91. リフィアの願いは、マリーを過去へ戻すことではなかった
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真里に招待され、俺とサクラは天照院の本部に来ていた。三大クランの一つ。天照院。その本部は、遠目に見ても分かるほど大きかった。高い門。広い敷地。警備に立つハンター。出入りする職員らしき者たち。いかにも大組織という雰囲気だ。ただ、建物の一部には足場が組まれていた。先日の羅刹組との戦いの修復中なのだろう。壁の一部には、まだ傷跡のようなものも残っている。
「いつ見ても大きなクランだね〜」
サクラが門を見上げながら呟いた。門番に、真里に会いに来たことを伝える。門番はすぐに連絡を入れた。しばらくすると、奥からハンター衣装を着た真里が走ってくる。
「ようこそ、おいでくださいましたわ!」
いつもの縦ロールを揺らしながら、真里は嬉しそうに頭を下げた。
「今日はよろしくお願いします」
サクラも慌てて頭を下げる。
「何を言っていますの? お願いするのはこちらですわ」
俺は軽く頷くだけにした。ここでは余計なことを言わない方がいい。
天照院の本部に入ると、中もかなり広かった。ロビーには、ハンターらしき者たちが何人もいる。装備の点検をしている者。事務員と話している者。訓練帰りなのか、汗を拭きながら歩いている者。大きなクランというのは、こういうものか。月華楼とはまた違う、整った緊張感がある。サクラは少し肩に力が入っていた。無理もない。ただの会社員兼週末ハンターが、三大クランの本部を歩いているのだ。
「こちらですわ」
真里が先導する。俺は周囲を確認しながらついていく。かなりの警備だ。見える位置にも、見えない位置にも人がいる。さすが天照院。真里の立場を考えれば当然だが、簡単に奥へ入れる場所ではなさそうだった。
ロビーを抜け、奥へ向かう。その時だった。前方から、一人の男が現れた。立っているだけで、空気が変わる。天羽義道。天照院総長。真里の兄だ。先日の戦場でも見た。その防御は、敵味方まとめて多くの命を救った。ただし、今は完全に兄の顔だった。
「真里」
義道の視線が、真里から俺たちへ移る。
「どこへ行く?」
真里の肩が、ほんの少し跳ねた。
「え〜っと…」
苦しい。すでに苦しい。
「そちらの方々は?」
義道の目が、俺とサクラを見る。真里は慌てて姿勢を正した。
「先日お話しました、私の命の恩人ですわ!」
「ああ、それは失礼した」
義道はすぐに頭を下げた。以前、お前に剣を向けられたこともあるんだがな、忘れているな。
「妹を助けていただき、ありがとうございました」
「い、いえ!」
サクラが慌てて頭を下げ返す。義道は礼儀正しい。だが、当然ながらそれで終わりではなかった。
「それで、どこへ行く? そちらは宝物庫の方面だぞ」
「う〜ん、それも先日お話しましたわ! お忘れですか?」
真里は胸を張って言った。いや、たぶん話していない。義道もそう思ったのだろう。眉がわずかに動いた。
「…聞いていたかな」
「聞いておりましたわ。お兄様は最近お忙しいので、お忘れになっただけです」
押し切る気だ。強い。いや、強引だ。
「私たちは奥にある展示館へ向かいますの」
「展示館?」
「ええ。サクラさんたちは私の命の恩人ですわ。天照院としても、きちんとお礼をするべきでしょう?」
「それはそうだが」
「ですから、天照院がこれまで攻略してきたダンジョンの資料や、回収品の一部を見学していただくのです」
「……」
義道は真里を見た。そして、俺たちを見た。かなり怪しんでいる。だが、命の恩人という言葉がある以上、強く止めにくいのだろう。
「なら、案内役を一人つけよう」
「必要ありませんわ!」
早い。即答だった。
「お兄様、私はもう子どもではありません。展示館くらい、自分で案内できますわ」
「真里」
義道の声が少し低くなる。
「無茶はするな」
「もちろんですわ」
その返事が一番信用できない。俺は心の中でそう思った。
義道の視線を背中に受けながら、俺たちは奥へ進んだ。角を曲がったところで、真里が小さく息を吐く。
「少し、心臓に悪かったですわ」
「真里さん、あれ絶対怪しまれてたよ」
サクラが小声で言う。
「気のせいですわ」
「気のせいかなぁ」
気のせいではない。だが、ここまで来た以上、進むしかない。展示館は、本部の奥にあった。天照院の歴史。過去に攻略したダンジョンの記録。回収された魔物素材。古い武器や防具。そういったものが整然と並べられている。そのさらに奥。厚いガラスと結界の向こうに、ひとつの迷宮核が置かれていた。
「ここが展示館ですわ」
真里が指を差す。
「そして、迷宮核はあそこです」
俺とサクラは顔を見合わせた。試したことはない。だが、ここまで来た。俺たちは迷宮核へ近づく。すると、迷宮核が淡く光った。
『お〜、また来てくれたね』
軽い声。大賢者だ。サクラが小さく息を吐く。成功だ。
『短い時間だけど、話をしよう』
大賢者の声が響く。真里は一歩前へ出た。
「あの、教えてくれませんか。私のことを…」
『マリー』
大賢者の声は、どこか懐かしそうだった。
『また会えて嬉しいよ。そして、幸せそうだ』
真里は胸元に手を当てた。少しだけ目を伏せ、それから顔を上げる。
「はい。私は今、幸せです」
その声は、震えていなかった。
「ですが、私は真里です。マリーではありませんわ」
迷宮核の光が、穏やかに揺れた。
『そうだね。今の君は真里だ』
大賢者は否定しなかった。
『でも、マリーだった魂の話をしよう』
真里は黙って頷く。
『マリーは、ヴァルメリアの公爵令嬢だった』
公爵令嬢。その言葉に、真里の指が少しだけ動いた。
『訳あって、彼女はひどく傷つき、死んでしまった』
「訳あって…」
『詳しいことを話すことはできない。ただ、マリーは一時、彼女を姉のように慕っていた』
「姉…」
『リフィア・セレスティア。勇者パーティーの神官だ』
俺はその名を聞き、やはりそうかと思った。
『リフィアは、未来を見た。そして願った。千五百年後、マリーの魂がもう一度生きられるように。苦しみの記憶を消し、違う星で新しく生きられるように』
真里は、息を止めたように動かなくなった。
「千五百年後の人を姉のように?」
『そうだ』
「では、なぜ、転生なのですか?」
真里が尋ねた。
「その場で蘇生はできなかったのですか?」
『できなかった、というより、願いがそうではなかったんだ』
「願いが…」
『マリーは、とても辛い思いをした。だからリフィアは、彼女を同じ場所へ戻すことを望まなかった』
大賢者の声は静かだった。
『記憶を消して、違う星で、新しく生きることを願ったんだ』
真里の顔が、少しだけ歪む。
「嘘ですわ」
その声は、小さかった。けれど、はっきりしていた。
「記憶は…完全には消えていません」
サクラが真里を見る。真里は胸元を押さえながら続けた。
「変な記憶が残っていましたわ。大勢の前で、ひどい目に遭っている私。裸にされて、石を投げられて、罵倒されて……」
言葉が途中で詰まる。
「そんなもの、私は知らないはずですのに」
迷宮核の光が、少しだけ弱くなった。
『そうか』
大賢者の声には、痛みのようなものがあった。
『女神でも、魂の傷までは完全に消せなかったんだね』
魂の傷。その言葉に、真里は目を伏せた。
「…私は」
真里は、ゆっくり顔を上げた。その瞳は揺れている。だが、逃げてはいなかった。
「私は、誰ですの?」
迷宮核の光が静かに揺れる。大賢者は、少しだけ間を置いて答えた。
『君はもう、マリーじゃない』
真里の肩が震えた。
『リフィアが願ったのは、マリーを過去へ戻すことじゃない。苦しみの続きを歩かせることでもない』
大賢者の声が、少し遠くなる。
『新しく生きることだ』
真里は、胸元を押さえたまま動かなかった。
『だから、真里』
大賢者が、初めてその名を呼んだ。
『新しく生きなさい』
その言葉を最後に、迷宮核の光がふっと弱くなる。
大賢者は消えた。展示館の奥には、俺たち三人と、静かになった迷宮核だけが残る。真里はしばらく黙っていた。サクラが心配そうに声をかける。
「真里さん…大丈夫?」
真里はすぐには答えなかった。ただ、自分の胸元に手を当てている。マリー。リフィア。魂の傷。新しく生きること。そのすべてを、真里は今、一人で受け止めているのだろう。やがて、真里がゆっくり顔を上げた。その表情は、泣きそうにも見えた。けれど、少しだけ晴れやかでもあった。
「そうですわね」
真里は小さく笑った。
「私は真里よ」
その声は、まだ弱い。だが、確かに前を向いていた。
「マリーという方のことは、忘れません。忘れられないのかもしれません。でも、私は天羽真里として生きていますもの」
サクラが、ほっとしたように息を吐いた。俺も、少しだけ肩の力を抜く。大賢者の言葉は、残酷でもあった。だが、真里を縛る言葉ではなかった。真里はマリーではない。その確認ができただけでも、ここへ来た意味はあった。
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