなら背後をお守りする』と兄上たちが申し出れば、後背を脅かされた徳川内府は応じざるをえない、ということですか……」
行栄が事の大きさに呆然としながら呟く。
「されば、この臼杵はどうなりましょう?」
志賀親次の問いに、俺は即座に答える。
「俺が大人しく上洛に従っておれば、徳川内府は臼杵には手を出すまい。北豊後と日向の諸将、それに肥後で暇を持て余しておる加藤主計頭に、国境三方から監視させる程度に留めるはずだ」
「島津が気にかかりますな」
「島津は庄内の乱の傷が深く、徳川内府からの出陣要請は断るであろう」
「で、あれば何とかなりそうですね」
志賀親次が頷く。
島津が動かないとなれば、包囲軍の戦力は概ね読める。
北豊後の諸将が出せる兵力はおよそ五千、日向が三千五百、清正が六千五百で、合計一万五千といったところだ。
対する臼杵二階堂家は、領内からかき集めれば七千は動員できる。
何より、眼前にいる志賀親次や、家臣の佐伯惟定は、かつて少数の兵で島津の大軍を散々に翻弄した歴戦の名将だ。
堅城に拠って守りを固めれば、十分に対抗できる。
「行栄。儂は上方にあがれば満足に指示は出せなくなるであろう。お主の判断で動いてもらうしかない」
俺は居住まいを正し、行栄の目を真っ直ぐに見据えて臼杵の後事を託した。
「仮に何者かが――いや、まだるっこしいな。毛利輝元あたりが上方で秀頼君を奉戴して決起した場合、臼杵を包囲している諸将とこの二階堂家に、『九州の徳川方の大名を討て』と命令してくるに違いない。場合によっては、旧領回復を吹き込んで大友義統を九州に送り込んでくるやもしれん。だが、決して動くな。動くのは上方の情勢がどう転ぶかを見定めてからよ。それまでは、周囲の者は全て敵と心得よ」
「……ははっ!」
「そして志賀親次。そなたを臼杵二階堂家の宿老に任じる。行栄を支えてやってほしい。――行栄、今日からこの親次を実の父と思うて信頼せよ。形ばかりの父ではないぞ。親次、ジュリアおたあをそなたの養女とせよ。そして行栄、そなたはジュリアと祝言を挙げるのだ。さすれば親次はそなたの義父となる。儂も安心して臼杵を離れられるというものよ」
俺の言葉を受け、志賀親次は居住まいを正すと、斜め向かいに座る前田利益に向き直り、畳に両手をついて頭を下げる。
「利益殿。大殿の仰せの通り、おたあ殿を我が子として迎え入れ、行栄様の正室として送り出したく存ずる。戦火の朝鮮からあの娘を救い出し、日本へ連れ帰ってくれたのは他ならぬ利益殿。されど主命なれば、我が養女として貰い受けること、お許し願いたい」
筋を通そうとする親次の真摯な言葉に、利益は頷き、畳に手を突いて深く頭を下げ返した。
「何を改まって頭を下げなさる。俺が朝鮮で拾って臼杵に連れ帰ってからこの五年、あいつを施療院で温かく見守ってくれたのは親次殿と聞く。親次殿の養女になって若君に嫁ぐなら、あいつにとってもこれ以上の幸せはなかろうと存ずる……親次殿、おたあのこと、どうかよろしく頼みます」
武辺者同士の筋の通ったやり取りに、広間の空気がふっと温む。
だが、突然の縁組の下知に、行栄は顔を赤らめつつも、縋るように視線を向けてきた。
「父上……」
「なんじゃ、まだ何か不明、不満な点でもあるのか」
「行栄は、心配にございまする」
「心配か。島津もまた情勢が定まるまでは動かぬはず。ゆえに万一の窮地の折は島津豊久殿を頼れ。庄内で与えた恩の分はきっちり返してくれよう」
なおも策を授けようとする俺の言葉を、行栄は強い口調で遮った。
「いえ、そうではありませぬ! 行栄が心配なのは、天下を掌中で転がすかのように語る明敏な父上を、徳川内府が生かして手元に置いておくかどうか、その一点にございまする! これ幸いと、理由など適当にでっち上げてお命を殺めようとするのではないでしょうか。父上の居られぬ二階堂など、徳川内府ほどの大夫なら後でいくらでも料理できましょう!」
その悲痛な叫びに、志賀親次もまた力強く頷いて同意を示した。
すると、横で腕を組んでいた南御前が、ふっと口元を綻ばせた。
「よう言うた、行栄」
南御前は行栄を褒めると、そのまま冷ややかな目を俺に向けてきた。
「昔からこうよ。夫殿は己を軽く見すぎておる。もっと自分が他の大名どもからどう見られているか、自覚せねばならん」
「うぐぅ……」
痛いところを突かれ、ぐうの音も出ない。
確かに、行栄の言う通りだ。
道中で何らかのアクシデントを装い、「不幸な事故が起こってしまった」と俺を盤面からあっさり取り除こうとする手は十分にあり得る。
あの本多正信あたりなら、平然とした顔で毒殺や刺客を仕掛けてきかねない。
ならば、どうやってその暗殺の手を封じるか――
「それならば案ずるな。此度の上洛には、前田利益に同道してもらう。天下無双の傾奇者が側に控えておれば、刺客の一人や二人、近寄ることすら叶わぬわ」
俺は腕を組み、絶対の信頼を寄せる剛勇の将を引き合いに出して楽観的に言ってみせた。
だが――名指しされた前田利益はといえば、腕組みをしたまま太い眉をひそめ、珍しく難しい顔で唸っていた。
「……義父殿、そう易々とはまいりませぬぞ。俺の槍が届く間合いなら、いかなる剛の者が束になってかかってこようと斬り伏せて御覧に入れましょう。だが、徳川内府の手の者は伊賀の服部党。その手筋は毒や不慮の事故を装う闇討ち。大軍の只中や屋敷の奥へ連れ込まれ、手足を封じられてしまえば、俺一人で防ぎ切るには限度というものがあり申す」
武辺者の前田利益をして、そう言わしめる徳川家の謀略の深さ。
剛胆な男の慎重な物言いに、俺が思わず言葉を詰まらせると、南御前が静かに口火を切った。
「よし、私もついていこう」
「……うん?」
耳を疑った。
思わず間抜けな声が喉から漏れる。
「忘れたとは言わさぬぞ。いつぞやそなたは、私を京への物見遊山の旅に誘ってくれたではないか。その約束をまだ果たしてもらっておらぬ」
――あれは俺がまだ豊臣秀次公の付家老だった頃の話であったか。
もう六年ほど昔、孫の盛宗の婚儀の席で確かにそんな約束を交わした記憶がかすかによみがえる。
って、待て待て待て!
「な、み……南御前も付いてくるだと!?」
「ジュリアはまだ若いが、奥の女官たちは我が手で日頃から厳しく鍛えておる。しっかりと支えてくれよう。ジュリアがこの臼杵の奥を仕切る立場になれば、私のこの城での役目も終わる。ちょうど良い区切りよ。夫殿と共に須賀川に戻るとしよう」
「いや、戻ると言っても、大坂へ寄るのじゃぞ! 虎の尾を踏みに行くような危険な旅路に、なぜわざわざそなたまで――」
「夫殿を一人で行かせれば、毒を盛られるか闇討ちに遭うて帰らぬ人となるのが目に見えておるからよ」
南御前はすっと背筋を伸ばし、威風堂々たる眼差しで広間を見据えた。
「前田利益の武芸だけでは足らぬ。手出しできぬ『格』を突きつけるのだ。伊達の二百六十万石、二階堂と岩城の百万石の血脈に通ずる私が人質同然に乗り込めば、徳川内府とて手出しはできまい。私を巻き添えに夫殿を害せば、奥羽全軍を敵に回すことになる」
「いや、しかし……そなたと政宗は昔から犬猿の仲ではないか。あやつがそなたを人質に取られて素直に怯むとは思えんが……」
思わず口を挟んだ俺に、南御前は不敵な笑みを浮かべて鼻を鳴らした。
「ふん、あの生意気な甥っ子と私が反目しておることなど、遠く上方の徳川方が知る由もなかろう。伊達の血を引く実の叔母と甥の関係であることは紛れもない事実。政宗の弱みを握ったと勝手に勘違いして、大事に抱え込んでくれよう。私が乗り込んで睨みを利かせるのが最上の策よ」
合して三百六十万石の重みと血縁の看板を最大限に利用し、徳川の疑心暗鬼を逆手に取る――女傑ならではの、あまりにも豪胆かつ冷徹な盤面支配の一手であった。
前田利益はその策の妙に感じ入ったように膝を打ち、豪快に口元を歪めた。
「なるほど……! そいつは一本取られ申した。俺の槍よりも遥かに強力ですな、天下無敵の盾となりましょう」
あまりの決断の早さとその筋の通りように、行栄は安堵に満ちた表情で南御前に向かって深々と畳に頭を擦りつけた。
「御母上、なにとぞ父上のこと、よろしく御頼みいたします」
「某からも、大殿の警護、何卒よろしくお願い申し上げます」
志賀親次までもが行栄にならって深々と平伏した。
「うむ、任せておけ」
南御前が力強く頷き、頼もしい笑みを浮かべる。
どうしてこうなった!?
危険な虎の尾を踏みに行くはずの旅路が、気がつけば天下無双の豪傑と、東国に睨みを利かせる恐妻を同伴した、波乱に満ちた上洛行へと様変わりしていた。
<1600年 5月上旬>
初夏の風が吹き抜け、臼杵の城下を青葉の香りが包み込む朝方。
居室の畳の上には、この季節らしく据え置きの風炉が設えられていた。炭火に掛けられた鉄瓶から、しゅうしゅうと心地よい湯気が立ち上っている。
傍らでは、南御前が手際よく茶を点ててくれていた。
手慣れた仕草で差し出された茶碗を受け取り、俺がその温かな渋みを口に含んで一息ついた、まさにその時であった。
「――大殿、伏見の吉次殿より至急の文にございます!」
廊下を急ぎ足でやってきた近習が、息を乱しながら一通の書状を差し出してきた。
表書きの筆跡を確認し、俺は結び目を解いて紙面を広げた。
読み進めるにつれ、思わず喉から苦い呻きが漏れ、顔が険しく歪んでいくのを自分でも自覚する。
「そんなに今日の茶は苦かったか、夫殿」
南御前は風炉の鉄瓶の蓋を少しずらし、いたずらっぽく口元を緩めながらこちらの顔を覗き込んできた。
だが、俺があまりの苦悶に眉根を寄せ、手元の文を握りしめたまま硬直しているのを見ると、すぐにその笑みを収めた。
近習の切迫した声と俺の顔色から、文の重みを即座に悟ったのだろう。
南御前は手元の茶巾を静かに置くと、声を潜めて真っ直ぐにこちらの顔を見据えてきた。
「……吉次の知らせか。浦戸に流れ着いたあの紅毛人の件、上方はどう動いたのだ」
「ああ……恐れていた最悪の報せじゃ。大坂城で徳川内府が、リーフデ号の南蛮人――船の案内役を務めておった、ウィリアム・アダムスという男を直々に引見した」
――英国人の航海士、のちの三浦按針その人である。
大坂城の台所番として紛れ込ませてある石川五右衛門が、天井裏へと忍び込んでその対面を克明に盗聴していたのだ。
「その席でな、政宗が豊臣家に内緒でイスパニアと軍事同盟を結ぼうとしていた企みが、あらかた徳川内府の耳に入ってしまったらしい」
「……なんと」
南御前の声音が一段低くなった。
「徳川内府は即座に激怒し、配下の伊奈昭綱と河村長門を仙台へ急派したとある。同盟の仔細な弁明と、江戸への人質差し出しを要求したそうだ」
「江戸へ人質だと?」
南御前は呆れたように眉を跳ね上げ、鼻を鳴らした。
「ふん、何を今さら寝ぼけたことを。愛と五郎八を伏見から戻した折、代わりに我が弟の彦九郎――盛重を差し出したはず。それを棚に上げて新たな人質を今度は江戸に出せなど、虫の良すぎる要求をあやつが呑むはずなかろう」
「その通りよ。盛重殿を差し出して筋は通してあるのだ。これ以上人質を出す謂れはないと、政宗なら鼻で笑って突っぱねるに決まっておる」
「それに、愛は昨年末に虎菊丸を産んだばかりだぞ」
南御前は手元の茶巾を畳み直しながら、どこか誇らしげに目を細めた。
「子を産んだばかりの愛妻を、あやつが仙台の外へ出すわけがあるまい」
南御前の言う通りだ。
愛姫が政宗に嫁いでから二十余年。
長女の五郎八を授かってからでも優に五年が過ぎていた。
ようやく腕に抱くことが叶った、正真正銘の伊達宗家の嫡男である。
命懸けで跡取りを産んでくれたばかりの妻を、江戸へ差し出すような政宗ではない。
人質要求など、最初から門前払いにする気満々に違いない。
「イスパニアの一件と人質要求だけなら、政宗も口先三寸で煙に巻いて使者を追い返せよう。だが……徳川内府の真の狙いは別よ。手紙の続きを見てみよ。奥羽諸国の金山銀山について、豊臣家への即時引き渡しを通告したとある」
南御前が細い指で文を取り上げ、鋭い眼差しで紙面を追う。
「……金山だと? あれは確か、輝宗が豊臣に臣従する際、直轄化を骨抜きにしてうやむやにしたはずではなかったか」
「そうじゃ。さらにその後、俺が方広寺の大仏を木造から銅製に改めるよう秀次公を唆し、大仏建立の資金を政宗に出させる代わりに、金山の引き渡し期限をうんと先延ばしにさせた」
「だが、四年前の慶長伏見大地震で秀次公が聚楽第もろとも亡くなり、その覚書も灰になった」
南御前は手紙からすっと目を上げ、俺の顔をじっと見据えて小さく頷いた。
「……なるほど。約束を交わした相手が死に、慶長の役や太閤の死で沙汰止みになっていた話を、ここぞとばかりに掘り返してきたわけか」
「その通りよ。イスパニアの件は言い逃れができても、金山を差し出せと言われて首を縦に振る政宗ではない。そしてそれは伊達家だけの問題にとどまらん。我が二階堂の高玉金山はもちろんのこと、奥羽鎮守府が直轄して本格的に金掘りを始めたばかりの、あの佐渡金山まで公儀に召し上げは断じて呑めぬ。佐渡には高玉どころではない、途方もない金鉱が眠っておるからの。あれを徳川内府に獲られるのは致命的よな」
「つまり……手切れということだな」
「ああ。金山の引き渡しを表立って命じてきた以上、徳川内府と奥羽鎮守府との全面対決はもはや確定路線よ。徳川内府は奥羽征伐を見越して、すでに上方の諸大名へ根回しを始めていると吉次が伝えてきておる」
「……いよいよ、天下が割れるか」
南御前は文を卓の上に静かに戻すと、ふうと短いため息をついた。
そして、俺の羽織の襟元が少し乱れているのを無言で引き寄せ、手際よく直してやる。
「なれば、夫殿の覚悟も定まったな。明日は行栄とおたあの祝言、そしてその翌日には上方への出立ぞ。いつまでも暗い顔をしておる場合ではない」
妻の手がぽんと俺の肩を叩いた。
長年連れ添った彼女なりの、静かな気合の入れ方だった。
「……そうだな。腹を括るとしよう」
俺は残りの茶を干すと、手紙を南御前が湯を沸かす風炉の炭火にくべた。
立ち上る炎が紙片を灰に変えていくのを見届けてから、ゆっくりと立ち上がった。
明くる日、臼杵城の大広間にて行栄とジュリアおたあの祝言が執り行われた。
広間には二階堂家の家臣一同が居並び、晴れ着を纏った行栄と、慎ましくも美しい花嫁姿のおたあが並んで座している。
杯が交わされ、祝いのざわめきが満ちる中、俺は座を立って一同を見渡し、声を張り上げた。
「皆の者、よう聞いてくれい! 今日この日を以て、この臼杵城の城主の座を行栄に譲ることと相成った! わしと南御前は明朝より上方へと向かい、徳川内府殿より隠居の許しを得たのち、生まれ故郷である奥州須賀川へと戻る所存である。皆、この若き夫婦を我が身と思って支えてやってほしい!」
広間からどよめきと祝福の声が上がる。
だが、俺は鋭い眼光でそれを制し、言葉を継いだ。
「――なお、わしが上方へ向かった後、この日ノ本には未曾有の大乱が巻き起こる! かつて南朝と北朝に分かれて国を二分した、あの大戦の再来よ! ……しかれども、決して案ずるな! その大乱を凌ぎ切るための策は、すでにこのわしより、新領主たる行栄にことごとく授けてある! 行栄の命に従っておれば、万事心配はご無用であるぞ!」
豪快に言い放つと、家臣たちから地鳴りのような歓声が轟いた。
恐慌を未然に防ぎ、行栄の求心力を一気に高めるための大芝居であった。
宴もたけなわとなり、酒宴の熱気が頂点に達した頃合いを見計らい、俺は「小用じゃ」と軽口を叩いて広間を抜け出した。
夜風の吹き抜ける庭先へと歩みを進めると、目配せしておいた志賀親次が静かに闇から姿を現す。
「大殿、いかがなされました」
「親次、よく聞け。あそこで酒を酌み交わしている、田原紹忍と宗像鎮続のことじゃ」
庭の木立の向こう、広間では二人が陽気に杯を傾けているのが見えた。
田原紹忍は、かつて豊後最大の勢力を誇った田原氏の庶流の出であり、妹が大友宗麟の正室となったことで大友家の加判衆として重きをなした男だ。
宗像鎮続もまた筑前の古族・宗像氏の一族であり、同じく大友家の加判衆に名を連ねていた。
どちらも俺が豊後に左遷された折、秀吉によって付けられた目付け同然の武将たちである。
「もし上方で毛利輝元が決起し、旧領回復を吹き込んで大友義統を豊後へ送り込んできたならば――あの二人は間違いなく、二階堂を裏切って義統の下へと身を投じる」
志賀親次の眉が跳ね上がった。
「成敗いたしますか」
「いや、斬るな。あの二人は二階堂の旗を持ち出して勝手に動くであろうが、しばらくは泳がせておけ。……もし毛利方が勝ったならば、二人が行栄の許しを得て動いたことにしてしまえ。奴等を仲介として我が家を毛利方へ滑り込ませればよい。だが、徳川方が勝ったならば――軍旗を勝手に持ち出して背信を働いた不忠者として、一切の容赦なく戦場で討ち果たせ」
志賀親次は目を見張り、やがて背筋を正して深く平伏した。
「……御意。両睨みの計、しかと胸に刻み込み申した」
「頼んだぞ、親次。行栄とおたあを頼む」
祝言の翌朝、臼杵の空には清々しい青空が広がっていた。
初夜を無事に終えたらしく、どこかぎこちなくも寄り添い合う行栄とジュリアおたあの若夫婦。
その後ろには志賀親次をはじめとする臼杵二階堂家の家臣団がずらりと並んでいる。
さらに大手門の外には、かつての慶長豊後地震の折に大津波を言い当てて以来、俺を「デウスの使徒」と崇めて止まない臼杵や大分の民たちが、鈴なりになって街道筋に見送りに集まっていた。
「大殿様、南御前様、道中ご無事で!」
「南無サンタ・モリヨシ大明神様! どうか我らをお見捨てなきよう!」
神道なのか仏教なのかキリシタンなのか、祈りの境界線が完全に消し飛んだ熱狂的な大合唱とともに、民衆が一斉に頭上へと何かを掲げ始めた。
何事かと目を凝らした俺は、思わず息を呑んだ。
彼らが両手で恭しく掲げているのは、十字架などではない。
手のひらほどの角材に丁寧に彫り出された、素朴ながらも特徴を捉えた無数の「木彫りの像」――片手に数珠、もう片方の手に粗末な十字架を握り締め、台座に墨黒々と『モリヨシ大明神』と書き込まれた、紛れもない俺自身の木像であった。
(……おいおいおい! 昨年の夏、大分郡でお触れを出して『生きている人間の像を彫るな』と厳命したはずだろうが……!)
我が臼杵二階堂家は、領内統治の根幹として「政教分離」を国是に掲げている。
神仏やキリシタンの信仰そのものは個人の勝手として寛容に認めるが、宗教が領内統治の掟や政道に干渉すること、そして統治者自身が宗教的な権威にすり寄ることは厳禁としてきたのだ。
それなのに、統治者である俺自身が生神として偶像崇拝され、禁令を無視して像まで彫り散らかされているなど、国是の崩壊そのものではないか。
民の素朴な善意と熱狂から湧き出た信仰ゆえに、邪険に叩き割って処刑するわけにもいかないのが余計にタチが悪い。
法度と民情の狭間に挟まれ、俺が激しい頭痛に額を押さえていると、隣の駕籠の簾がすっと持ち上がった。
「案ずるな、夫殿。……あれは、夫殿の守り本尊である普賢菩薩の仏像らしいぞ」
南御前が真顔を作り、吹き出しそうになる口元を扇子で隠しながら声をかけてきた。
「は……? 普賢菩薩だと?」
「うむ。そなたがお触れで『生きている人間の像を彫るな』と禁じたゆえ、民草も知恵を絞ったのよ。あれは左京亮盛義の生身の像ではなく、夫殿の守り本尊たる普賢菩薩様をお彫りしたまでのこと。『お顔立ちがたまたま領主様に瓜二つに似てしまい、胸に十字架を抱いておられるのも、南蛮の教えを慈悲深き仏の心で包み込まれたお姿にすぎぬ……』と、寺社方の役人に言い張っておるそうじゃ」
「屁理屈もいいところじゃろうが……!」
民百姓の逞しすぎるすり抜け工作に、俺は呆れ果てて天を仰いだ。
だが、仏像という建前をあらかじめ設けてあるなら、少なくとも表向きは「政教分離の掟を破って領主の生神を崇拝した」という法度違反の咎で無理に処罰する必要もなくなる。
南御前なりの、国是の綻びを取り繕うための機転を利かせたフォローであった。
「……ふふっ。『あーめん南無サンタ・モリヨシ大明神』か。普賢菩薩様も、まさか南蛮の神と習合させられるとは思ってもおられまいな」
面白そうに笑う南御前の声を隣に聞きながら、出立の号令を発し、俺は民の熱狂的な祈りとざわめきを背に受け、駕籠を揺らせて臼杵の城下を後にする。
槍持ちに朱槍を持たせた前田利益を先頭に、隊列が進む。
これから向かう先は、天下を二分する謀略の坩堝、大坂だ。
徳川家康にも我が屁理屈が通じるよう、俺も普賢菩薩に祈ってみようか。
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