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87. 私は真里です。マリーではありません

いつも応援ありがとうございます!

当作品は、【毎日 朝06:00 / 夕方18:00】の1日2回、定時更新でお届けしております。


最新話までじっくりお楽しみください!

真里(まり)視点】

 サクラさんの自宅を出たあと、私はすぐには帰りませんでした。近くの喫茶店に入り、紅茶を頼んで、ただ考え込んでいたのです。マリー。アシェル。どちらも、私が知るはずのない名前。それなのに、胸の奥に残っている名前。クロバ様は、私に言いました。お前はマリーではない。お前は真里だ。その言葉は、嬉しかった。私を、誰かの代わりではなく、天羽真里(あもうまり)として見てくださったから。けれど、疑問が消えたわけではありません。なぜ私は、アシェルという名前を知っているのか。なぜクロバ様を見ると、胸が苦しくなるのか。なぜ、知らないはずの誰かを、懐かしいと思ってしまうのか。気がつけば、外は夜になっていました。目の前の紅茶は、とっくに冷めています。それでも私は、席を立てずにいました。


 その時でした。胸の奥が、小さく震えたのです。

「…え?」

 理屈ではありません。気配とも少し違います。けれど、分かりました。近くに、クロバ様がいる。きっと、この角を曲がればいる。そう思った瞬間、私は席を立っていました。会計を済ませるのも、少しもどかしいくらいでした。店を出て、夜道を走ります。天羽家の娘として、夜の街を一人で走るなど、あまり褒められたことではありません。けれど、その時の私は止まれませんでした。なぜ走っているのか。なぜ分かるのか。そんなことを考える余裕もありません。ただ、角を曲がる。そこに、いる。そう確信していました。


 角を曲がった先。そこに、確かにいました。クロバ様。そして、サクラさん。ただし、二人は大通りの向こう側にいました。車が行き交い、すぐに声をかけられる距離ではありません。

「やっぱり…」

 私は思わず呟きました。けれど、すぐに違和感を覚えます。サクラさんの様子が、少し変なのです。いつもなら、どこか柔らかい笑顔がある方です。困っていても、焦っていても、表情にはちゃんと感情が出る。けれど今のサクラさんは、無表情でした。ただ、何かに導かれるように歩いている。クロバ様も隣にいます。でも、その横顔は真剣でした。二人、喧嘩でもしたのでしょうか。いいえ。それにしては、空気がおかしい。私が声をかけるべきか迷っている間に、二人は歩き出しました。


 二人が向かった先は、ダンジョンでした。

「え…?」

 夜に。あの状態で。ダンジョンへ入るのですか。さすがに見過ごせません。サクラさんの様子は明らかに普通ではありませんでした。クロバ様がついているとはいえ、危険です。私は大通りを渡ろうとして、車の流れに足を止められました。

「もう、こういう時に限って…!」

 仕方なく、少し先の横断歩道まで走ります。大通りを迂回して、ようやくダンジョンの入口へ着いた時には、二人の姿はもうありませんでした。私は迷わず中へ入ります。天照院の者として。いえ、それ以上に。サクラさんとクロバ様が心配だったのです。けれど、ダンジョンに入った瞬間、私は二人を見失いました。


 私は通路を走りました。夜のダンジョンは、人が少ない分、足音が妙に響きます。

「サクラさん! クロバ様!」

 声を抑えながら呼びます。大声を出せば、モンスターを呼ぶかもしれません。それでも、探さずにはいられませんでした。そして、ようやく二人の背中を見つけた時。私は、思わず足を止めました。二人は、黒い階段を降りようとしていたのです。

「何ですの……あれ」

 このダンジョンには、何度も来たことがあります。階層の構造も、セーフエリアの場所も、ある程度は知っています。けれど、あんな階段は見たことがありません。黒く、深く、壁から生えたような階段。まるで、こちらを拒んでいるようでした。

「待ってくださいまし!」

 私は止めようとしました。けれど、声が届く前に、二人は階段の奥へ消えてしまいました。私は唇を噛みます。ここで引き返す選択肢はありませんでした。


 黒い階段に足をかけた瞬間、背筋が冷えました。冷たい。ただ暗いだけではありません。入ってくるな。ここは、お前の場所ではない。そんなふうに拒絶されている気がしました。

「……っ」

 情けないことに、足が震えます。けれど、引き返すわけにはいきません。サクラさんがいる。クロバ様がいる。二人が、普通ではない状態でここへ入っていったのです。私は手すりもない黒い階段を、一段ずつ降りました。走ることなどできません。一段。また一段。呼吸が浅くなる。胸が苦しい。それでも、少しずつ下へ進む。やがて、暗闇の先に淡い光が見えました。出口です。私は音を立てないように、そっと近づきました。怖かったので、まずは覗くだけにすることにしました。


 出口の向こうを、そっと覗きました。そこには、迷宮核がありました。

「…迷宮核?」

 思わず声が漏れそうになり、慌てて口を押さえます。なぜ、こんな場所に。ここは、このダンジョンの最深部ではないはずです。なのに、淡く光る迷宮核が、空間の中央に浮かんでいました。その近くに、サクラさんとクロバ様がいます。そして、もう一つ。誰かの声が聞こえました。姿ははっきりしません。けれど、確かに誰かが話している。転生。魂。ヴァルメリア。聞き慣れない言葉が、耳に届く。何を話しているのでしょう。私は、もう少し近づこうとしました。その時です。足元の小さな石に、靴先が当たりました。カツン。思ったよりも大きな音が、静かな空間に響きます。サクラさんが振り向きました。クロバ様も振り向きました。そして、迷宮核の光も、こちらへ向いた気がしました。


『…マリーかい?』

 知らない声が、私をそう呼びました。マリー。また、その名前。胸の奥が、ぎゅっと掴まれるように痛みます。

「マリーとは誰ですの?」

 私は一歩前へ出ました。声が震えそうになるのを、必死に抑えます。

「私は真里ですわ。天羽真里です」

 サクラさんが息を呑むのが分かりました。クロバ様は、何も言いません。それが余計に、胸に引っかかります。

「クロバ様も、私をマリーと呼びました」

 私は迷宮核を見つめます。

「あなたも、私をマリーと呼ぶのですね」

 迷宮核の光が揺れました。

「あなたは、何かを知っていますの?」

 静かな空間に、私の声が響く。怖い。でも、聞かずにはいられませんでした。


『時間がない…』

 その声は、先ほどより遠くなっていました。

『マリーよ。うまく転生できてよかったよ』

「転生…?」

 私の喉が詰まる。

『リフィアの願いが…』

「リフィア? 何ですの、それは」

 私は思わず聞き返しました。けれど、声は返ってきません。迷宮核の光が、ふっと弱くなります。

「待ってくださいまし。転生とは何ですの? 私が? 私が、誰かの転生だと言うのですか?」

 返事はありません。

「なぜ突然黙ってしまうのですか!」

 私の声だけが、空間に響きました。先ほどまであった気配が、消えている。あの声は、もう聞こえない。私はゆっくりとクロバ様を見る。クロバ様は、いつになく険しい顔をしていました。サクラさんも、何と言えばいいのか分からないという顔をしています。胸の奥が、痛い。マリー。転生。リフィアの願い。知らない言葉ばかりなのに、どれも私から離れてくれない。私は、震える声で尋ねました。

「クロバ様」

 クロバ様の赤い目が、私を見る。

「どういうことですの?」

本編をお読みいただきありがとうございました!


一気読みしてくださった方も、毎日追ってくださっている方も、本当にありがとうございます!

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