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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第八章 ズレゆく世界
49/83

1582-2 本能

<1582年 7月>


 天正十年六月八日。

 多気山城の破却を終えて人足を解散し、鹿沼城に戻ったタイミングで本能寺の変を知る。


 滝川陣営に入り浸っていた前田利益から、上方の変事に関するその情報がもたらされた。

 前日の六月七日には既にもう、厩橋城の滝川一益の耳にその情報が届いていた計算となる。

 僅か一週間足らずで、東国にまで明智光秀謀反の衝撃が波及していた。


「あまり驚かれませぬな」


 せっかく急いで知らせに来たのにと前田利益は不満顔だ。


 すまぬな。

 一応それっぽい言い訳はしておく。


「織田は武田を討って一気に所領を拡大し過ぎたな。京の近郊に明智しかおらぬでは、裏切られても仕方あるまい。ある意味、武田勝頼が身を挺して織田信長を罠に掛けたようなものよ」


 それよりもだ。


「利益。そなた、面白がって誰彼構わず話してるだろ」


「おお、そうですな。そういえば途中で会った真田信幸殿にも伝えましたよ」


 ケロリと答えてきたので苦笑する。

 この前田利益という大曲者は、全く誰の味方かわからぬ、雲のような男よな。


「それで、滝川一益殿はなんと言っておられたか」


「伯父上が言うには、かくなる上は北条と一戦交えてから上方へ上ると」


「それだけか」


「ええ。他には何も」


 好きにしろということか。

 さすがに滝川一益も、ここで我ら二階堂家に助力を求めるのは無理筋とわかっているようだ。


「ふむ。しばし待て」


 書斎に入って硯を取り出し、一枚の紙に乱筆乱文で書き殴る。


 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 多気山城の破却許可のおかげで、下野の制覇がとても簡単になったので感謝します。

 お礼に一つ助言しますが、田舎侍の北条など放っておいてさっさと清洲にお戻りなさい。

 急がねば西国から駆け戻った猿が明智を討ち、三法師殿を担いでやりたい放題し始めますぞ。

 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


 短い三行の文である。

 どう受け取るかは滝川一益次第だ。


 封もせずにそのまま前田利益に渡す。


「一益殿にこれを渡してくれ」


「承知仕った」


 一読して眉を顰めつつも、頷く前田利益。


「壬生の兵を連れていっても構わぬ。されど、もし北条と戦さになれば、一日目のみ加勢せよ。二日目は戦わずに兵を退け」


 滝川一族は前田利益の親族だ。

 そして前田利益は一か八かの大戦さが大好きな武将である。

 止めても無駄ならば、快く送り出すまで。


「感謝致す!」


 前田利益は颯爽と巨馬に跨り、兵を集う為に壬生城に向けて駆けていった。


 前田利益の後ろ姿を見送った後、野州の各所領に陣触れを出す。

 そして鹿沼の兵が揃うまでの間、子育て中の吉次を呼ぶ。

 仙台の輝宗殿宛の文をしたためるべく、祐筆を勤めてもらう。


「最後の一文は、後ろ盾を失った安東愛季と石川信直をこの機を逃さず攻め滅ぼすべし、で良いですか?」


「うむ。それで良い」


 相変わらず綺麗な文字だ。

 吉次が書き上げた文の最後に花押を入れる。


 檜山城の安東愛季は、先月半ばに比内の浅利勝頼を酒席に呼び寄せて毒殺する暴挙に及んでいた。

 そして織田信長の信任をいいことに、比内地方に侵攻して大館城を占拠している。

 比内を脱出して戸沢領内に逃げ込んだ勝頼嫡男の浅利頼平は、安東愛季の無体を鎮守府に訴えていた。


 田子館の石川信直は鎮守府の出頭要請に長らく応じず、仙台への出府を拒否し続けた。

 南部家の家督は欠席裁判で九戸実親が継ぐことが決まるも、その間に勝手に三戸城を占拠して南部信直を名乗り始めている。

 安東愛季を通し、織田信長の内諾を得ていたのだろう。


 好き勝手に振る舞った結果、本能寺の変で梯子を外された格好となった両者。

 今更鎮守府に詫びを入れても遅く、容赦は無用であった。






 織田信長という名の巨星が墜ち、日ノ本中が大騒ぎだ。

 皆が闘争本能全開で生存戦略に走り始める。

 我が二階堂家も他家に習い、野州の国衆に陣触れを行って宇都宮城攻めを開始する。

 

 今回の宇都宮城の再奪取作戦は、野州の手勢だけで充分に勝ち目がある。

 宇都宮城はまだ第二期拡張工事中で、防備はスカスカだ。

 そもそもの話だが、宇都宮伊勢寿丸側が単独で召集出来る兵の数は、すでに三千人を大きく割っている。

 最大十万人の軍勢が駐屯可能な規模を想定した広大な城を守るのには、とてものことだが手が足りない。


 尚、奥州の手勢については盛隆に指揮を任せて白河まで出張らせ、万が一に備えて佐竹勢の動きを見張ってもらっている。

 常陸の腹中に水戸重通という敵を抱え、更に北条氏政の動静が不明な今、佐竹義重は動きようが無いはずだが、念の為である。


 天正十年六月十三日の夕刻に、八千の兵で宇都宮城の総構えに迫る。

 宇都宮伊勢寿丸の元服式は今月末に予定されていた。

 元服に合わせて下野守に叙任される手筈だった為、まだ二階堂家当主の盛隆が下野守のままだ。

 信長と信忠が討たれて京は混乱しており、伊勢寿丸への官途の斡旋が流れてしまうのは確実である。

 織田家の後ろ盾を失った今、逆に無冠の伊勢寿丸らが宇都宮城を占拠していることこそが不当であった。

 二階堂家は、誰はばかることなく宇都宮城の再奪取に乗り出せる立ち位置にいた。

 参陣した数多くの宇都宮恩顧の諸将も、武功一番の多功綱継を含め、皆が二階堂家に忠勤を誓ってくる。


 攻城戦に先立って軍規を徹底させる。


「宇都宮二荒山神社には絶対に火を放つな。城下町も極力破壊せぬように。後で作り直すのは我らぞ」


「「「おうっ」」」


 北面の工事中の区画から総構えの内部に侵入。

 一気に旧来の宇都宮城近くまで兵を進めた。


 戦闘モードで確認すると、本丸の上空に表示されている兵数は想定よりだいぶ少なかった。

 五百人くらいか?


 念のために謀臣の守谷俊重に確認する。


「守谷俊重、宇都宮方の兵数はだいぶ少ないようだな」


「まさか織田信長が倒れるとは思ってもいなかったでしょうからねー。向こうもだいぶ混乱してるみたいですよ」


 攻め寄せる前から既に流言飛語が広まっており、大軍の二階堂勢の噂を恐れて兵が集まらなかったようだ。

 もしもの時の心の拠り所であった多気山城が失われていたのも大きい。


 こちらが進めていた宇都宮城の拡張工事は総構えの外郭が中心であり、総構えの内部の防備強化は後回しにしていた。

 五百人足らずでは籠城もままならないのは明らかである。


「多功綱継、南呂院を説得してくれぬか。伊勢寿丸殿や弟御も含め、無事に常陸に送り届けるゆえ、大人しく降伏するようにとな」


「はっ、かしこまりました。感謝申し上げる」


 既に趨勢は決まったとはいえ、かつての主君の血筋をここで絶やしてしまっては、宇都宮家恩顧の諸将たちも寝覚めが悪かろう。

 慈悲の心を見せつける。


 結果、南呂院は宇都宮城の明け渡しを認めた。

 伊勢寿丸らを連れ、泣く泣く実家の佐竹家を頼って落ちていった。






 我ら二階堂家の宇都宮城の占拠に遅れること一週間後。

 滝川一益率いる上州勢と北条氏直率いる北条勢が激突。

 神流川の戦いが勃発する。


 神流川の戦いは、前日の十八日の前哨戦は上州勢の勝利、十九日の本戦は北条勢の勝利であった。

 一千名の兵を率いて一連の会戦に参加した前田利益が、壬生城に帰城した後に戦局を詳細を報告してくる。


「沼田に攻め寄せて来た上杉勢を追い払った後、北条勢の迎撃に向かいましたが、さすがに数が違い過ぎましたな」


 滝川勢は二万。

 対する北条勢は六万である。

 史実よりその兵力差は開いていた。


「初日の戦さ、敵の大将首まであと少しまで迫ったんですがね。いやぁ、惜しかった」


 それでも滝川一益は直属の精兵の尾張衆三千を率いて、北条勢先陣の北条氏邦の鉢形衆五千を撃ち砕く。

 北条家当主の北条氏直自らが二万の兵で駆けつけたが、そこに前田利益が率いる壬生衆一千が猛然と奇襲を掛け、あわやの展開になりかけた。


「二日目はお言いつけ通りに後陣に控えていたのですが、出番が来る前に大勢は決してしまいましたわ」


 同数の戦さでは実戦慣れした尾張衆には勝てぬと悟った北条勢は、翌日には数を頼みの包囲戦に切り替える。

 滝川一益はこれに上州勢を投入して対抗しようとしたが、肝心の上州勢の戦意は低く尾張衆の孤軍奮闘となる。

 ついに戦線は崩壊し、滝川勢は多くの将を討たれて敗走する。

 滝川一益は厩橋城に帰城した後、上州勢に人質を返還し、碓氷峠を越えて小諸城へ退去して行った。


「上州の主だった面々は、皆一斉に北条家に帰順しておりますな。信州と甲州も武田の遺臣たちの決起で大騒ぎです」


 滝川一益は上州から叩き出され、河尻秀隆は甲府で討ち取られ、森長可は人質を皆殺しにして撤退した。

 織田勢の退場により、武田家の遺領である上州と信州と甲州は草刈り場となる。


 魚津城失陥の絶体絶命な窮地から生き残った上杉景勝。

 伊賀越えで九死に一生を得て三河に生還した徳川家康。

 神流川の戦いに勝利して上州を手中に収めた北条氏政。


 三者が合い争う構図の天正壬午の乱の幕開けである。


「真田殿がどう動かれるか、何とも楽しみではありませぬか」


 まさしく前田利益の言葉のとおりであろう。


 鍵となるのは、上州西部の岩櫃と上州北部の沼田にはためく六文銭の旗。

 真田昌幸の動向次第で勝者が決まる。





 



<1582年 11月>


 下野国内に残存していた宇都宮家の直轄領。

 その制圧が全て完了する。

 徳次郎城、下横倉城、寅巳山城、石那田城、猪倉城らの諸城は全て開城した。

 宇都宮家の金蔵であった篠井金山も接収だ。


 宇都宮城に凱旋し、宴を開いて諸将を労わる。


「皆の者、良くやってくれた。白河の関を越えて七年。ようやく旧弊な宇都宮家の体制を一掃出来た。野州もこれで大きく生まれ変わろう。新しき世の夜明けぞ!」


「「「ははー、おめでとうございまする!」」」


 長かったー。

 宇都宮家中の統制の無さの隙を突き、櫛の歯を一本一本落としていくように、宇都宮家の廷臣たちを順繰りに排除してきた結果である。

 時間を掛けたお陰で無理のない権力移行を実現できており、二階堂家の統治は野州の民に受け入れられている。

 このまま順調に領国化を進めて行きたいところである。


 ただ、注意すべきは常陸の佐竹義重の動向であった。

 俺に宇都宮城から追い払われた際、伊勢寿丸とその弟は元服して国綱、時綱と名乗りを変えている。

 その国綱、時綱らの亡命先の佐竹家との友好度は、もちろん著しく悪化中だ。

 佐竹家からの抗議を受けて、今年予定していたれんみつ姫の岩城家への輿入れは差し止めとなっている。


「佐竹の様子はどうか」


 水戸に近い真岡城主の大内定綱が応える。


「水戸城の攻略にようやく成功した模様。江戸重通は北条ではなく、妻の実家の結城家に落ち延びておりますな」


 宇都宮城を攻めた当初、俺の動きがあまりに速攻過ぎて、虚をつかれた佐竹義重は手も足も出なかった。

 本能寺の変の情報を逸早く入手し、容赦なく活用出来た我ら勝利である。

 その後、北条氏政が天正壬午の乱に没頭し、常陸方面への北条家の圧力は低下するも、佐竹義重は国内の江戸重通討伐を優先。

 二階堂家は野州での軍事行動の自由を得ていた。


「そうか。水戸城が落ちたか。これで常陸一国が佐竹義重のものとなったわけだ」


 奥村永福が発言してくる。


「北条氏政も徳川殿と和約を結んで矛を収めた様子。これから関東は北条、佐竹、そして我ら二階堂の三すくみに成りましょう」


 その言葉通り、常陸の動乱と時を同じく、天正壬午の乱も終結していた。

 二転三転の末、上杉景勝が北信濃四郡、徳川家康が信濃中南部と甲斐、北条氏政が上野支配の住み分けとなる。


「いやいや、永福。そうとは限らぬ。真田が何やら面白いことになっておる」


 前田利益が嬉しげに報告して来た。


「和約の条件の沼田の引き渡しを真田昌幸殿が拒んでいるのですわ。沼田は己が自力で奪った所領と主張されてな」


 滝川一益が上州を去った後、真田昌幸はまず上杉景勝に従属を表明して、砥石城、岩櫃城、沼田城を占拠する。

 次に碓氷峠を越えて信濃への侵攻を目論む北条氏直に寝返り、川中島まで従軍して上杉軍と対峙する。

 北条氏直が上杉景勝と講和し、徳川家康を討つために南進して甲斐に向かうと、今度はあっさり徳川家康に寝返っている。

 清々しいまでの二股膏薬である。

 いや、この場合は三股か。


「資近に沼田を支援出来る体制を整えるよう、命じておくとしよう」


 実弟の大久保資近の治める南会津から沼田まで、尾瀬を通る険道が通っている。

 会津沼田街道として今から整備しておけば、何かあった時に連携が取りやすくなる。


 ただ真田との連携だけでは心許ない。

 現在の東国の勢力図をざっくり脳内で計算する。


- 伊達輝宗 230万石+α(新田開発分)

- 北条氏直 220万石

- 徳川家康 120万石

- 二階堂盛隆 65万石

- 佐竹義重(+多賀谷重経、岩城領) 65万石

- 上杉景勝 45万石

- 結城晴朝(+水谷勝俊、山川晴重、岩上朝吉)14万石

- 真田昌幸 10万石

- 新発田重家 10万石


 関東では北条家の勢力が突出している。

 また、鉄砲を大量に仕入れている佐竹と多賀谷の連合軍も、侮れないものがあった。

 やはりここは輝宗殿の協力を仰ぐ必要があるだろう。


 その輝宗殿だが、本能寺の変の直後に鎮守府将軍として安東愛季と石川信直の追討を宣言。

 既に両者の成敗を完遂していた。






 宴を終えて奥の私室に引き下がり、須賀川から送られてきた書状を読む。

 俺にとっては二人目の孫となる娘を得たばかりの盛隆からの文だ。

 伊達家の北伐の経過と結果に関する報告であった。


 天正十年八月。

 若干十六歳の伊達政宗が総大将を務める安東討伐軍が組織される。

 その数は会津・米沢・山形・庄内・雄勝・由利・角館から動員した総勢三万。

 同じタイミングで輝宗殿自ら率いる南部討伐軍が、仙台から出陣する。

 こちらは宮城と福島を中心とした所領から動員した、総勢二万二千の軍であった。


 政宗率いる安東討伐軍の先陣は角館城主の戸沢盛安が務め、まずは安東領の南端の豊島郡に攻め掛かった。

 安東愛季の甥の豊島通季は戦わずに降伏し、続く湊城攻めの道案内を務める。

 本拠地の檜山城に引き下がった安東愛季は、三百挺の鉄砲で籠城戦を展開して善戦するも、如何せん兵の数が違いすぎた。

 一ヶ月に渡る攻防戦を経て、比内を含む安東家の所領は鎮守府軍に全て占拠され、冬を待つことなく檜山城も遂に落城。

 捕らえられた安東愛季は政宗の命令で斬首される。

 しかし、安東愛季の七歳になる嫡男の藤太郎の姿は、檜山城の何処にも居ない。

 どうやら檜山城に籠る前に家臣の蠣崎慶広に預けて遠く蝦夷地に逃したらしく、その探索はやむなく打ち切りとなっている。

 尚、我が次男の盛行は、傅役の保土原行藤と共に政宗の鎮守府軍に従軍し、初陣を飾っていた。


 南部征伐軍の方は和賀義忠の二子城、稗貫広忠の鳥谷ヶ崎城、斯波詮直の高水寺城を経由して、九戸政実の二戸城に入る。

 この時、進軍途中の高水寺城で、斯波家臣の岩清水義教の斡旋によって、最上義光が輝宗殿に頭を下げる一場面もあったと聞く。

 南部側は一族の北信愛、南長義、石亀政頼、毛馬内政次らが石川信直を支持し、南部領の各地で鎮守府軍に抵抗した。

 輝宗殿率いる南部征伐軍は、鹿角へも最上義光の別働隊を派遣し、一つ一つ南部方の城を攻め落としながら着実に三戸城に迫る。

 道案内兼先陣役は九戸政実が務め、奥州一の騎馬部隊と名高い九戸党の武力が評判どおりと証明してみせた。

 三戸城は九戸党の活躍で落城し、石川信直は中立を標榜していた八戸政栄の元へ逃れるも、それを追って輝宗殿は兵を進める。

 八戸政栄の降伏を受諾して更に北進した輝宗殿は、野辺地城にて焼け爛れた石川信直の首と対面する。

 この時、鎮守府の北伐に合わせて津軽三郡内の南部勢力を駆逐した大浦為信が野辺地城まで駆けつけ、輝宗殿の御意を得ていた。


 鎮守府軍は三ヶ月足らずで出羽の安東家と陸奥の南部家を駆逐した。

 そして一連の北伐後の論功行賞で、鎮守府は北奥羽への影響力をさらに高めている。

 

 豊島郡、秋田郡と土崎湊は伊達家の直轄領となる。

 戸沢盛安は政宗の肝煎りで由利郡が加増となり、由利十二党の生殺与奪の権を委ねられる。

 豊島通季は檜山郡へと移り、安東家の家督継承を許されて安東通季に名を戻す。

 比内郡を取り戻した浅利頼平は、伊達家の直参扱いを要望して認められた。


 南部攻めで一番の大巧を挙げた九戸政実には、本領の二戸郡と九戸郡の他、北郡、三戸郡、下閉伊郡の三郡が与えられる。

 なお、上閉伊郡は稗貫氏と和賀氏に分配。

 岩手郡は全域が斯波詮直に返却され、更に麾下の最上義光の活躍を評されて鹿角郡が加増となった。

 津軽三郡を安堵された大浦為信は、津軽為信に名を改めた。






 天正壬午の乱の陰で、伊達家は後背の憂いの排除に成功し、その力を大きく伸張させている。

 俺と輝宗殿の二人の当面の目標であった奥羽一統と下野の完全制覇まで、あと少しだ。


 上方では羽柴秀吉が中国大返しで明智光秀を撃破し、次期天下人レースに華々しく名乗りを挙げた。

 羽柴秀吉はその後の清洲会議で三法師を担ぎ上げ、信長の遺領を有利に配分し、織田家中の主導権争いを優勢に進めている。

 来年には織田家を二分しての柴田勝家との大戦さに及ぶだろう。

 余程のことがない限り、秀吉の勝利は揺るがないと見る。


 秀吉の勢力が東国にまで及んで関東惣無事令が発動されるのは、史実ベースで行けば今から五年後。

 さて、それまでに目標を達成出来るかどうか。


 吉次が部屋の外から声を掛けて来る。


「大殿、お客様が参られましたよ」


「そうか、通してくれ」


 現れたのは面長で顎がしゃくれている僧形の男。


「よう参られた。早速だが常陸の鬼退治の話をしようではないか」


「はい。鬼は是非にも退治せねばなりますまい」


 板部岡江雪斎がニヤリと不敵に微笑んだ。






<年表>

1582年 二階堂盛義 38歳


01月

◇白河の吉次(32歳)出産。二階堂盛義の四男の栄丸誕生(後の二階堂行栄)。

◎須賀川で二階堂盛隆(21歳)の正室の甄姫(22歳)が第二子を懐妊。

▼三戸の南部晴政(65歳)死去。南部晴継(12歳)が家督を継ぐ。

☆安土の織田信長(48歳)、土佐の長曾我部元親(43歳)との交渉を打ち切り。四国征伐の準備を開始する。


02月

▷備前の宇喜多直家(53歳)病死。妻のお福(33歳)と嫡子の秀家(10歳)を羽柴秀吉(45歳)に託す。

▼三戸の南部晴継(12歳)、暗殺される。石川信直(36歳)と九戸政実(46歳)が対立。内戦状態となる。

▼高水寺の斯波詮直(34歳)、南部家に攻め込んで岩手郡を奪還。最上義光(36歳)活躍。

☆井伊谷の井伊万千代(21歳)、元服して井伊直政を名乗る。

▽豊後から天正遣欧少年使節出発。

◆木曽の木曾義昌(42歳)、甲斐の武田勝頼(36歳)に叛いて織田信長(48歳)に降る。

☆安土の織田信長(48歳)による甲州征伐発動。織田信忠(25歳)に三万の先遣隊を任せる。

☆遠江の徳川家康(39歳)、織田勢と連携して駿河に攻め込む。甲斐河内の穴山信君(41歳)、寝返り。


03月

◆越後の上杉景勝(26歳)、新潟の新発田重家(35歳)を攻めるも敗退。

★京の近衛前久(46歳)、太政大臣叙任。織田信長(48歳)の本軍六万余の甲州征伐に同道。

▲浅間山噴火。

◎宇都宮の二階堂盛義、仙台の大評定に参加。南部家の後継者争いに介入。

◆南信濃で高遠城の戦い。織田信忠(25歳)の猛攻により仁科盛信(25歳)戦死。


04月

◆甲斐郡内の小山田信茂(42歳)謀反。天目山の戦いで武田勝頼(36歳)、信勝(15歳)自害。武田家滅亡。

◆安土の織田信長(48歳)、滝川一益(57歳)を関東取次役に任じる。滝川一益、上野進出して厩橋城に入る。

☆越中で魚津城の戦い。柴田勝家(60歳)の越中平定戦で上杉景勝(26歳)大ピンチ。

▷備中で高松城の戦い。羽柴秀吉(45歳)の水攻めで毛利輝元(29歳)あっぷあっぷ。


05月

◆北信の真田昌幸(35歳)、織田信長(48歳)から領地を安堵され、滝川一益(57歳)の与力大名となる。

◎宇都宮の二階堂盛義、滝川一益(57歳)と会談。前田利益(31歳)の紹介で真田昌幸(35歳)、真田信幸(16歳)と知り合う。

◆厩橋の滝川一益(57歳)、関東の諸将を集めて能を興行。

◎宇都宮の二階堂盛義、滝川一益(57歳)の要請に応じて宇都宮城を宇都宮伊勢寿丸(15歳)に返却。多気山城破却。


06月

▼檜山の秋田愛季(43歳)、大館城主の浅利勝頼(53歳)を暗殺。嫡男の浅利頼平(28歳)、比内を脱出して伊達家に泣きつく。

▼田子の石川信直(36歳)、仙台鎮守府の許しを得ずに三戸城に入城。南部信直を名乗る。

★遠江の徳川家康(39歳)、安土城で織田信長(48歳)の饗応を受ける。饗応役の明智光秀(53歳)、信長(48歳)に蹴られる。

★京で近衛前久(46歳)、太政大臣退任。織田信長(48歳)の三職推任問題発生。

★京で本能寺の変。織田信長(48歳)と織田信忠(25歳)、明智光秀(53歳)に討たれる。

☆越中攻略中の柴田勝家(60歳)、上杉方の最前線の魚津城を攻め落とす。守備側の上杉家十三将が自刃。

▷備中攻略中の羽柴秀吉(45歳)、黒田孝高(36歳)の策に乗って毛利輝元(29歳)と和睦。清水宗治(45歳)切腹。中国大返し発動。

★丹後の細川藤孝(48歳)、大和の筒井順慶(33歳)、共に明智光秀(53歳)に助力せず。

☆美濃の稲葉一鉄(67歳)、挙兵した安藤守就(79歳)を討ち取る。

★遠江の徳川家康(39歳)、伊賀越えで三河に帰還。


07月

◆上野の滝川一益(57歳)、沼田城に攻め寄せた藤田信吉(23歳)を撃退。

◎鹿沼の二階堂盛義、宇都宮伊勢寿丸(15歳)を宇都宮城から追い出払う。伊勢寿丸、母の南路院と共に常陸に逃亡。

★京で山崎の戦い。羽柴秀吉(45歳)、明智軍を撃破。敗走中の明智光秀(53歳)、土民に殺される。

★安土の明智秀満(46歳)、坂本城に退いて明智光秀妻子と共に自刃。

★安土に入城した織田信雄(24歳)、失火で安土城を焼く。

◆北信の森長可(24歳)、海津城を放棄して逃亡。人質皆殺し。

◆南信の毛利長秀(41歳)、伊那を放棄して逃亡。

◆甲斐の河尻秀隆(55歳)、徳川家康(39歳)の扇動で決起した武田遺臣に討たれる。

◆上野で神流川の戦い。滝川一益(57歳)、北条氏政(44歳)の大軍の前に敗退。上野から撤退。

◆北信の真田昌幸(35歳)、上杉景勝(26歳)に臣従を表明。

◆能登で荒山合戦。加賀の前田利家(43歳)、上杉景勝(26歳)が支援する畠山再興軍と石動山門徒衆を撃破。

☆尾張で清須会議。織田家の跡目は織田信忠の息子三法師(2歳)に決まる。柴田勝家(61歳)、お市の方(35歳)と結婚。

◆遠江の徳川家康(39歳)、羽柴秀吉(45歳)の内諾を得て武田遺領へ出兵。

◆甲斐信濃上野で天正壬午の乱勃発。武田遺領を巡って北条氏政(44歳)・徳川家康(39歳)・上杉景勝(26歳)の三つ巴の戦い。


08月

◆北信の真田昌幸(35歳)、上杉方から北条方に寝返り。

◆相模の北条氏直(20歳)、碓氷峠を越えて五万の兵で信濃に進撃。

◆越後の上杉景勝(26歳)、一万二千の兵を率いて北条氏直(20歳)と川中島で対陣。北信濃四郡の確保で手打ち。

◆加賀の前田利家(43歳)、能登の石動山を焼き討ち。門徒衆千人を惨殺釜煎り。

■仙台の伊達輝宗(38歳)、嫡男の伊達政宗(15歳)に安東愛季討伐を命じる。角館の戸沢盛安(16歳)が先陣として活躍。

■仙台の伊達輝宗(38歳)、石川信直討伐に向かう。二戸の九戸政実(46歳)が先陣として活躍。

◎須賀川で二階堂盛隆(21歳)の正室の甄姫(22歳)出産。長女の彩姫誕生。

◆相模の北条氏直(20歳)、徳川家康(39歳)と甲府で対陣。

◆遠江の徳川家康(39歳)、黒駒合戦で北条家の別働隊一万を撃破。


09月

■北伐中の伊達政宗(15歳)、豊島館の安東通季(18歳)を寝返らせて湊城を攻略。

■北伐中の伊達輝宗(38歳)、三戸城を攻略。南部信直(36歳)、下北半島に逃亡。

◆遠江の徳川家康(39歳)、北条方の木曽義昌(42歳)を調略。

☆井伊谷で井伊直虎(42歳)死去。

◆越後の上杉景勝(26歳)、新潟の新発田重家(35歳)を攻めるも再び敗退。

▼津軽の大浦為信(32歳)、油川城を攻撃して南部の勢力を外ヶ浜一帯から一掃。

◆北信の真田昌幸(35歳)、北条方から徳川方に寝返り。沼田城を奪取。北条勢の補給路を断つ。


10月

◆遠江の徳川家康(39歳)、小笠原貞慶(36歳)に命じて深志城を奪取。松本城に改名。

■北伐中の伊達政宗(15歳)、檜山城を攻略。安東愛季(42歳)斬首。嫡男の藤太郎(6歳)、能代港から舟で西国に逃亡済み。

■北伐中の伊達輝宗(38歳)、野辺地城で南部信直(36歳)の焼け爛れた偽首と対面。伊達家の北奥羽制圧完了。

▶︎︎土佐の長曾我部元親(43歳)、中富川の戦いを経て阿波を制圧。讃岐に侵攻。香西佳清(29歳)、長宗我部家に臣従。


11月

☆越前の柴田勝家(60歳)、美濃の織田信考(24歳)と連携して羽柴秀吉(45歳)を弾劾。

★京滞在の羽柴秀吉(45歳)、大徳寺で亡き織田信長と信忠の大法要を実施。

◆常陸の佐竹義重(35歳)、水戸城を攻略。江戸重通(26歳)、結城領に逃亡。

◆天正壬午の乱終結。徳川家康(39歳)が甲斐信濃、北条氏政(44歳)が上野を領有で国分け。

◆北信の真田昌幸(35歳)、北条氏政(44歳)への沼田城引き渡しを拒否。

◎宇都宮の二階堂盛義、宇都宮家の勢力を野州から一掃。徳次郎城を攻め落として篠井金山を掌握。


12月

☆近衛前久(46歳)、羽柴秀吉(45歳)に本能寺の変への関与を疑われ、遠江の徳川家康(39歳)の下に身を寄せる。

★姫路の羽柴秀吉(45歳)、長浜城を攻撃して柴田勝豊(26歳)を降す。


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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟情報[1582年末]>

[南奥・下越]

- 伊達輝宗・二階堂盛義・田村清顕・相馬義胤・新発田重家

- 佐竹義重・岩城常隆


[関東]

- 北条氏政・千葉邦胤

- 佐竹義重・結城晴朝・那須資胤・多賀谷重径

- 上杉景勝・真田昌幸


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 64万5千石

・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 18万7千石

・奥州 伊達郡 2万石

・奥州 信夫郡 1万2千石

・奥州 白河郡 7万4千石

・奥州 会津郡 3万石

・奥州 標葉郡 1万5千石

・奥州 楢葉郡 5千石

・奥州 行方郡 2千石

・野州 塩谷郡 3万2千石

・野州 那須郡 3万5千石

・野州 都賀郡 8万5千石

・野州 安蘇郡 2万石

・野州 芳賀郡 5万8千石

・野州 河内郡 2万石 + 5万石 (NEW!)


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[良い点] 会津から尾瀬とはまた良いとこですね。木道作らなきゃ…
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