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85. サクラに隠し事を増やしたくない

いつも応援ありがとうございます!

当作品は、【毎日 朝06:00 / 夕方18:00】の1日2回、定時更新でお届けしております。


最新話までじっくりお楽しみください!

真里(まり)視点】

 私は、まだ納得できていなかった。マリー。アシェル。どちらも、私が知るはずのない名前だ。それなのに、胸の奥に引っかかっている。クロバ様は、私をマリーと呼んだ。けれど、私はマリーではないと言った。似ている。顔も、声も、仕草も。でも、同じではない。分かったようで、何も分かっていない。私は膝の上で、ぎゅっと手を握った。サクラさんの自宅のリビングには、静かな空気が流れている。平日の昼間。サクラさんは会社に行っている。この部屋にいるのは、私とクロバ様だけだった。クロバ様は、サクラさんのお兄様。…ということになっている方だ。


 黒髪に落ち着いた声。どこか人間離れした雰囲気。初めて会った時から、ただの人ではないと思っていた。けれど今は、もっと分からない。この方はいったい何者なのだろう。

「……クロバ様」私が呼ぶと、クロバ様は静かにこちらを見た。

「まだ聞きたいことがあるのか」

「あります」

 即答してから、少し恥ずかしくなった。けれど、嘘ではない。聞きたいことなら、いくらでもある。マリーとは誰なのか。アシェルとは何なのか。なぜ私は、知らないはずの名前を口にしてしまうのか。なぜクロバ様を見ると、こんなにも胸が苦しくなるのか。でも、クロバ様は先ほど言った。今はまだ答えを出すな、と。自分が何者なのかを、他人の過去で決めるな、と。その言葉は、私の中に深く残っていた。だから、これ以上聞いても、きっと同じなのだと思う。クロバ様は、話せることしか話さない。そして、それが嘘ではないことも、なんとなく分かってしまった。


 沈黙が落ちた。妙に長い沈黙だった。何か話さなければ。そう思えば思うほど、余計なことを思い出してしまう。そして私は、思い出した。以前、クロバ様に会った時のことを。私は、この方に抱きついた。しかも。好き、と言った。顔が一気に熱くなる。なぜ今、思い出してしまうのか。いや、ずっと覚えていた。覚えていたけれど、マリーやアシェルの話で頭がいっぱいで、なんとか横に置いていただけだ。けれど、沈黙は恐ろしい。横に置いていたものを、平気で目の前に戻してくる。

「どうした」

「い、いえ!」

 クロバ様の声に、私は背筋を伸ばした。

「なんでもありません!」

「そうは見えないが」

「なんでもありません!」


「申し訳ありません。少し、その…以前のことを思い出してしまいまして」

「以前?」

 クロバ様がわずかに目を細めた。その表情を見た瞬間、私は悟った。覚えている。この方は、絶対に覚えている。

「…その、先日は大変失礼いたしました」

「何のことだ」

 クロバ様は静かに言った。一瞬、救われた気がした。覚えていないのかもしれない。

 そう思った。しかし、次の瞬間、クロバ様は続けた。

「俺に抱きついて、好きと言ったことか」

「覚えていらっしゃるではありませんか!」

 思わず声が大きくなった。クロバ様は表情を変えない。

「忘れるほど昔のことではない」

「そうですけれど! そうですけれども!」

 私は両手で顔を覆いたくなった。天照院の者として、こんなにも取り乱すなど恥ずかしい。兄が見たら、確実に眉をひそめる。いや、兄でなくてもひそめる。


「あれは、その…私にもよく分からなくて」

「分かっている」

「いえ、分かっていないと思います。私にも分かっていないのですから」

「面倒だな」

「申し訳ありません…」

 私は肩を落とした。けれど、不思議と嫌な気持ちではなかった。気まずい。とても気まずい。でも、クロバ様は私を責めなかった。気味悪がることもなかった。それが、少しだけ嬉しかった。だからだろうか。私は、もう一歩だけ踏み込んでみたいと思ってしまった。

「あの、クロバ様」

「何だ」

「もし、ご迷惑でなければ……」

 言いかけて、喉が詰まる。連絡先。それが知りたい。また話したいから。マリーのことを知りたいから。アシェルという名前の理由を知りたいから。それだけではない。この方と、もう少し話してみたいと思ってしまったから。私は勇気を出して、顔を上げた。

「連絡先を、教えていただくことはできますか?」

 クロバ様が固まった。本当に、一瞬、時が止まったように見えた。


「あ、いえ。無理にとは言いません。ただ、またお話を伺いたい時に、サクラさんを通すのもご迷惑かと思いまして…」

「ない」

「…はい?」

「連絡先はない」

 私は瞬きをした。

「ない、のですか?」

「ああ」

「携帯電話を、お持ちではないということですか?」

「必要ない」

 言葉を失った。今の時代に。サクラさんのお兄様なのに。携帯電話を持っていない。そんなことがあるのだろうか。いや、世の中にはそういう人もいるのかもしれない。天照院(あまてらすいん)にも、極端に機械が苦手な年配者はいる。しかし、クロバ様はどう見ても年配ではない。

「必要、ないのですか?」

「ない」

 堂々と言い切られてしまった。私は困った。この場合、どう返すのが正解なのだろう。

「…クロバ様は、少し変わった方なのですね」

「よく言われる」

「言われるのですか」

「サクラにな」


 サクラさん。その名前が出た瞬間、クロバ様の空気がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。たぶん、クロバ様本人は気づいていない。けれど、確かに変わった。表情に大きな変化があったわけではない。それでも、サクラさんの名前を口にした時だけ、声の奥に温度があった。私の胸が、少しだけ締めつけられる。

「用があるなら、サクラを通せ」

 クロバ様は当然のように言った。

「サクラさんを、ですか」

「ああ」

「…私は、サクラさんを通さなければ、クロバ様とお話もできないのですね」

 言ってから、自分でも少し驚いた。思ったよりも、寂しさが滲んでしまった。クロバ様もそれに気づいたのだろう。わずかに目を細める。

「不満か」

「いえ。不満というわけではありません。ただ…」

 ただ、何なのだろう。私は自分の感情をうまく言葉にできなかった。サクラさんを嫌っているわけではない。むしろ、サクラさんには感謝している。サクラさんがいなければ、クロバ様とこうして話すこともなかった。それなのに、サクラさんを通してしか繋がれないと言われると、少しだけ胸が痛む。自分には、まだこの方と直接繋がる資格がないと言われたような気がした。クロバ様はしばらく黙っていた。そして、静かに言った。

「サクラに隠し事を増やしたくない」

「隠し事…」

「俺とお前が、サクラに黙って連絡を取り合う理由はない」

 その声は淡々としていた。けれど、そこにははっきりとした線があった。サクラさんを通す。サクラさんに隠さない。それは単なる連絡手段の話ではない。クロバ様にとって、サクラさんがどれほど大切な存在なのか。その一端を、私は見た気がした。


「サクラさんは、クロバ様にとって大切な方なのですね」

「ああ」

 迷いのない返事だった。胸の奥に、小さな痛みが落ちる。けれど、不思議と嫌ではなかった。むしろ、少し納得した。この方は、誰かを大切にすると決めたら、きっと曲げない。サクラさんを大切にしている。だからこそ、サクラさんに隠れて私と繋がろうとはしない。その誠実さが、少し眩しかった。

「…分かりました」

 私は小さく頷いた。

「連絡先のことは、諦めます」

「そうしろ」

「ですが」

 私は、まっすぐにクロバ様を見た。

「また、お話しに来てもいいですか?」

 クロバ様はすぐには答えなかった。私を見る。マリーに似ていると言われた私の顔。けれど、今ここにいるのは天羽真里(あもうまり)だ。そのことを確かめるように、クロバ様は私を見ていた。

「答えが出るとは限らないぞ」

「構いません」

「聞けば苦しくなることもある」

「それでも、知らないままでいるよりはいいです」

 私は膝の上の手を握り直した。

「私は、私が何者なのかを、他人の過去で決めるつもりはありません」

 クロバ様の目が、ほんのわずかに見開かれた。

「ですが、知らないまま逃げるのも違うと思うのです」

 それは、クロバ様が先ほどくれた言葉への、私なりの答えだった。クロバ様はしばらく黙っていた。そして、小さく息を吐く。

「面倒な女だな」

「よく言われます」

「誰にだ」

「兄に」

「だろうな」

 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 私も、つられて小さく笑った。さっきまで胸の中にあった重さが、少しだけ軽くなる。マリーのことも、アシェルのことも、まだ何も分からない。けれど、今はそれでいい。答えを急がなくてもいい。少なくとも、またここへ来てもいいのなら。また、この方と話せるのなら。それだけで、少しだけ前に進める気がした。

「それで、クロバ様」

「何だ」

「また来てもよろしいのですね?」

 クロバ様は少しだけ視線を逸らした。そして、ぶっきらぼうに答えた。

「サクラが許すならな」

 その言い方が、あまりにもクロバ様らしくて。私は、今度こそ自然に微笑んだ。

「はい。では、サクラさんにきちんとお願いしてみます」

 クロバ様は何も言わなかった。ただ、窓の外へ視線を向ける。昼下がりの光が、リビングに静かに差し込んでいた。まだ何も解決していない。けれど、何かが終わったわけでもない。マリーではない自分として。天羽真里として。もう少しだけ、この不思議な縁の先を見てみたい。そう思った。その時、玄関の鍵が開く音がした。

「ただいま…」

 サクラさんの声。私とクロバ様は、同時に玄関の方を見た。数秒後、リビングの入口にサクラさんが現れる。目が合った。サクラさん。私。そして、人型のクロバ様。サクラさんの顔から、すっと表情が消えた。

「……なんで?」

 その一言で、リビングの空気は一瞬にして変わった。



【サクラ視点】

 その日、私は少しだけ早く帰ることができた。玄関を開けた瞬間、見慣れない靴があった。

 いや、見たことはある。たぶん、真里さんの靴だ。その時点で、嫌な予感がした。

「ただいま…」

 声をかけながらリビングへ向かう。そして、固まった。リビングには、真里さんがいた。それだけなら、まだ分かる。でも、その向かいには、人型のクロが座っていた。いや、真里さんの前ではクロバ様だった。でも、私にとってはクロだ。しかも、二人とも妙に真面目な顔をしている。何これ。私がいない間に、何があったの。私はリビングの入口で、しばらく動けなかった。そして、ようやく一言だけ絞り出す。

「……なんで?」


本編をお読みいただきありがとうございました!


一気読みしてくださった方も、毎日追ってくださっている方も、本当にありがとうございます!

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