93. 提案の終わりは、処刑宣告だった
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「さて」
深淵王は、場違いなほど穏やかな声で言った。
「今回ご招待させていただいたのは、あなた達にご提案があったからです」
「提案?」
鬼塚鉄心が眉を吊り上げる。
「なんだ、それは」
「はい」
深淵王は微笑んだ。
「ダンジョン攻略をやめていただきたい」
その一言で、空気が変わった。天羽義道の目が細くなる。九条椿姫の扇が、静かに閉じられる。鬼塚の拳が、わずかに鳴った。
「あなた達は、ただダンジョンの恩恵だけを受けてもらえればそれでいいのです」
「なぜ攻略を止める?」
天羽が低く問う。
「ダンジョンは地球を蝕んでいる。違うか?」
「違います」
深淵王は、迷わず答えた。
「ダンジョンは地球を浄化しているのです」
「浄化?」
天羽が繰り返す。
「そうです。これを見てください」
深淵王が片手を上げた。闇の中に、光景が広がる。それは映像だった。焼け落ちた森。黒く濁った川。灰色の土。人間が掘り返し、削り、壊した大地。そこには動物の死骸があり、枯れた木々があり、空気さえ腐っているように見えた。映像の中で、荒れ果てた大地の中央に亀裂が走る。そこから、黒い結晶が芽吹くように現れた。迷宮核だった。迷宮核は、周囲の濁りを吸い込んでいく。黒く淀んだ川は、少しずつ澄んでいく。灰色の土には緑が戻り、枯れた木の根元から小さな芽が出た。死んだようだった土地に、命が戻っていく。
「分かっていただけたかな?」
深淵王は静かに言った。天羽は答えなかった。九条は、ほんのわずかに目を伏せる。
「私は、どちらでも構いませんわ」
その声は冷静だった。
「ダンジョンの恩恵が受けられるのであれば。迷宮核の買収金がなくなるのは、少々残念ですが」
「九条!」
天羽が鋭く声を上げる。
「信じるのか?」
「信じるとは言っておりませんわ。ですが、提示された情報は無視しません」
鬼塚は、ふんと鼻を鳴らした。
「俺はよぉ」
その拳が握られる。
「ダンジョン攻略よりも、お前が許せねぇ」
鬼塚が地面を蹴った。巨体とは思えない速度で間合いを詰める。その拳が、深淵王の顔面へ向かう。だが、届かなかった。床が盛り上がった。岩の壁が、一瞬で鬼塚の拳の前に現れる。轟音。壁は砕けた。しかし拳は、深淵王へ届いていない。
「なんだこりゃ?」
鬼塚が舌打ちする。
「ダンジョンが邪魔をしやがる」
「私はダンジョンを守る者」
深淵王は、笑みを崩さない。
「ダンジョンが私の味方をするのは当然でしょう」
「てめぇ…」
「だから、ダンジョンを繋げることだってできるんだ」
深淵王は、ふと天井を指差した。
「こんなこともできるぞ」
全員の視線が、一瞬だけ上へ向く。天井がぐにゃりと揺れていた。だが、深淵王は軽く笑った。
「ごめん、嘘。下だよ」
次の瞬間、足元が開いた。天照院、月華楼、羅刹組。それぞれのパーティーメンバーたちの足元に、黒い穴が口を開ける。悲鳴。叫び声。伸ばされた手。だが、床は彼らを飲み込んだ。残されたのは三人だけ。天羽義道。九条椿姫。鬼塚鉄心。三大クランの長だけだった。
「どこに落とした」
天羽の声が低く響く。
「雑魚にはご退場してもらいました」
深淵王は淡々と答える。
「下の階層にいますよ。生きているかどうかは、彼ら次第ですが」
「ちっ、くそが!」
鬼塚が吼えた。
「羅刹剛拳・鬼神砕き!」
鬼塚の拳に、凄まじい圧が集まる。その一撃が放たれた。だが、拳は深淵王を捉えなかった。轟音とともに、まったく別の壁が砕ける。
「どこを殴ってるんです?」
深淵王が首を傾げる。
「てめぇ!」
「鬼塚、地面だ」
天羽が短く言った。
「地面が勝手に動いて、お前の向きを変えた」
「くそが!」
次の瞬間、天井と床から岩の槍が降り注いだ。
「下がれ!」
天羽が前に出る。盾が展開され、岩槍を受け止めた。
「天羽! サンキュー!」
「礼は後だ」
天羽は深淵王を睨む。
「こうなったら、やるしかない。九条、サポートしてくれ」
「しょうがないですわね」
九条は扇を開いた。
「仲間を助けなければなりませんもの」
天羽が盾。鬼塚が近接格闘。九条が後方支援。三大クランの長が、初めて同じ敵へ向かった。
鬼塚が殴る。九条が風の刃を飛ばす。天羽が迫る石槍を受け止める。だが、深淵王はその場からほとんど動かなかった。鬼塚の拳が、深淵王の胸元を捉える。当たった。誰もがそう思った。しかし、次の瞬間、衝撃は深淵王の背後へ抜けた。壁が爆ぜる。深淵王は、少し服を揺らしただけだった。
「殴ってる感触がねえ」
鬼塚が吐き捨てる。
「こいつ、別の場所に逃がしてやがる」
九条の風が、深淵王の首筋を狙う。だが風の軌道が、途中でわずかに曲がった。刃は肩をかすめるだけで終わる。
「空間が歪みましたわね」
九条が目を細める。天羽は六翼天蓋の内側で眉を寄せた。
「こいつのは、普通の魔法じゃないな」
「どういうことだ、天羽」
鬼塚が聞く。
「場だ」
天羽は深淵王ではなく、周囲の床と壁を見る。
「ダンジョンそのものを支配している」
攻撃がずれる。衝撃が抜ける。足場が動く。岩槍が、壁からも床からも天井からも生える。それは深淵王が魔法を撃っているというより、ダンジョンそのものが深淵王の手足になっているようだった。
「九条、何か見えないか」
天羽が問う。
「見えるものだけを信じるなら、何も見えませんわ」
九条は扇を閉じた。彼女の指先から、銀糸のような魔力が戦場へ広がる。見るためではない。触れるための糸。鬼塚の拳が、もう一度深淵王へ迫る。深淵王の足元がわずかに沈む。その動きに合わせて、九条の糸が揺れた。次の瞬間、九条の指がぴくりと震える。
「…ありましたわ」
「何がだ」
「背中です」
九条は低く告げた。
「あの男の背より、一本。髪の毛よりもなお細い黒い糸が、闇の中へ伸びています」
その先にあるのは、ダンジョン。
「見えたのではありません」
九条は静かに言った。
「触れましたの。あの男、ダンジョンと繋がっております」
「なら、その糸を切ればいいんだな」
鬼塚が笑う。口の端に血が滲んでいた。
「単純ですわね」
「単純で悪いか」
「悪くはありませんわ。こういう時は、むしろ助かります」
九条は銀糸をさらに広げる。深淵王の背から伸びる黒い接続。その位置を探る。天羽は六翼天蓋を展開し、二人を守る。鬼塚は、次の一撃にすべてを乗せる姿勢を取った。深淵王の余裕の笑みが、ほんのわずかに薄れる。
「さすが、クラン長ですね」
その声は、褒めているようで、どこか冷たかった。
「仕組みに気づくのが早い」
「だったら、そこが弱点ってことだな」
鬼塚が拳を構える。深淵王は、ゆっくりと両手の指を合わせた。
「仕方ありません」
その瞬間、ダンジョン全体の気配が変わった。まるで、部屋そのものが息を吸ったようだった。
「深淵爆散」
深淵王が呟いた。次の瞬間、部屋全体が牙を剥いた。床から。壁から。天井から。全方位から、石槍が飛び出す。それは攻撃というより、空間そのものの破裂だった。
「六翼天蓋――」
天羽が防御を展開しようとする。だが、間に合わない。石槍の発生が速すぎる。天羽は瞬時に判断を切り替えた。完全防御ではない。最速防御。頭部。心臓。喉。急所だけを守る薄い盾が展開される。直後、石槍が天羽の身体を貫いた。肩。脇腹。太腿。腕。
「ぐはっ……!」
天羽が血を吐く。
「天羽!」
「天羽さん!」
鬼塚と九条の声が重なる。だが、深淵王はすでに次へ動いていた。いや、動いたようには見えなかった。ただ、そこにいた。鬼塚の目の前に。
「な――」
次の瞬間、深淵王の拳が鬼塚の腹を突き抜けていた。血が落ちる。鬼塚の巨体が、わずかに揺れる。
「……てめぇ」
「頑丈ですね」
深淵王は静かに言った。九条は扇を下ろした。その顔から、余裕の笑みが消えている。
「まいりましたわ」
その声は、敗北を認めるためではなかった。生き残るための判断だった。
「降参よ」
深淵王は、九条を見た。そして、微笑んだ。
「いや」
その声は、あまりにも穏やかだった。
「もう、殺すのは決定している」
その言葉で、三大クラン長の背後にあった逃げ道は、完全に消えた。
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