86. 召喚ではなく、回収だった
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【クロ視点】
サクラが家に帰ってきた。そして、リビングにいる俺と真里を見て固まった。あの顔は、しばらく忘れられそうにない。目を丸くしたまま、口だけが少し開いている。まさに、理解が追いついていない顔だった。
「……なんで?」
当然の疑問だ。俺も、逆の立場ならそう思う。真里は慌てるでもなく、いつもの調子でサクラに頭を下げた。
「サクラさん、先日の食事代のお礼をお持ちしましたの」
「あ、はい…ありがとうございます」
サクラはまだ半分固まったまま受け取っていた。その後、二人は少し会話をした。そしてなぜか、今度一緒にダンジョンへ行く約束までしていた。大丈夫か、サクラよ。そう思ったが、口には出さなかった。俺が余計なことを言えば、話がさらに面倒になる。真里が帰った後、案の定、サクラの視線が俺に向いた。
「クロ、説明」
サクラは短く言った。こういう時のサクラは、意外と怖い。俺は逃げずに説明した。真里が来たこと。俺がまた、真里をマリーと呼んでしまったこと。真里も、俺をアシェルと呼んだこと。そして、その理由を真里に問い詰められたこと。
「それで、何を話したの?」
「マリーの話を少ししただけだ」
「アシェルは?」
「知らないで通した」
実際、俺にも分からない。真里がなぜアシェルという名を知っているのか。なぜ俺をそう呼ぶのか。俺が知りたいくらいだった。
「それから、連絡先を聞かれた」
「連絡先?」
「ないと言った」
「まあ、ないよね」
「だから、用があるならサクラを通せと言った」
サクラがじっと俺を見た。
「…それで?」
「たまに家に来たいとも言っていたから、それもサクラを通せと伝えた」
サクラは少しだけ目を細めた。
「全部私に回してない?」
「すまない、サクラよ」
「謝り方が軽い」
真里はマリーではない。そう言った。それは本心だ。真里をマリーの代わりにするつもりはない。だが、無関係とも言い切れない。顔も、声も、仕草も似ている。そして何より、アシェルという名を知っている。あの名は、地球の人間が知るはずのない名前だ。真里はマリーの転生なのか。地球で、そんなことがあるのか。俺はヴァルメリアで悪魔に転生した。なら、地球の人間の魂がヴァルメリアへ流れることも、逆もあるのかもしれない。ただ、考えても答えは出ない。大賢者なら、何か知っているかもしれない。だが、こちらから大賢者に連絡する手段はない。そう思っていた。その夜までは。
その夜、何かに呼ばれた気がした。声ではない。念話でもない。ただ、向かわなければならない場所がある。そんな感覚だった。
「クロ」
サクラも顔を上げる。
「私も、変な感じがする」
「ああ」
催眠か。思考誘導か。それに近い何かだろう。ただ、俺の意識ははっきりしていた。抵抗しようと思えばできる。ではなぜ、誘導されるがまま動くのか。答えは単純だ。呼んでいる気配が、深淵王ではない。迷宮核。そして、大賢者に近いものを感じた。
「行くぞ」
「え? 行くの?」
「おそらく大賢者だ」
俺は人型になり、サクラと一緒に外へ出た。
夜の道を歩く。サクラは隣で、不安そうに何度も俺を見た。バスに乗る。降りる。また歩く。歩道橋を渡り、大通りを越える。目的地は分かっているようで、分からない。ただ、足は迷わず進む。やがて、俺たちは一つの建物の前に着いた。ダンジョンの入口だ。
「え! なんで?」
サクラが驚く。無理もない。夜に、誘導されるように歩いてきた先がダンジョンなのだから。
「サクラ、入ろう」
「大丈夫なの?」
「たぶん、大丈夫だ。すぐ終わるさ」
「え? どういうこと? ぜんぜん分かんないんだけど!」
「俺も全部分かっているわけじゃない」
「それ、大丈夫って言える?」
「たぶんな」
「たぶんが怖い!」
ダンジョンの中は、夜ということもあって人が少なかった。それでも、まったくいないわけではない。俺たちは人目を避け、人気のない通路へ向かう。その時、壁が黒く揺れた。そして、黒い階段が現れる。
「クロ、黒い階段よ」
サクラの声が緊張する。黒い階段。それは、深淵王の印象が強い。当然、警戒する。だが、気配が違った。あの男のものではない。もっと硬く、もっと遠く、もっと古い。迷宮核に近い気配だ。
「そうだな。降りよう」
「え? 大丈夫なの?」
「大賢者が呼んでいる気がするんだ」
サクラは少しだけ黙った。そして、小さく頷く。
「そう…クロがそう言うなら」
俺たちは黒い階段を降りた。このダンジョンは、50階層ほどある中級ダンジョンだ。だが、黒い階段の先が通常階層である保証はない。降りた先に何が待っているのか。俺にも分からなかった。
黒い階段を降りきった先にあったのは、通路でも、広間でも、モンスターでもなかった。迷宮核だった。淡く光る巨大な核が、静かな空間の中央に浮かんでいる。
「え…いきなり?」
サクラが小さく呟く。俺は迷宮核へ近づいた。すると、声が響いた。
『待ってたよ』
大賢者の声だ。
やはり、こいつが呼んでいた。
「大賢者さんですか?」
サクラが尋ねる。
『そうだよ。呼び出して悪かったね』
声はいつも通り軽い。だが、どこか急いでいるようにも聞こえた。
『私も、人を呼ぶって初めてだからね。どうなるか実験でもあったんだ』
「実験で呼ぶな」
俺が言うと、大賢者は笑った。
『悪い悪い。でも、質問をする前に、まず私の話を聞いてくれ。まだ話せる時間が短いんだ』
サクラが息を呑む。
「はい…」
『以前、君たちから質問があった』
大賢者の声が、いつもより少しだけ低くなる。
『地球で死んだ者が、ヴァルメリアへ転移した可能性はあるのか。正確には、魂が異世界側へ流れた可能性はあるのか、だったね』
「ああ」
俺は短く答えた。サクラは隣で黙っている。
『結論から言うよ。あった』
迷宮核の光が、静かに揺れた。
『十年前。このダンジョンの最深部で、一人の地球人が死んでいる。その魂は、本来ならこの迷宮核に回収されるはずだった』
「回収?」
サクラが小さく聞き返す。
『そう。君たちは召喚陣だと思っていたかもしれないけれど、あれは正確には召喚陣じゃない』
大賢者は、少しだけ間を置いた。
『魂の回収装置だ』
「魂の…回収装置?」
『ダンジョンは地球の生命を吸って活動している。けれど、ただ生命力を吸うだけでは効率が悪い。だから最深部には、死んだ探索者やモンスターの魂を回収し、ダンジョンのエネルギーへ変換する仕組みがある』
サクラの顔色が少し変わる。
『つまり、あれは死者を呼び戻すための魔法陣じゃない。本来は、死者の魂をダンジョンに取り込むための吸魂陣だ』
吸魂陣。その言葉が、静かな空間に落ちた。俺は迷宮核を見つめる。十年前。俺が死んだ場所。
『十年前、君はそこで死んだ』
大賢者の声が、俺へ向けられる。
『その時、吸魂陣は君の魂を回収しようとした。けれど、完全には吸収できなかった』
「なぜだ」
『ダンジョンが、もともとヴァルメリア側から地球へ送られたものだからだよ』
俺は息を呑んだ。
『迷宮核には、地球側とヴァルメリア側をつなぐ細い流れが残っている。普段は閉じているようなものだけど、死の瞬間、魂が回収される時だけ、その流れが一瞬だけ揺らいだ』
「その隙間から…」
サクラが呟く。
『そう。君の魂は、ダンジョンに吸収される前に、異世界側へ流れた』
大賢者は淡々と続ける。
『その結果、君はヴァルメリアで別の存在として転生した』
俺は何も言えなかった。予想はしていた。だが、こうして言葉にされると重い。
『そして十年後』
大賢者の声が、さらに続く。
『召喚者の血が、吸魂陣に触れた』
サクラがびくりと肩を揺らす。
「私の…血?」
『そう。君の血だ。血には生命力が含まれている。その生命力によって、壊れかけていた吸魂陣が再起動した』
サクラは無意識に自分の手を握った。
『本来なら、その陣は召喚者である君の魂を吸うはずだった』
「え…」
サクラの声が震えた。俺は思わずサクラを見る。
『けれど、そうはならなかった。なぜなら、その陣には十年前に取り逃がした魂の痕跡が残っていたからだ』
「取り逃がした魂…」
『つまり、君だよ』
大賢者の声が俺に向く。
『吸魂陣は、未回収の魂を回収しようとした。処理を再開したんだ。十年前に回収し損ねた地球人の魂を、今度こそ取り込もうとした』
「それで、俺を呼んだのか」
『正確には、召喚者が君を呼んだわけじゃない』
迷宮核の光が、一瞬だけ強くなる。
『ダンジョンが、君を取り戻そうとした』
サクラが息を呑む。
『けれど、誤算があった。十年前に逃した魂は、もうただの地球人ではなかった。ヴァルメリアで千年以上を経て、大悪魔になっていた』
「……」
『だから、吸収できなかった。回収するはずが、逆に魂の状態でこちらへ引き戻してしまった。そして、近くにあった器に入った』
「クロ…」
サクラが小さく呟いた。
『そう。死んだ影狼の器だね』
大賢者は、そこで少しだけ声を和らげた。
『だから、整理するとこうだ』
一拍置いて、大賢者は言った。
『サクラくんが君を召喚したわけじゃない』
『ダンジョンが、十年前に回収し損ねた魂を取り戻そうとした』
『けれど、その魂が強くなりすぎていたため、回収できず、逆に現世へ現れてしまった』
『それが、君が地球へ戻ってきた理由だ』
俺は迷宮核を見つめた。召喚されたと思っていた。サクラに呼ばれたのだと思っていた。だが、違った。ダンジョンが俺を取り戻そうとした。俺を、餌として。エネルギーとして。十年前に取り逃がした魂として。それが、俺の帰還の理由だった。サクラは、隣で小さく拳を握っていた。
「じゃあ…私がクロを呼んだんじゃなくて」
『きっかけを作ったのは君だ。でも、君の意思で彼を選んだわけではない』
大賢者は静かに答える。
『吸魂陣が、未回収の魂を間違えて引き戻した。それだけだ』
「それだけ、って……」
サクラの声が少し震える。
「じゃあ、クロはまたダンジョンに回収される可能性があるってことですか?」
『可能性はある』
大賢者は否定しなかった。
『ただし、今の君たちは契約でつながっている。サクラくんとの契約が、彼をこちら側に留めている。だから、簡単には回収できない』
「契約が…」
『そう。君は彼の鎖であり、錨でもある』
俺はサクラを見た。サクラも俺を見た。
『もっとも、そのせいで彼が力を使えば、君に負荷が流れる。魂糸共鳴だね』
「…やっぱり、そこも繋がっているのか」
『うん。召喚じゃない。回収でもない。失敗した吸魂と、偶然成立した契約。その歪な結果が、今の君たちだ』
大賢者の声が、少し遠くなる。
『ああ、もう時間だ』
「待て。まだ聞きたいことがある」
『分かってる。でも、接続が長く持たない。詳しい話は、また――』
カツン。
背後で、硬い音がした。俺は振り向く。サクラも振り向いた。黒い階段の近くに、真里が立っていた。
「真里さん…?」
サクラが呟く。真里は自分でも分からないという顔で、胸元を押さえていた。
「私…どうして…ここに……」
迷宮核の光が、一瞬だけ強くなる。そして、大賢者の声が明らかに揺れた。
『…マリーかい?』
その一言で、空気が凍った。
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