1599-6 加増
<1599年 5月上旬>
石田三成狙撃事件の真相は、意外なところからあっけなく露見した。
実行犯は徳川家康の放った刺客でも、島津家中の過激派でもない。
美濃金山城主の森忠政の配下たちである。
かつて織田家の重臣・斎藤利堯に仕え、その死後に森家に吸収された加治田衆を、森忠政は日頃から冷遇していた。
それに深く不満を募らせていた加治田衆のまとめ役の井戸宇右衛門の家臣たちが、「忠政が常日頃から憎悪を口にしている石田三成を暗殺してやれば、忠政は狼狽し、窮地に陥るに違いない」と短絡的な嫌がらせを企み、独断で凶行に及んだのだ。
天下を揺るがす大事件の引き金が、家中の待遇不満からくる内輪揉めの当てこすりとは、何ともお粗末極まりない動機である。
事の重大さに真っ青になったのは森忠政だ。
配下が天下の五奉行を狙撃したと知るや否や、忠政は直ちに井戸宇右衛門の首を刎ね飛ばし、その血まみれの首を手土産にして徳川家康の屋敷へ転がり込んで自首する。
結果、家康の裁定により忠政には高野山での謹慎処分が下され、狙撃騒動そのものは一応の幕引きを迎えることとなった。
風魔八卦衆を使って犯人を探そうとした矢先の出来事である。
……なお、この森忠政。
史実と違ってその所領は、未だ美濃金山七万石に据え置かれたままだ。
それこそが、彼が石田三成を骨の髄まで恨んでいた最大の理由である。
昨年の秋、伏見城で太閤秀吉が死の淵にあった折、森忠政は秀吉の遺言を勝ち取ろうと押し掛け登城を繰り返していた。
兄・森長可の旧領であった信濃国川中島十四万石余への加増転封の約束を取り付けようと必死だったのだ。
だが、その面会を冷酷に突っぱね、追い返したのは石田三成であった。
それもこれも、我が歴史知識チートによる助言——「森忠政を手懐けようとしても無駄。恩は必ず仇で返されよう」と俺が三成へ入れ知恵したことが原因である。
あの忠告を愚直に守った三成が忠政を冷遇した結果、忠政の恨みを買い、巡り巡って配下の暴発を招いてしまったのだ。
突き詰めれば、石田三成の負傷は俺のせいと言っても過言ではない。
自責の念を抱えつつ、俺は伏見の石田邸へと見舞いに訪れる。
通された奥の寝所には、血の気を失った顔で敷布団に横たわる石田三成の姿があった。
その傍らには、抜き身の槍のごとき鋭い眼光を放つ筋骨隆々の偉丈夫——島左近清興が、一瞬たりとも油断なく控えている。
かつて大和筒井家で「筒井の右近左近」と謳われながらも、主家と衝突して出奔した名将・島左近。
その器量に惚れ込んだ三成が、己の禄高の半分を差し出して家臣に迎え入れたという逸話は天下に名高い。
その左近は、三成が狙撃されたあの日、三成の命で徳川方の動きを探る任務に就いていたため、主君の護衛に付き添えなかったことを今なお激しく悔いている様子だ。
俺は三成の枕元に歩み寄り、深々と頭を下げる。
「……治部少輔殿。すべてはそれがしが余計な助言を差し挟んだせいで、このような仕儀となってしまった。弁解の余地もござらん。どうか許されよ」
すると、身動きもままならない三成は、痛みに微かに眉をひそめながらも、首を横に振って掠れた声を返してくる。
「頭を上げられよ、左京亮殿……。御身の忠告に従ったのは身共自身の判断。己の油断から不覚を取っただけのことでござる……」
「さもありなん!」
横から唸るような低音を響かせたのは、同席していた島左近だ。
左近は無念を押し殺すように拳を握りしめ、悔しさを露わにする。
「殿の命とはいえ、この左近が傍らを離れておらねば、あのような雑魚どもの凶行など一刀のもとに叩き伏せてお見せしましたものを……!」
「左近、滅多なことを申すな。大事な任務を任せたのは儂だ」
三成に窘められ、左近は苦渋に満ちた表情で押し黙る。
包帯が痛々しく巻かれた三成の右肩を観察する。
銃弾は肩口を深く抉り、内部の骨まで粉砕している。命を留めたのが奇跡と言える重傷であり、完治には三ヶ月から半年以上の療養が絶対に必要だ。
特にここから一、二ヶ月は、傷口の化膿とそれに伴う高熱との過酷な戦いになるだろう。とてもではないが、天下の政務を取り仕切れる状態ではない。
その冷徹な現実を、誰よりも理解しているのは三成自身だ。
「……大坂の前田大納言様が、亡くなられたと聞いた」
三成は天井を睨みつけ、悔しげに歯を食いしばる。
「島津の内紛の件も含め……もはや天下の政は、内府が思うがままに仕切っていくことになろう。何ゆえ、このような大事の時に、己はこんな手痛い傷を負ってしまったのか……!」
無念に身悶えしようとする三成を、俺と左近は慌てて押し留める。
「治部殿、気を昂ぶらせては傷に障りますぞ。まずは傷を癒すことだけに集中なされよ」
「その通りですぞ、殿。天下の差配など、まずは御身の命があってのことでございます」
ふたりがかりで宥められ、三成は荒い息を吐きながら力なく目を閉じる。
長居は無用と判断し、俺は寝所を辞することにした。
廊下へ出たところで、見送りに付いてきた島左近に、声を潜めて耳打ちする。
「左近殿。治部殿の身体が少しでも動くようになったら、伏見を離れ、領地の近江佐和山城へ引き上げて療養させた方がよいかもしれぬ」
「……佐和山へ、でございますか?」
訝しげに眉を寄せる左近に、俺は真剣な眼差しを向ける。
「利家殿が世を去り、治部殿が倒れた今、徳川内府殿は激しく動かれよう。目の前で内府殿が豊臣の掟を破り、天下を塗り替えていく様を間近で見せつけられては、生真面目な治部殿の心と身体が保ちますまい。大坂伏見の喧騒から引き離すことこそが、治部殿の命を守る道かと存ずる」
俺の言葉の真意を悟ったのか、島左近は深く得心がいったように、その大きな頭を下げてくる。
「……はっ。左京亮様のお心遣い、誠にかたじけなく存じまする。殿の傷の様子を見計らい、必ずや佐和山へお連れいたしましょう」
左近の頼もしい返答を見届け、俺は重苦しい足取りで石田邸を後にするのだった。
島津家の血生臭い主君と宿老の相打ちデスマッチから始まった一連の騒動の、真の激震はここからであった。
豊臣家中において徳川に対抗し得た唯一の重石・前田利家は世を去り、五奉行筆頭の石田三成は銃撃による深傷で病臥の身。
奥羽鎮守府将軍として我れ関せずな伊達政宗は、遠く奥州の国許にいる。
この絶好の好機を、老獪な徳川家康が見逃すはずもない。
家康はこれまでの慎重な融和路線から一転、牙を剥く。
暗殺未遂や相次ぐ騒乱の鎮圧を名目に江戸から呼び寄せていた数万の大軍による軍事的威圧を背景に押し立て、「亡き太閤殿下の御遺命である」と強弁して、残る奉行衆に対して伏見城の明け渡しを堂々と要求したのだ。
二階堂屋敷の奥で息を潜める俺のもとへ、闇を駆ける風魔八卦衆が方々から逐一情報を持ち帰り、報告を重ねていく。
影のように縁側に現れた八卦衆の報告によれば、伏見城を取り囲むように進軍した徳川軍の先手の中には、かつて備中の地で二階堂家に仕官を申し出てきたあの猛将・水野勝成の姿もあったという。
どうやら頑固な父・忠重と無事に和解を果たし、徳川の陣列に復帰したらしい。
城内を守るべき奉行衆のうち、長束正家、増田長盛、前田玄以の三名は、城下を埋め尽くす徳川軍の圧倒的な軍事圧力と家康の恫喝に抗う術を持たなかった。
彼らは泣く泣く伏見城の明け渡しに応じ、城を退去させられる。
徳川軍は有無を言わさぬ力づくの手法で、天下の政庁たる伏見城を強引に乗っ取ってしまったのだ。
慶長四年 閏三月十三日の正午。
葵の御紋を翻らせた徳川家康が、伏見の徳川家下屋敷から堂々と伏見城の本丸へと移り、天下の政務を開始する。
「内府様が伏見城に入られた」
「これで名実ともに、徳川内府様が天下人になられたのだ」
京洛や伏見の民、そして行き交う諸大名の使者たちは、恐れと驚きを交えながら口々にそう噂しあっていた。
その日の暮れ方、夕食の膳を囲んでいると、同席していた息子の行栄が、箸を止めて真剣な面持ちで尋ねてきた。
「父上……伏見城が徳川様に押さえられてしまいました。これから天下は、そして我が家はどうなりましょうか」
「……」
俺は思わず箸を止め、息子の顔をまじまじと見つめてしまった。
かつては「山伏になりたい」と頑なに言い張り、俗世を捨てて山野を駆けることばかり夢見ていたあの息子が、である。
朝鮮の過酷な戦場をくぐり抜け、いまや天下の趨勢と家の行く末を案じるまでになった。
一端の武将らしく成長した姿がたまらなく嬉しく、父親としての誇らしさが胸に満ちてくる。
(行栄よ、いつの間にか大局にも目を向けるようになったか……)
その成長が嬉しくて、つい気が緩んでしまった。
息子の前で父親としての威厳を示したい色気が出てしまう。
「……案ずるな、行栄。徳川内府殿(家康)の狙いなら、おおよその見当はついておる」
俺は静かに湯呑みを置き、落ち着いた声で盤面を解き明かしてみせる。
「徳川内府殿は伏見城を押さえたが、決して万全の策で動いたわけではない。加賀大納言殿が身罷られ、治部殿が倒れた好機に飛びついただけの拙速な一手よ。諸大名への根回しも不十分なまま動けば、必ず周囲の警戒を招く。だからこそ、今後は『豊臣の公儀』を盾にして諸大名を懐柔し、あるいは圧力をかけて味方に引き入れようと躍起になるはずだ」
「焦り……というわけにございますか」
「そうだ。そして徳川内府殿にとって最大の懸念は、背後に控える奥羽鎮守府だ。迂闊に敵に回せば自滅すると分かっておるゆえ、表立って牙を剥くような真似はできぬ。我らとしては今の豊臣の体制を極力維持し、徳川内府殿に奥羽征伐などという愚挙を起こさせぬよう上手く立ち回らねばならぬ」
父親の深慮遠謀を信じ込んだ行栄は、目を輝かせて身を乗り出す。
「なるほど! ならば我が家もこれまで通り、父上のお力で無事にやり過ごせましょうか!」
「ま、まあな。……と言いたいところだが、現実はそう甘くはない」
俺は表情を引き締め、声の調子を低く落とした。
本音を言えば、臼杵の差配を行栄に任せて自分は須賀川でのんびり隠居を決め込みたいところだ。
だが、この風雲急を告げる政情下で、俺の隠居など天下が許してくれるかは極めて怪しくなってきた。
そして何より、目の前の息子には突きつけねばならぬ現実がある。
「行栄。天下がどう転ぼうと、お前が早急に九州・臼杵へ戻らねばならぬことだけは確実だ。……それも、ただ領地を守るためではない」
「……と、仰いますと?」
「日向で起きている島津家中のお家騒動——伊集院の反乱よ。公儀を掌握した内府殿は、己の権威を示すためにも必ずや島津に鎮圧を命じる。その折、隣国の臼杵藩にも出兵の命が下るのは確実だ。お前にはその先頭に立ってもらわねばならん」
俺の言葉に、行栄はごくりと息を呑んだ。
朝鮮の泥沼から生還したばかりの若武者の顔に、再び戦場へ赴く武将としての厳しい緊張が走る。
給仕をしていた吉次もまた、静かに手を止め、憂いを帯びた瞳で息子と俺を見つめていた。
母として我が子を再び戦火へ送り出す痛惜はあるはずだ。
だが、彼女は取り乱すことなく、静かに背筋を伸ばしてその言葉を受け止めている。
「行栄、そして吉次もしかと心得ておいてくれ。我が家が生き残り、奥州の平穏を守るためにも、西海での戦働きから逃げることは叶わん。……覚悟を決めてくれ」
「……ははっ! この行栄、二階堂の名に恥じぬ働き、必ずや果たしてご覧に入れます!」
力強く頭を下げた行栄の返答に、吉次もまた、母としての覚悟を宿した凛とした眼差しで「気をつけて励みなさい」と静かに頷いてみせた。
頼もしく成長した息子の決意を見届け、俺は胸中で東国に残る一族の顔を思い浮かべる。
宇都宮を守る長男の盛隆、磐城を治める次男の盛行、佐野を継いだ三男の行久、須賀川の本拠を預かる孫の盛宗、そして南会津を固める弟の資近——。
思い描いていたのんきな隠居生活など当分はお預けだ。
九州から関東・奥羽に至るまで、遠く離れた一族が手を取り合い、家族一丸となって押し寄せる乱世の荒波を乗り切らねばならない。
俺は茶を飲み干し、来るべき難局に向けて静かに腹を括り直すのだった。
<1599年 5月中旬>
伏見城に居を構えた徳川家康は、精力的に政務を動かし始めていた。
三成が凶弾に倒れて不在のこの隙を奇貨とし、慶長の役における蔚山城の戦いの論功行賞の見直しを主導。
現地の諸将から恨みを買っていた軍目付の福原長堯を減封に処し、太田一吉の大野代官職を解任した。
両名には蟄居処分という厳しい沙汰が下される。
福原は石田三成の妹婿であり、太田はかつて三成の配下を務めて以来、彼と極めて親交が厚い腹心であった。
武断派の諸将の機嫌を取るため、徳川家康は石田派の勢力を一気に追い落とす腹を決めたらしい。
石田三成という最大の要を失った文治派の勢力は、徳川家康の強引な政治力によって急速に削ぎ落とされつつあった。
その論功行賞の見直しの結果を伝えるため、伏見城から徳川家康の使者が二階堂屋敷を訪れる。
現れたのは、徳川四天王の一角、井伊直政であった。
彼と直に顔を合わせるのは、天正十一年(一五八三年)、下総古河の甘棠院で執り行われた古河公方・足利義氏の葬儀に、俺が奥羽鎮守府の代表として参列して以来のことだ。
あの時、北条氏直が取り仕切る葬儀の場で言葉を交わした二十三歳の若武者も、今や不惑の四十歳。
互いの無事と再会を喜び、昔日を懐かしむものの、あの場で関東の覇者として圧倒的な勢威を誇っていた北条一門はすでにこの世にない。
激動の乱世を生き抜いてきた者同士、交わす言葉の端々に深い隔世の感が漂う。
俺は井伊直政に上座を譲り、彼がもたらした豊臣家——実質的には徳川家康からの下知を恭しく受け取った。
だが、読み上げられたその内容は、我が耳を疑うものだった。
蔚山城の戦いにおける抜群の武功を正当に評価するとして——。
豊後大野七万石の本領加増。
ならびに、大分七万石の代官職への補任。
もともと二階堂家は、福原と太田の讒言によって奪われるまで大野七万石の代官を務めていた。
それが正式な領地として組み込まれた上、新たに大分七万石の代官職まで宛がわれたのだ。
元々の本領である豊後臼杵六万石と合わせれば、実質的に合計二十万石——差し引き七万石もの莫大な加増である。
これでは豊後一国のほぼ半分を丸ごと統治する大領主になってしまう。
いや、いらん言うたやないか!
先の伏見城での評定の際、俺は沙汰の見直しなど毛頭望まぬ、速やかに隠居させてくれとあれほど念を押したはずだ。
思わず顔を引き攣らせる俺に対し、直政は落ち着いた佇まいに淀みない笑みを浮かべ、滑らかな口調で言いくるめにかかってくる。
「大分を治めていた福原長堯の苛政は目に余るものがござった。府内新城の無謀な築城工事により、領民の怒りは一揆寸前まで膨れ上がっております。かの荒れた地を早急に鎮めるには、蔚山城で並ぶ者なき武名を示し、民政家としても卓越した手腕を持つ左京亮殿の力添えがどうしても必要なのです」
この実質七万石の加増は、泗川会戦や光陽湾海戦で凄絶な武功を挙げ、特別に五万石を加増されたあの島津家をも上回る破格の厚遇であった。
表向きは徳川家康が二階堂盛義という武将をそれだけ高く評価し、全幅の信頼を置いている証に見える。
だが、果たして本当にそれだけか?
(……なかなかに、いやらしい手を打ってきおる)
此度の見直しにおいて、九州の諸大名の中で加増に預かったのは二階堂と島津の二家のみ。
他の諸将は一石の恩賞すら得られていない。
ただでさえ奥州からやってきた余所者である我が二階堂家が、並み居る九州勢を差し置いて最大の加増を受ければ、周囲から凄まじい嫉妬と怨嗟の目を向けられるのは火を見るより明らかだ。
さらに、あれほど死力を尽くして戦った島津家にとっても、自分たち以上の恩賞をかっさらっていった二階堂家への反感と警戒を募らせるに違いない。
二階堂家を九州諸大名の中で完全に孤立させ、徳川の威光に縋らざるを得ない状況へ追い込む——家康の老獪で底意地の悪い罠が透けて見えた。
さらに井伊直政は、声音を一段低くして追加の命を口にした。
「只今、日向の情勢が極めて不穏。何時でも動けるよう、臼杵の軍備を整えておかれよ」
(……やはり来たか)
日向の不穏——すなわち、島津家中のお家騒動の件だ。
先日行栄に語った通り、徳川内府が天下の覇権を誇示するために伊集院の反乱鎮圧を睨み、隣国の臼杵藩にも軍備と即応体制を命じる流れ自体は完全に予測通りであった。
だが、問題はその動員規模だ。
元の六万石の小藩なら後方詰めの待機で済むが、実質二十万石の大領主として豊後半国を背負わされたとなれば話はまるで違う。
いざ出兵の号令が下れば、北の日向国境から都城を攻める討伐軍の主力を張らされ、最前線で激戦を強いられる羽目になりかねない。
思わず苦い表情を噛み殺す俺へ、直政はさらに追い打ちをかけるような報告を告げる。
「当主の跡継ぎであった島津忠恒殿と筆頭家老の伊集院忠棟殿が相討ちとなる異常事態を受け、島津家では急遽、島津豊久殿を次代当主として立てることで家中の統一を図ったとのこと」
「豊久殿が、次代当主に……」
その名を聞いた瞬間、俺は思わず眉根を寄せ、いっそう苦虫を噛み潰したような顔になってしまった。
島津豊久は、戦さ上手で名高い島津四兄弟の末弟・島津家久の息子だ。
九州征伐終了直後に急死した父の所領である日向佐土原三万石を引き継ぎ、家久亡き後は伯父の島津義弘に養育されて育った。中継ぎとして世子を務める資格は十分にある。
現在三十歳の豊久に対し、亀寿は二十八歳。年齢の釣り合いも取れている。
豊久は一族の島津忠長の娘を正室に迎えていたが、子がなかったこともあり、このたびあっさりと離縁して亀寿を娶り直すのだという。
島津の家督を守るためとはいえ、なんとも割り切りの良すぎる男だ。
俺の脳裏に昨年末の博多での光景がよぎる。
荒ぶる蹴鞠に熱狂する忠恒を余所に、ひとり濃密な血の匂いを纏いながら、敵の首を求めて前田利益と一触即発の殺し合いを演じかけた、あの筋金入りの狂犬の姿だ。
(よりによって、あの戦闘狂が当主の座に就くとは……)
史実においてのちに「悪家久」と恐れられた島津忠恒の暴君ぶりも相当なものだが、あの生粋のいくさ狂いが差配を執る島津家は、別の意味でとんでもない方向へ暴走しそうな予感しかしない。
当然ながら、そんな新体制が国許ですんなりと受け入れられるはずもなかった。
殺された忠棟の嫡男・伊集院忠真は、島津家への出仕を強硬に拒絶。
忠真の正室は島津義弘の娘(御下)であるため、島津家中は完全に真っ二つに割れていた。
中央で伊集院方を擁護する石田三成が凶弾に倒れて不在の中、徳川家康は伊集院家が主張する所領安堵の朱印状の引き継ぎを否認。
島津豊久による伊集院討伐を事実上黙認したのだ。
そして俺に下されたのは、日向都城に立て籠もる伊集院軍が動いた際に備え、北の豊後から睨みを利かせつつ、豊久率いる島津討伐軍とともに何時でも出陣できるよう軍備を整えておけという命令であった。
(軍備の命令自体は予想通りだったが……豊久の世子就任と二十万石への加増が重なるとは。厄介極まりないことになったぞ……)
直政の前では平静を装って頭を下げたものの、内心では深いため息を吐き出してしまう。
またしても、九州の最前線に重い足枷を嵌められてしまったのだ。
これで須賀川へ帰ってのんびり隠居するという道は、完全に絶たれたと言っていい。
徳川家康という怪物は、こうして着実に外堀を埋め、天下取りへの布石を打ち進めている。
やがて彼が西国の諸大名を従え、強大すぎる伊達政宗を標的にした『奥羽征伐』を企てるのは必定だ。
九州の臼杵から奥羽は、あまりにも遠すぎる。
いざ大事が起きた時、遠く離れた西海の地から我が故郷と一族を護るためには、今この上方に出向いている間に、打てるだけの手を打っておかねばならない。
押し寄せる歴史の濁流を前に、俺は次の手立てを脳内で猛スピードで組み上げ始めていた。
<1599年 5月下旬>
俺と行栄の二人揃っての豊後への下向が決まり、二階堂屋敷はにわかに慌ただしい空気に包まれた。
大野七万石の加増と大分七万石の代官職拝命に伴う政務の引き継ぎ、そして何より日向の不穏な情勢に備えるため、息子の行栄を伴って早急に臼杵へ向かう準備を進める。
出立を数日後に控えた夜、俺は伏見の二階堂屋敷の留守を預かる吉次を自室に呼んだ。
今年の一月に博多から戻った際、朝鮮の過酷な戦場から無事に生還した行栄の姿を抱きしめ、涙を流して喜んでいた彼女である。
ようやく戻った最愛の我が子を、休む間もなく再び九州の不穏な地へと送り出すのだ。
母親としての胸中には、言葉に尽くせぬ不安や懊悩が渦巻いているはずであった。
だが、そこは聡く芯の強い佳い女である。
武家の妻としての覚悟を胸に秘め、取り乱すような素振りは微塵も見せず、慈しむような笑みを浮かべて静かに俺の前に座っていた。
「吉次、すまぬな。またしてもお前に一人、この不穏な京洛に残ってもらうことになってしまった」
申し訳なさに頭を下げる俺に対し、吉次はふっと優しげに微笑み、首を横に振った。
「何を仰いますか、大殿。奥州屋の商いは甥たちがそつなく差配しておりますし、この屋敷の留守なら私にお任せください。豊後での大所帯の切り盛り、行栄のこともよろしく頼みますね。くれぐれもお身体をおいといください」
「うむ、頼りにしている。……それと吉次。この前頼んでおいた、鷹の手配はついたか?」
「ええ、抜かりなく。奥羽から届いた見事な大鷹を一羽、すでに入手してございます」
吉次は穏やかに微笑み、その澄んだ瞳で俺を見つめて口を開く。
「……贈り先は、大坂の宇喜多中納言(秀家)様でしょうか?」
「さすが吉次よ、よく分かっておるな」
俺は嬉しげに口元を綻ばせ、我が愛妾の変わらぬ聡明さを心から褒め称えた。
五大老の一角である宇喜多秀家は、天下に名だたる無類の鷹好きとして知られている。
噂によれば、屋敷で飼育している鷹の数は百羽を優に超え、鷹匠を含めたその世話人だけで実に三百人もの人夫を抱え込んでいるという。
その莫大な道楽のせいで宇喜多家の台所事情を大いに圧迫していると囁かれているほどだ。
まあ、そこは他人の家の懐事情である。
宇喜多家の財政がどうあれ、この極上の大鷹によって秀家の関心を買い、俺の話に耳を傾けてくれさえすればどうでもいい話であった。
吉次はそれ以上詮索することなく、「ふふっ、大殿の考えることですから」と柔らかな笑みを返してくれた。
続いて、伏見屋敷の留守居役を任せる名古屋山三郎を呼び出す。
俺は山三郎の前に風魔八卦衆を呼び集め、その統率を彼に託した。
「山三、お前には八卦衆を預ける。上方の情勢、とりわけ伏見城の徳川内府殿や大坂城の動きを昼夜問わず探り、急報を臼杵へ送り届けるのだ」
「はっ、仰せの通りに」
引き締まった表情で応じる山三郎に、俺はさらに声を潜め、真剣な眼差しで見据える。
「それともう一つ、最も肝要な命がある。山三、八卦衆、何があろうと吉次の身を護れ」
吉次は今も山三郎の妻である阿国と親しく交わり、その一座とも懇意にしている。
日頃から阿国の一座が稽古や親睦のために二階堂屋敷を頻繁に訪れている状況であれば、有事の際、芸人に紛れ込ませて吉次を屋敷の外へ連れ出すことなど造作もないはずだ。
変装や変身を得意とする八卦衆のくノ一・月門の音羽に吉次の身代わりを務めさせれば、監視の目を欺いて入れ替わるのも容易いだろう。
「もし上方に戦乱の火の手が上がり、この屋敷が巻き込まれそうになった折には、そなたの妻の阿国殿と連携し、吉次を芸人に紛れ込ませてでも絶対に京洛から逃がすのだ」
「阿国の一座を使って……でございますね。心得ました」
「最悪の事態に陥った折は、石川五右衛門を頼って大坂城へ逃げ込め。いかなる事態になろうとも、命を繋ぐことを最優先とせよ」
「ははっ! 我が命に代えましても、吉次様をお守りし、大殿の御期待に応えてみせまする!」
山三郎と八卦衆の力強い誓いを聞き届け、俺は小さく息を吐いた。
徳川家康が伏見城を掌握し、天下が大きく軋み始めている今、京洛に残す者たちへの安全策はいくら重ねても足りることはない。
打てる布石はすべて打った。
俺は決意を固め、再び西海の地・豊後臼杵へと旅立つ準備を整えるのだった。
出立の朝、吉次と名古屋山三郎、そして屋敷の者たちに見送られ、俺と行栄は馬上の人となった。
「大殿、行栄、道中くれぐれも気をつけて」
「母上も、どうかお健やかにお過ごしくだされ」
行栄と吉次が交わす穏やかな別れの挨拶を見届け、俺は手綱を引き締める。
このまま直ちに西国へ向かうわけではない。
まずは淀川を下って大坂城へと入り、豊臣秀頼君への拝謁や大坂方への挨拶、そして宇喜多秀家への鷹の贈呈といった諸々の用件を済ませた後、瀬戸内海を経由して豊後臼杵へと向かう旅程であった。
ふと隣を見遣ると、いつものように豪快に笑いながら大身槍を担ぐ巨漢の姿がない。
前田利益は、此度の旅路には同道していなかった。
すでに利益には、俺から命じて加賀・金沢へ向かわせてあった。
金沢の宝円寺で営まれる前田利家の本葬に、俺の名代として参列させるためである。
『義父殿の名代として、叔父御の弔い、しかと務めてまいりまする』
伏見を発つ前、命を下したときの利益の引き締まった表情が思い出される。
そして利家の死を受け、正室のおまつ殿は落飾して仏門に入る手筈となっていた。
俺の持つ歴史知識が正しければ、出家したおまつ殿はやがて『芳春院』と号し、前田家を支え続けるはずだ。
どうやら利益の実母は彼を産んで間もなく亡くなったらしく、おまつ殿は利益にとって母親代わりとなって深い慈しみをもって育ててくれた大恩人でもあるという。
叔父の死と、育ての母の落飾。
かつて前田の家を飛び出した傾奇者にとっても、おまつ殿の剃髪を見守りたい気持ちはひとしおであったはずだ。
もちろん、単なる弔問の使者として送り出したわけではない。
利長が後を継いだ前田家の動静をつぶさに探るため、利益には葬儀の後もそのまま加賀にしばらく逗留するよう命じてある。
(……徳川家康が、史実通り『加賀征伐』を目論む可能性は極めて高い)
前田利家という最大の障壁が消え去った今、家康が次に標的とするのは、弱体化した五大老の一角たる前田家だ。
前田利長に謀反の疑いを着せ、軍事恫喝を加えて屈服させにかかるのは目に見えている。
もしもの時には、前田家と我が二階堂家、そして奥羽鎮守府が強固に手を結び、徳川の専横を阻むための橋渡し役を利益に担ってもらうつもりであった。
前田の系譜に連なる利益以上に、両家の連合を繋ぐ適任者はいなかった。
そのため、風魔八卦衆の一人・金門の九谷を利益に同道させてある。
九谷の機転と脚力があれば、加賀で異変が生じた際にも、電光石火の速さで臼杵の俺や京の山三郎へ急報が届くはずだ。
「父上、いかがされましたか?」
並走する行栄が、物思いに沈んでいた俺の横顔を覗き込んできた。
「いや、何でもない。大坂へ急ごう。……西海へ下る前に、片付けておかねばならぬ大仕事が山ほどあるからな」
俺は小さく笑って馬腹を蹴り、伏見の街道を大坂に向けて駆け出した。
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