94. 美桜さんが謝ったその時、黒い階段が口を開けた
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今日は日曜日。サクラと俺は、少し遠めのダンジョンへ向かっていた。目的は攻略ではない。実験だ。サクラのレベルが上がったことで、俺の魔力にどこまで耐えられるようになったのか。そして、影狼クロの器が、今の俺の力にどこまで耐えられるのか。それを確かめる。電車に揺られて一時間ほど。着いたのは、海沿いにあるダンジョンだった。潮の匂いが、風に混じっている。
「準備万端!」
サクラはリュックを背負い直して、妙に気合いの入った顔をした。
「実験だからな。無茶はしないぞ」
「分かってるよ。最近、クロの方が過保護だよね」
「お前が血を吐いたからだ」
「うっ…それを言われると弱い」
ダンジョン入口へ向かう途中、近くのハンターたちの会話が耳に入った。
「おい、聞いたか? 胡蝶蘭のパーティー、四日前に入ってったらしいぜ」
サクラと俺は顔を見合わせた。
「胡蝶蘭って、美桜さんよね?」
「偶然だな…サクラよ、話したのか?」
「いやいや、今回は誰にも話してないよ」
なら、本当に偶然か。あるいは、偶然に見える何かか。まあ、パーティーで来ているなら普通の攻略か調査だろう。俺たちは、そのままダンジョンへ入った。
俺たちは人の少ない階層まで移動した。ここなら、多少魔力を動かしても目立ちにくい。もっとも、目立ちにくいだけで、完全に隠せるわけではない。そのあたりは注意が必要だ。
「まずはサクラの耐久確認だ」
「うん」
サクラは真剣な顔で頷いた。
「俺が少しずつ魔力を高めていく。耐えられないと思ったら、すぐに言え」
「分かった」
俺は、影狼の器の内側で魔力を練る。ほんの少し。さらに少し。サクラとの魂糸が、微かに震える。
「今は?」
「大丈夫。ちょっと胸が重いくらい」
さらに上げる。
「今は?」
「頭が少し痛い。でもまだ大丈夫」
サクラは我慢しようとする癖がある。だから、表情も見る。指先。呼吸。顔色。すべて確認しながら、魔力を高めていく。そして。
「ストップ!」
サクラが声を上げた。
「これ以上はダメ!」
俺はすぐに魔力を落とす。サクラは膝に手をつき、大きく息を吐いた。
「大丈夫か」
「うん。早めに止めたから大丈夫」
「だいたい、三割ほどの魔力が限度のようだ」
「まだ三割か〜」
サクラは悔しそうに頬を膨らませる。
「十分だ。以前なら、そこまで上げる前に倒れていた」
「成長してる?」
「している」
「ならよし」
次は、俺の器の確認だ。影狼クロのレベルも少し上がっている。なら、以前よりは悪魔の力に耐えられるかもしれない。俺は軽く地面を蹴った。低速の移動。問題なし。次に、速度を上げる。足の骨が軋んだ。さらに踏み込む。筋肉が悲鳴を上げる。
「ヒール」
すぐに治す。次に爪撃。低出力なら問題ない。だが、悪魔の魔力を乗せた瞬間、前脚の内側が裂けた。
「ヒール」
跳躍。着地で後脚に負荷。
「ヒール」
回避。急停止で胴が軋む。
「ヒール」
サクラが眉を下げた。
「クロ、大丈夫?」
「治している。問題ない」
「治せばいいってものじゃないよ」
それはそうだ。だが、確認は必要だった。俺の体は、まだまだ悪魔の力には耐えられない。少しはマシになった。だが、戦闘で自由に使えるほどではない。こちらもまだ使えない状態か。そう判断するしかなかった。
「クロ〜、そろそろ休憩しよ〜」
サクラから声がかかった。ちょうどいい。俺もこれ以上続けると、サクラに怒られそうだった。そう思った瞬間。気配が動いた。
「誰か来る」
「え?」
「急速に近づいている。あと十秒ほどだ」
俺はすぐにサクラの近くへ戻る。敵か。ハンターか。モンスターか。どれにせよ、サクラから離れる理由はない。そして、通路の奥から人影が現れた。
「美桜さん!」
サクラが声を上げる。
「サクラちゃんか!」
美桜も驚いた顔をした。
「どうしたんですか?」
「この階層では珍しく強い魔力を感知してな。危険な状態かと思って助けに来たんだ」
美桜は周囲を素早く確認する。
「とくに問題はなさそうだな」
その少し後、胡蝶蘭のメンバーたちが追いついてきた。
「美桜、待ってよ〜」
「問題なさそうね。早く地上に出ましょう」
その言葉からして、胡蝶蘭は帰還途中だったらしい。
「すまない。先に地上に上がってくれ」
美桜は胡蝶蘭のメンバーにそう言った。
「知り合いなんで、少し世間話してから一人で上がる」
「う〜ん、そっか。分かったわ。お先に」
胡蝶蘭のメンバーたちは、何度かこちらを振り返りながらも去っていった。美桜は息を整えながら、サクラへ向き直る。
「私たちは四日前にこのダンジョンに入って、どれくらいの階層か調べてたんだ。四十階層まで降りて、戻ってきたところで魔力を感じてな。駆けつけてきた」
「すみません。紛らわしいことを、こんなところでしてまして……」
サクラが申し訳なさそうに頭を下げる。
「いや、それにしてもサクラちゃんの召喚獣のクロはすごいな。とてつもない魔力だったぞ」
「いや〜、うちの子すごいんです!」
サクラが誇らしげに胸を張る。おい。うちの子扱いするな。いや、もう慣れたが。美桜は少し笑った。だが、その笑みはすぐに消える。
「それで、サクラちゃんに謝らないといけないことがあってな」
「なんですか?」
美桜は、深く頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「どうしたんですか? 頭を上げてください」
サクラが慌てる。美桜は顔を上げたが、その表情は真剣だった。
「実は私、サクラちゃんを疑ってしまってな」
「私を、ですか?」
「先日、若葉に頼んで尾行してもらった」
サクラの表情が止まった。俺も、美桜を見る。なるほど。あの時の若葉は、やはりそういうことか。
「尾行…ですか。どうして?」
サクラの声は、怒ってはいなかった。ただ、少し硬い。
「サクラちゃんは前に、召喚獣は離れられないと言っていた」
「はい」
「でも、クラン抗争の時、サクラちゃんと真里ちゃんが転移に巻き込まれたのに、クロは消えなかった」
「…そうでしたね」
「そこで、このクロはただの召喚獣じゃないんじゃないかと思ったんだ。サクラちゃんが何か隠しているんじゃないか、と」
美桜はもう一度頭を下げた。
「ごめん」
サクラはしばらく黙っていた。その沈黙が、少し痛い。そして、サクラはゆっくり息を吐いた。
「びっくりしました」
美桜が顔を上げる。
「正直、少し悲しいです。疑われたんだなって思ったので」
「…うん」
「でも、美桜さんの立場なら、気になるのも分かります」
サクラは、俺の方をちらりと見た。
「私の説明が、全部本当だったわけでもないので」
美桜の目がわずかに揺れる。
「だから、謝ってくれたことは受け取ります」
サクラは小さく頭を下げた。
「ただ、若葉さんにも、もう危ないことはしないでって伝えてください」
「分かった。本当にごめん、サクラちゃん」
「それで」
美桜は、少しだけ迷ってから聞いた。
「何かわかったのか、と聞くべきじゃないな」そう言って、俺を見る。
「何かあるのか?」
その問いは、サクラに向けられているようで、俺にも向けられていた。サクラは少しだけ笑った。
「ありませんよ!」
明るい声だった。だが、少しだけ明るすぎた。美桜はそれ以上追及しなかった。謝った直後に、さらに踏み込むことはしない。だが、その目は俺から離れない。美桜の目。何かを探している目。俺を見ているのに、俺の奥にいる誰かを探しているような目。皐月。その名前が、胸の奥で重く沈む。そろそろ、本当に話すべきなのかもしれない。そう思った、その時だった。
「クロ」
サクラの声が変わった。俺はすぐに反応する。
「どうした」
「美桜さん、あれ…」
サクラが通路の奥を指差した。そこに、黒い階段があった。壁の一部が、闇に沈むように開いている。その奥へ続く、黒い階段。美桜の表情が変わった。
「何だ、あれは?」
当然の反応だ。普通のハンターは、あんなものを知らない。俺は階段を見る。深淵王か。大賢者か。それとも、ダンジョンそのものか。判断がつかない。だが、ひとつだけ分かる。これは偶然ではない。黒い階段は、俺たちの前で、静かに口を開けていた。
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