1583 豪雨
<1583年 2月>
天正十一年一月二十八日。
古河の甘棠院。
上方での羽柴秀吉と柴田勝家の両陣営の激突が喧しい中、奥羽の鎮守府の代表として第五代古河公方の足利義氏の葬儀に参列する。
足利義氏の嫡男の梅千代王丸は夭逝していた為、十歳になる娘の氏姫が喪主であった。
後見人は北条家当主の北条氏直。
当然葬儀を取り仕切るのも北条家であり、北条家の威勢を示す壮大な葬儀となる。
先年の十月、上方で羽柴秀吉が織田信長の大法要を京の大徳寺で大々的に行なっている。
三法師も織田信孝も柴田勝家も参列しない中、織田信長の後継者は自分であると満天下に盛大にアピールした羽柴秀吉。
北条氏政がその羽柴秀吉の振る舞いを意識しているのは明らかだ。
今回の足利義氏の葬儀をもって、北条家が関東公方の権力を引き継ぎ、東国の最高権威に上り詰めたことを広く知らしめようとしていた。
関八州の武家のほぼ全てが弔問に訪れており、甘棠院は人でごったがえしている。
周りのほとんどは北条の家臣、もしくは従属大名だらけだが、他家からの使者の姿も散見される。
北条家と敵対中の佐竹家からも岡本顕逸が参列しており、結城家や多賀谷家、水谷家など下総の大名たちも一応は使者は派遣して来ている。
唯一姿が見えないのは、沼田の件で揉めている真田家くらいであろうか。
北条家の同盟相手の徳川家は別格として、他家からの使者の中で一番所領が大きく位階も高いのは俺となる為、注目の的であった。
まぁ護衛として前田利益を引き連れている方が、余程強烈なのかもしれない。
何せ先の神流川の戦いで、北条氏直の首まであと一歩のところまで迫ったという話だったし。
「利益、そなたどれほど暴れたのだ。これほど睨まれるのであれば、連れてくるべきでは無かったわ。やや子を孕んだばかりの阿蛍も、そなたが側にいてくれた方が心強かったであろう」
「いやいや、全て義父殿の身を案じてのこと。阿蛍も納得してくれておりますぞ」
真面目なセリフを表情が裏切っている。
こんな面白そうなことは見逃せないと前田利益はニコニコ顔だ。
案内役の板部岡江雪斎がオホンと咳を一つして、焼香前に遠目から居並ぶ北条家の面々を説明してくれる。
北条家の長老の北条幻庵、小川台で対陣した北条氏照、上州経絡の責任者である北条氏邦、徳川家康の幼馴染の北条氏規。
そして大道寺政繁を初めとする御由緒六家の面々。
「最後にあちらが我が主人の北条氏直さま、その隣が御隠居の氏政さまで御座います」
北条氏直には神経質そうな若者という印象を受ける。
焼香時に前田利益の顔を見てビクッとするのが見てとれた。
なお、睨み付けられた前田利益は飄々としたものである。
北条氏政はヒゲが見事だった。
泰然自若と構えており、こちらの黙礼を受けても大上段の態度を崩さない。
大北条家の身代をその身で体現しているかのような太守ぶりであった。
葬儀が終わった後、昼食を振る舞われるとのことで、他家からの弔問の客の全員が広い御堂に集められる。
徳川家の使者ともその場で顔を合わせ、こちらから挨拶する。
「それがしは二階堂左京亮盛義にござる。宇都宮から参った」
「これはご丁寧にいたみいる。徳川家家臣、井伊兵部少輔直政にて候」
徳川家の使者は家康の養女を娶ったばかりの井伊直政。
天正壬午の乱で北条方との交渉役を担った二十三歳の若武者であった。
かなり才気立ってプライドが高そうな面構えである。
そして意外と小柄だ。
これが将来、井伊の赤鬼と恐れられる男か。
「左京亮殿の活躍は、我が配下の皆川広照の口から耳に入れております。なんとも見事な手口で下野一国を掠め奪ったとか」
徳川家百二十万石を代表している気概も有るだろう。
そして官位的には互いに同格となる為、ズケズケと来る。
しかし、皆川広照?
「はて、皆川広照は北条家に身を寄せていると聞いていたのだが」
「はははっ。皆川広照は儂が一向に下野を攻めぬゆえ、逐電してしもうての。今は徳川殿の下で働いておるそうよ。まったく堪え性の無い男ぞ」
北条氏政の登場であった。
「方々、わざわざ古河までご足労であった。長い葬儀で腹も空いていよう。僅かながら馳走を用意させた。堪能されよ」
北条氏政の合図で膳が運ばれてくる。
僅かとは明らかに謙遜で、豪華絢爛な膳であった。
うおぉ、この味噌汁に入っている伊勢海老、デカッ!?
亡き足利義氏への献杯を行う前に、北条氏政が何やら宣言している。
「足利義氏殿の遺言により、氏姫と小弓公方の足利頼純殿の嫡男国朝殿が婚約致した。仲人は倅の氏直じゃ。喪が明け次第、速やかに婚儀を執り行う」
北条家が里見家を滅ぼした折、安房で保護されていた小弓公方の一家も北条氏政に拘束されていた。
この婚姻によって、七十年間も古河と小弓に分裂していた関東公方がやっと統合される。
誰も成し得なかったこの快挙を遂げた北条氏政の権威は、関東において他に隔絶したものとなろう。
「それと足利国朝殿の姉の嶋姫を氏直の側室に迎える。これは徳川殿も承知されておる話よ」
「ははっ。相模守さまの仰せの通りにございます」
さっと井伊直政が手を突いて軽く頭を下げる。
天正壬午の乱での北条家と徳川家の和睦条件として、徳川家康の次女の督姫がこの秋に北条氏直に嫁ぐ予定となっていた。
嶋姫の側室入りはその後の話となるが、関東公方の義兄となった北条家五代目の北条氏直は、名実共に関東の頂点に立つことになる。
正室を迎える前に側室を決めてしまうこの北条氏政の強引さには、二百万石を超える北条家と百二十万石の徳川家のパワーバランスが表れていた。
佐竹家の岡本顕逸を始めとする北関東の武家の使者たちは皆、ニヤリと不敵に笑う北条氏政に圧倒されている。
俺はと言うと、この伊勢寿海老入りの具材たっぷりな味噌汁をどのように汁かけ飯にすべきか、一人で頭を悩ませていた。
北条氏政とせっかく一緒にご飯を食べれるのだ。
何を置いても汁かけ飯だろう。
そうか!
飯の方を汁にぶち込めば良いんじゃね?
古河から引き上げる前に、密かに北条氏政と会談を行う。
佐竹討伐に関する諸々の条件詰めであった。
協力関係を築くにあたって、北条氏政は俺に追われた面々の下野復帰を要求して来た。
「徳川に走った皆川広照は知らん。壬生義雄は幼い娘を残して亡くなってしもうた。しかし、益子父子と芳賀高継は下野に戻したい。どうかの?」
「芳賀高継は壬生周長一党を騙し討ちにしており、これを戻さば壬生衆が治りませぬな。益子勝宗らについては、すでにその所領を我が配下に与えておるゆえ、佐竹を討って代替地を得るまで待って頂きたい」
「ふむ、良かろう。江雪斎、起請文をしたためる。用意せよ」
起請文は以下の通り。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
両家の佐竹の領土の切り取りは手柄次第。
二階堂家が常陸に代替地を得た後、益子領を益子勝宗に返却する。
益子勝宗は以降、二階堂家に忠勤を誓うものとする。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
エックスデーは、氏姫と足利国朝の婚儀が終わった後の四月下旬。
田植えが終わってから戦さしたいとの北条氏政の要望に合わせた。
まずは我が二階堂家が、下野東部の佐竹方の所領を攻める段取りとなる。
<1583年6月>
宇都宮城の拡張の二期工事を進めつつ、茂木領の内偵を行ってエックスデーに備える。
古河での氏姫と足利国朝の盛大な婚儀の後、北条氏政は関東公方の名で佐竹義重に対し、岡見治広への牛久城返却と小田氏治の小田城復帰を命じた。
当然佐竹義重はこの要求を拒否。
北条氏政は関東の諸侯に佐竹討伐の号令を発する。
間髪入れずに陣触れする。
「宇都宮国綱に加担して下野守に従わぬ笠間幹綱、茂木治房の両名を討つ!」
形としては新関東公方の足利国朝の要請に応えての出陣である。
都合の良いことに二ヶ月前に那須資胤が死去しており、佐竹方の那須家は動揺している。
また妹婿の江戸重通を水戸城から追い払われた結城晴朝も、佐竹義重への不信感を募らせていた。
仙台の輝宗殿には、岩城常隆の仙台出府とれんみつ姫輿入れを佐竹家が認めぬうちは、和睦の調停には乗り出さないよう要請済みであった。
須賀川の盛隆に対し、棚倉の寺山城の防御と那須領と岩城領への牽制を依頼。
那須郡以外の野州の兵八千を動員して、茂木領と笠間領への侵攻を開始する。
<1583年 7月>
突如の我が二階堂家の茂木領侵攻を迎撃する為、佐竹義重は当初一万二千の兵を率いて下野に出陣して来た。
数に勝る佐竹軍との決戦を避け、のらりくらりと対陣を引き伸ばす。
下野方面に引き出された佐竹軍主力。
その隙を突いて北条氏政が四万の兵を率いて牛久城に攻め掛かる。
見事に牛久城の奪還を果たした北条軍は、そのままの勢いで土浦城まで進撃していた。
佐竹義重は慌てて下野から兵を返し、盟友の多賀谷重経の軍勢と合流して筑波の小田城に着陣している。
佐竹義重が去った後、我らはゆっくりと茂木治房の茂木城を攻略。
さらにかつて益子領に攻め入った時に笠間幹綱に割譲した所領も奪還する。
これで下野国内の芳賀郡はまるまる我が二階堂家の手中に落ちた。
今はそのまま南下して常陸国内に攻め入り、笠間幹綱の篭る笠間城を包囲中である。
北条氏政と対陣する佐竹義重の後背を脅かす格好であった。
「なかなか雨が止みませぬなぁ」
大内定綱が空を見上げて嘆息する。
六月に入ってから雨が途切れない。
大量の鉄砲を運用してくる佐竹と多賀谷の連合軍と対陣中ゆえ、戦局自体は楽になっている。
しかし、如何せん降り過ぎであろう。
酷い雨だ。
すると奥村永福がささっと寄ってきて報告を上げて来る。
「大殿、一大事にございます。鬼怒川が氾濫いたしました」
聞けば連日の豪雨による氾濫で、上流の日光の温泉施設だけで無く、改修中の宇都宮城もだいぶ被害を被っているとのこと。
前田利益も顔を出してくる。
「これは戦さどころではありませぬな。利根川も暴れ始めており、北条方は土浦から兵を退いたようですぞ」
「ええいっ、何て事だっ。坂東太郎め。我らも撤収ぞ!」
北条氏政と示し合わせて出兵したこのタイミングで、何としても佐竹義重を倒しておきたいところであった。
だが自然の脅威には逆立ちしても勝てっこない。
そもそもこの長雨と豪雨に関するチート知識が無かった時点で俺の負けだ。
ここは一旦宇都宮に引き上げて、急ぎ仙台の輝宗殿に講和を取り計らってもらおう。
佐竹義重は鬼義重の他に坂東太郎とあだ名されていた。
関東一の暴れ川の利根川もまた、坂東太郎と呼ばれている。
今回は坂東太郎が坂東太郎を助けた格好となる。
まだ佐竹義重を討つ時期ではないと、天が告げているかのようであった。
<1583年 9月>
小田原城で北条家当主の北条氏直の連日の婚儀が行われる。
一日目は徳川家康の次女の督姫、二日目は足利国朝の姉の嶋姫との婚儀となる。
宇都宮からも祝いの使者を送る。
北条家はこの婚儀を民と共に祝う為と称し、今年一年限りの年貢の軽減を実施している。
東海と関東地方は五十年来の長雨のせいで、今年はかなりの不作であった。
不作となると世が荒れるのは常。
上野の厩橋城主の北条高広が北条家に叛旗を翻し、近隣の那波顕宗の領地に侵攻。
略奪を働いていた。
謀臣の守屋俊重が報告してくる。
「北条家との交渉は不調ですねー。今は佐竹どころではないそうで、上野を優先するようです」
「そうか。仕方あるまい。北条家もそちらの方が兵も兵糧も少なくて済むであろうしな」
守屋俊重が報告では、北条氏邦が兵二万を率いて厩橋城攻めに向かうそうだ。
北条高広は越後の上杉家を頼る動きを見せている。
しかし、上杉景勝は新発田討伐で手一杯であり、更にその討伐自体も失敗するように策を講じてある。
越後からの支援はまず無い。
遠からず厩橋城は攻め落とされ、結果として北条家による上州の領国化は加速するはず。
今はそれで良かった。
上方では羽柴秀吉が織田信孝と柴田勝家を滅ぼし、伊勢で抵抗中だった滝川一益も降している。
大阪城の建築も順調に進んでいると聞く。
織田信雄との仲も史実通りに悪化中だ。
天下人となった羽柴秀吉に立ち向かうにあたって、北条家は強化しておくべき駒であった。
<1583年 10月>
鬼怒川の氾濫で破壊された宇都宮城の東側の外郭の修理を指揮していると、血相を変えた大関親憲が駆けてくる。
何かデジャヴ。
「左京亮さま、大変でござるぞ!越後で変事が起こり申したっ」
上杉景勝の新発田討伐の結果が、大関親憲の伝手で逸早く伝わってきたようだ。
さて、賽の目はどう出たのか。
「景勝様、放生橋にて新発田重家に討たれまして候!新発田討伐の上杉軍、総崩れでござる!」
「そうか。上杉景勝が死んだか」
また一つ、史実の歴史からの乖離が生じた。
かつて春日山城や佐野での陣中に上杉謙信を訪ねた際、上杉景勝とも顔を合わせている。
内に秘めている怒りは誰よりも強いのに、感情の表現自体が苦手な青年との印象を得ている。
それからは御館の乱での身内であったはずの上杉景虎への当たりの強さと、乱後の論功行賞での強引な姿勢にばかり目がいっていたせいだろうか。
取り立てて、その死への感慨は湧いて来なかった。
湧いたのは疑問だけ。
「討ったのは新発田重家本人なのか?」
そろそろ放生橋の戦いの時期となるのは、チート知識で知っていた。
豪雨のせいでボロ負けして撤収する上杉景勝を、奇襲で討ち取るよう輝宗殿に献策してあった。
実際に伊達実元殿率いる会津兵六千が密かに津川城に詰めていた。
しかし、その会津兵たちの出番は無かったらしい。
大関親憲によると、新発田城を包囲していた上杉軍は、折からの豪雨で城の周囲が泥田となったところを襲われていた。
豪雨で視界が不良、且つ泥田で身動きが取れなくなり、上杉軍の連携は完全に寸断されてしまう。
放生橋を渡って撤退しようとする上杉景勝の本陣を、殿軍の水原満家を撃破した三千の新発田兵が強襲。
上杉景勝の護衛の者たちはことごとく新発田兵の強弓に射抜かれて討死し、上杉景勝を守り切れなかった。
最後には、新発田重家自ら上杉景勝を追い詰め、自慢の大槍で積年の恨みを晴らしたと言う。
ん?
そう言えば新発田重家が簡単に負けないように、会津経由で大量の弓胎弓を新発田城に送り込んでいたな。
それが原因か。
鉄砲と違って、雨の影響が無いものな。
あとは史実の放生橋の戦いで身に傷を負いながらも上杉景勝を救った安田能元が、既にこの世にいなかったのも大きかったか。
「ふむ。当主が討れたとなると、急ぎ次を立てることになろう。しかし後継となれるのは、つい先日に景勝の養子となったばかりの上杉義真しかおるまい」
「まだわかりませぬが、十中八九そうなりましょう。最早、新発田討伐どころではありませぬな。幼児に越後は治めきれませぬわ」
上杉謙信の養子を経て上条家に入った畠山義春の三男が上杉義真である。
大関親憲の言う通りに僅か四歳の幼児であった。
上杉景勝に実子は無く、御館の乱で目ぼしい親族は皆殺しにしている為、他に選択肢は無かった。
上杉景勝陣営の自業自得と言える。
今後は上杉義真の祖父の上条政繁が、上杉家中での存在感を増して行くのは必定だ。
景勝の支持母体であった上田長尾系の家臣たちが反発するのは、目に見えている。
当面の上杉家の舵取り役は春日山城代の直江信綱が務めるだろうが、両者の橋渡しについては相当に苦労するだろう。
もはや上杉家は死に体と言っても過言では無い。
今頃は伊達実元殿が下越に侵攻し、諸城を攻め降し始めているはず。
伊達実元殿の実母は上越の名門の中条氏の出であり、かつては越後守護上杉家の養子に望まれた経緯もある。
伊達家の越後経略において、これほどの適任はいなかった。
死に体の上杉家には伊達家の浸透を排除するだけの力は無く、下越とその先の佐渡を伊達家が接収する日は近い。
若干ながら新発田重家が活躍し過ぎているきらいはあるが、概ね俺と輝宗殿の思惑通りに事は推移している。
唯一気に掛かるのは、上杉景勝の懐刀的存在であった樋口兼続の存在だ。
史実の直江兼続は、放生橋の戦いで主人の景勝が討たれたと勘違いし、斬死する覚悟を決めたと伝わる。
そして、この世界線では実際に上杉景勝は討たれてしまったわけだが。
「親憲よ。放生橋の一件で、そなたの伝手を使って少し調べてもらいたいのだが」
「なんでござろう」
「・・・いや、やはりやめておこう」
結局、言いかけて取り下げてしまう。
樋口兼続の消息は確かに気になるところではある。
しかし、名門の直江家を継いでいない樋口兼続は、上杉景勝のただの供回り衆の中の一人でしかない。
ネームバリューが無い分だけ、その動向を調べさせるのは逆に大変そうであった。
そもそもの話、未だ軽輩の彼の名前を俺が知り得ているのがおかしく、妙な勘繰りを受けそうだ。
あの直江兼続である。
史実と同じ覚悟を抱き、主君の後を追ったに違いない。
そう自分自身を納得させる。
この胸中に生じている漠然とした不安は、きっと只の気の所為であろう。
<1583年 12月>
上杉景勝の討死によって北条高広は抵抗を諦め、再々度北条家に降った。
厩橋城は北条氏邦が接収する。
上杉家の更なる弱体化を受けて、北条家の上州の諸侯に対する当たりはより強くなる。
由良国繁と長尾顕長の兄弟は小田原城に呼び寄せられ、そこで北条氏政に監禁されてしまう。
それぞれの居城である金山城と館林城を北条家に引き渡すよう要求され、拒絶した結果であった。
当主不在のそれぞれの所領を接収すべく、軍を発する北条氏政。
二人の母であった妙印尼は、この酷い要求を拒否して両家の家臣団に徹底抗戦を指示。
金山城に篭って北条勢を待ち構えつつ、我が二階堂家に援軍を求めて来た。
昨年の滝川一益主催の能興行の折に、それぞれの家臣団に顔を売り込んた甲斐があった。
奥村永福が問うてくる。
「援軍をお出しになりますか?」
「援軍は出す。ただし、北条方にな」
佐竹義重を討つまでは、北条氏政の機嫌を取っておく必要がある。
上州の諸侯たちからは失望されるだろうが、やむを得ない。
逆にこの機会を利用して、少しでも勢力を伸張しておくべきだろう。
援軍を謳って長尾顕長の領地に進駐し、友軍の振りをして足利城に入城。
そのまま城を占拠に取り掛かる。
「な、何をなさるのかっ」
「すまぬな。命までは取らぬゆえ、大人しく降ってくれ」
城将に刀を突き付け、降伏勧告する。
北条氏政とは下野と上野の国境で国分けの約束をしていた。
金山城へは向かわず、足利城に居座って足利郡と梁田郡の占領に精を出す。
合わせて三万石前後の横領となった。
吉次が経営する奥州屋京都支店からの情報によれば、羽柴秀吉が大阪城を完成させたとのこと。
だとすれば、来年は小牧・長久手の戦いが勃発するはず。
小牧・長久手の戦いと言えば、兵力的に劣勢だった徳川家康が、十万を超える羽柴秀吉の軍勢と互角以上に渡り合い、後の天下取りの礎となった戦さで有名であろう。
しかし、史実とは東国の状況が大きく異なっている。
まず、我が二階堂家が北条家と手を結んだ為に、北関東で勃発するはずの沼尻の戦いは起こらない。
つまり徳川家の求めに応じて、北条家は対羽柴戦線にいくらでも援軍を出せる状況となる。
また、上杉家の弱体化により、越中の佐々成政は東側の防御を気にする必要が無くなった。
羽柴側の前田利家が治める加賀に対し、総力を挙げて攻め入れる態勢となる。
もしかすると、想定よりも大分早い時期に羽柴秀吉の脅威を排除出来るかもしれない。
淡い期待が胸に宿る。
三十五年かけて成し遂げた我が二階堂家の隆盛が、今ようやく日ノ本の歴史のメインストリームに影響を及ぼし始めていた。
<年表>
1583年 二階堂盛義 39歳
01月
★姫路の羽柴秀吉(46歳)、岐阜城を攻めて織田信孝(25歳)を降す。
☆伊勢の滝川一益(57歳)、柴田方として挙兵。羽柴秀吉(46歳)を迎え撃つ。
02月
◎壬生で前田利益の室の阿蛍(22歳)が懐妊。
◆古河で足利義氏(42歳)死去。息女の氏姫(9歳)が足利国朝(11歳)と婚約。嶋姫(15歳)の北条氏直(21歳)の側室入りが決定。
03月
▽肥前の龍造寺隆信(54歳)、島津に通じた疑いで赤星統家(53歳)の人質を殺害。赤星統家、島津方に転じる。
☆遠江の徳川家康(40歳)の側室で、穴山信君(42歳)の養女の於都摩(19歳)懐妊。
04月
◆那須の那須資胤(56歳)死去。那須資晴(26歳)、佐竹義重(36歳)への従属姿勢を強化。
◎宇都宮の二階堂盛義、宇都宮城拡張の第二期工事再開。
◆北信濃の真田昌幸(37歳)、徳川家康(40歳)の支援を受けて上田城を築城。
05月
★越前の柴田勝家(62歳)、北近江に布陣して羽柴秀吉(46歳)と対峙。賤ヶ岳の合戦開始。
◆古河で氏姫(9歳)と足利国朝(11歳)が婚儀。北条氏政(45歳)、佐竹義重(36歳)に牛久城と小田城の返還を要求。
06月
◆相模の北条氏政(45歳)、足利国朝(11歳)の名前で佐竹義重(36歳)の追討を号令。
◎宇都宮の二階堂盛義、佐竹義重(36歳)と手切れ。茂木領、笠間領に侵攻。
★賤ヶ岳に布陣中の羽柴秀吉(46歳)、岐阜で挙兵した織田信孝(25歳)を討つべく大垣城に入る。
★大垣の羽柴秀吉(46歳)、賤ヶ岳の合戦で突出した佐久間盛政(29歳)を撃破。前田利家(44歳)の撤退のより柴田勝家(62歳)敗退。
☆越前の柴田勝家(62歳)とお市の方(36歳)、北ノ庄城で自害。浅井三姉妹、羽柴秀吉(46歳)が保護。
☆伊勢の織田信雄(25歳)、織田信孝(25歳)に切腹を命じ、妻子もことごとく処刑。
★姫路の羽柴秀吉(46歳)、従四位下参議に補任。大阪を接収して大阪城築城開始。
07月
▷安芸の毛利輝元(30歳)、羽柴秀吉(46歳)に臣従し、土佐の長宗我部家と手切れ。長宗我部元親(44歳)と伊予を争う。
◆相模の北条氏政(45歳)、佐竹義重(36歳)から牛久城を奪取。
▲東海関東地方で長雨。50年来の大水。
■仙台の伊達輝宗(39歳)、二階堂、佐竹、北条の三家の争いの調停に乗り出す。和睦成立。
08月
☆伊勢の滝川一益(57歳)、羽柴秀吉(46歳)に降伏。伊勢を没収されて越前に蟄居。
▽肥前の龍造寺隆信(54歳)、龍造寺家晴(36歳)に筑前・肥前・筑後・肥後の兵を預けて高瀬川で島津軍と対峙。
▽肥後阿蘇家の甲斐宗運(68歳)、孫娘に毒殺される。
★尾張の織田信雄(25歳)、安土城から退去させられて羽柴秀吉(46歳)に隔意を抱く。
09月
◎壬生で前田利益の室の阿蛍(22歳)が男子出産。後の前田正虎。
☆相模の北条氏直(21歳)、遠江の徳川家康(40歳)の次女の督姫(18歳)を正室として娶る。
☆相模の北条氏直(21歳)、関東公方の足利国朝(11歳)の姉の嶋姫(15歳)を側室として娶る。
◆上野の北条高広(66歳)、上杉方に転じて厩橋城で挙兵。義息で北条方の那波顕宗(35歳)を攻める。
10月
◆下越で放生橋の戦い。越後の上杉景勝(27歳)、豪雨の中で新発田重家(36歳)に討たれる。上杉家混乱。
■仙台の伊達輝宗(39歳)、下越侵攻開始。伊達実元(56歳)、安田城と雷城を奪取。
◆相模の北条氏政(45歳)、北条氏邦(35歳)を派遣して北条高広(66歳)を降す。厩橋城を占拠。
◆上越で上杉義真(4歳)が上杉家を継ぐ。後見は直江信綱(29歳)と上条政繁(30歳)。樋口兼続(23歳)、上杉家主流から排除。
★近衛前久(47歳)、徳川家康(40歳)の斡旋により羽柴秀吉(46歳)の誤解は解け帰洛。
☆遠江の徳川家康(40歳)の側室の於都摩(19歳)、家康の五男の万千代丸を産む。
11月
◆相模の北条氏政(45歳)、由良国繁(33歳)と長尾顕長(27歳)を監禁。妙印尼(69歳)、新田金山城に籠城。
☆遠江の徳川家康(40歳)、正四位下左近衛権中将補任。
◆相模の北条氏政(45歳)、由良国繁(33歳)と長尾顕長(27歳)の所領を攻める。
12月
▽肥後の阿蘇惟将(63歳)死去。弟の阿蘇惟種(43歳)が家督を継ぐ。
◎宇都宮の二階堂盛義(39歳)、由良国繁(33歳)と長尾顕長(27歳)の所領を救援する振りをして占領。北条氏政(45歳)と折半。
★大阪の羽柴秀吉(46歳)、大阪城に諸侯を招待。
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▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
<同盟情報[1583年末]>
[南奥・下越]
- 伊達輝宗・二階堂盛義・田村清顕・相馬義胤・新発田重家
- 佐竹義重・岩城常隆
[関東]
- 北条氏政・千葉邦胤
- 佐竹義重・那須資晴・多賀谷重径
- 結城晴朝
- 上杉義真・真田昌幸
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 68万7千石
・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 18万7千石
・奥州 伊達郡 2万石
・奥州 信夫郡 1万2千石
・奥州 白河郡 7万4千石
・奥州 会津郡 3万石
・奥州 標葉郡 1万5千石
・奥州 楢葉郡 5千石
・奥州 行方郡 2千石
・野州 塩谷郡 3万2千石
・野州 那須郡 3万5千石
・野州 都賀郡 8万5千石
・野州 安蘇郡 2万石
・野州 芳賀郡 5万8千石 + 1万2千石 (NEW!)
・野州 河内郡 7万石
・野州 足利郡 2万石 (NEW!)
・野州 梁田郡 1万石 (NEW!)
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