90. サクラは、今の俺をクロと呼ぶ
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翌朝。サクラの部屋には、いつもの朝の空気が流れていた。会社へ行く準備をするサクラ。その足元にいる俺。昨夜、世界の仕組みに関わる話を聞いたとは思えないほど、朝は普通に来る。
「昨夜は濃かったな〜」
サクラが、ぽつりと言った。
「濃い、で済ませていい内容だったか?」
「済ませないと、会社に行けないよ」
それはそうだ。昨夜、俺たちは大賢者から聞いた。俺が死んだ場所にあった陣は、召喚陣ではなく吸魂陣だったこと。俺の魂はそこで回収されず、ヴァルメリアへ流れたこと。そして十年後、サクラの血で再起動した吸魂陣が、俺を回収しようとして失敗したこと。その結果、俺は地球へ戻ってきた。召喚されたのではない。回収されかけたのだ。
「でも、皐月さんが亡くなったことと、地球に戻ってきた理由が分かって良かったね」
「そうだな…」
良かった。そう言っていいのかは分からない。だが、分からないままよりはいい。少なくとも、俺がここにいる理由の一つは分かった。
「で、どうするの?」
サクラが髪を整えながら聞いてきた。
「何がだ」
「美桜さん達」
「……」
そこか。いや、当然そこだ。美桜。若葉。あいつらは、春日皐月を探している。そして、俺はおそらくその春日皐月だ。だが、単純に「帰ってきた」と言えるのか。俺は死んだ。悪魔に転生した。悪魔として千年以上を過ごした。地球のことも、人間だった頃のことも、かなり抜け落ちている。美桜が探している皐月と、今の俺は本当に同じなのか。若葉の兄と、今の俺は同じものなのか。
「どうすればいいんだ」
俺は、思わずそう呟いた。
「俺は死んだ。悪魔に転生して、今は悪魔として地球に戻ってきた。でも、悪魔として千年を過ごして、地球のことはほとんど忘れてしまった」
言葉にすると、ますます意味が分からない。
「…素直に言っちゃうか」
サクラは少しだけ黙った後、頷いた。
「そうだね。私、隠し事はきついよ」
その声は、軽くなかった。サクラもずっと抱えていたのだろう。美桜と若葉に対して、隠し続けることを。
「よし」
俺は短く息を吐いた。
「タイミングを見て言う」
「うん」
サクラは静かに頷いた。簡単な話ではない。美桜にとって、俺は十年以上探し続けた相手だ。それも、ただの仲間ではない。あの日、俺は帰ったら言うつもりだった。プロポーズさせてくれ、と。その約束を置き去りにして、俺は死んだ。そして帰ってきたのは、人間の春日皐月ではなく、黒狼の器に入った大悪魔だ。若葉にとっても同じだ。兄が死んだと思って十年。その兄が、悪魔になって戻ってきた。そんな話、どう受け止めろというのか。だが、隠し続けるよりはいい。いや。隠し続けるには、もう遅すぎるのかもしれない。
「それで、次は真里さんだね」
サクラが言った。
「マリー…」
俺はその名を口にする。なぜ、大賢者は真里を見てマリーと呼んだ。そして、なぜリフィアの名を出した。
「リフィアさんが転生させたって言ってたよね」
「そうだな」
勇者パーティーの神官、リフィア・セレスティア。おそらく、願いを叶えるダンジョンで何かを願ったのだろう。未来で救われるべき魂に、もう一度生きる機会を与えること。そう考えれば、大賢者の言葉とは繋がる。だが、分からない。俺が覚えている限り、マリーから勇者パーティーへの強い感情は感じなかった。少なくとも、リフィアという名前に反応した記憶はない。俺の記憶が抜けているだけか。それとも、俺が知らないところで関係があったのか。
「マリーさんと、そのリフィアさんの関係って…」
「俺にも分からない」
「そっか」
「大賢者に会えば分かるかもしれないがな」
「ま、大賢者に会えば分かるよね」
サクラは、少し明るく言った。その明るさに、少し救われる。
「とりあえず、真里さんと会える日を確認しないとね」
「任せる」
「こういう時だけ丸投げする」
「適材適所だ」
「便利な言葉だね」
サクラはそう言いながらスマホを手に取った。いくつか候補日を確認し、真里へメッセージを送る。天照院に保管されている迷宮核を確認したいこと。こちらの都合がつく日。無理のない範囲で調整してほしいこと。送信。しばらくして、すぐに返信が来た。
「早っ」
サクラが目を丸くする。画面を覗くと、丁寧すぎる文章が並んでいた。真里らしい。
「予定、合わせてくれるって」
「そうか」
ひとまず、次にやることは決まった。
「よし、会社に行ってくるよ!」
サクラは鞄を持ち上げた。昨夜、迷宮核の前で世界の真実を聞いた人間とは思えないほど、普通に出勤する。いや、普通に出勤しなければならないのだろう。世界の真実も、転生の謎も、納期の前では待ってくれない。
「俺はダンジョンだ」
「無茶しないでよ」
「分かっている」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
サクラに睨まれた。俺は仕方なく頷く。
「分かった。今日は負荷をかけない範囲でやる」
「うん。それならよし」
会社へ行くサクラ。ダンジョンへ向かう俺。いつもの日常だ。だが、そのいつもの日常が、少しだけありがたく感じた。
玄関へ向かいかけたサクラが、ふと足を止めた。
「そういえばさ」
「なんだ」
「クロ、最初の頃は自分のこと“私”って言ってたのに、最近は“俺”になってるね」
「…そうか?」
言われてみれば、そうかもしれない。召喚されたばかりの頃、俺は自分を私と呼んでいた。悪魔としての癖だったのか。あるいは、距離を置くためだったのか。自分でもよく分からない。
だが、最近は確かに俺と言っている。サクラと話す時も。真里と話す時も。自分の中で、何かが少しずつ変わっているのだろう。
「大悪魔だった頃より、人間味というか……黒狼寄りになってきたんだろうな」
「黒狼寄り?」
「この器に馴染んできたのかもしれない。あるいは、地球に戻って、昔の俺に少し近づいているのかもしれない」
「そっちの方がクロに合ってるよ」
サクラは自然にそう言った。何気ない一言だったのだろう。だが、俺の中には妙に残った。
「そうか?」
「うん。今のクロ、私は好きだよ」
「……改めて言われると照れるな」
「ふふ、照れてる」
「照れていない」
「尻尾があったら揺れてそう」
「今は人型だ」
「じゃあ心の尻尾が揺れてる」
何だそれは。そう思ったが、否定はしなかった。サクラは笑って玄関を出ていく。その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。大悪魔でも、春日皐月でも、影狼クロでも。今ここにいる俺を、サクラはクロと呼ぶ。それが少しだけ、悪くないと思った。
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