84. お前はマリーじゃない。お前は真里だ
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サクラは翌日から普通に仕事へ戻った。本人は申し訳なさでいっぱいだったが、会社の者たちはむしろ心配していた。まあ、当然だ。会社で鼻血と吐血をして倒れた人間が、翌日から普通に仕事をしようとしているのだから。俺としても、しばらくは無茶をする気になれなかった。俺が力を使えば、サクラに負担が流れる。分かっていたはずなのに、まだ甘く見ていた。だから、二日ほどは単独でダンジョンに潜るのをやめることにした。サクラの自宅で、静かに休む。そう決めていた。その時だった。ピンポーン。呼び鈴が鳴った。
誰だ。俺は玄関の方へ意識を向けた。ドア越しに確認したい。ただ、今の俺は黒狼だ。ドアスコープを覗くには、どう考えても高さが足りない。仕方なく、人型になる。……問題は、服だ。人型になるたびに服がない。いい加減、この問題もどうにかしなければならない。そう思いながらドアに近づいた瞬間、俺は動きを止めた。感じた。ドアの向こうにいる存在を。なぜだろう。俺は、真里に反応してしまう。顔を見なくても分かる。声を聞かなくても分かる。そこにいる、と。同時だった。
「マリー」「アシェル」
俺の声と、ドアの向こうの声が重なった。真里から俺の姿は見えていない。それなのに、あいつは俺をアシェルと呼んだ。
「あれ? クロバ様ですの? いますのね! 開けてくださいまし」
さすがに、ここで逃げるわけにはいかない。しかし、今の俺は人型になったばかりで裸だ。このままドアを開ければ、話がややこしくなる。いや、すでに十分ややこしいが。
「ちょっと待ってくれ。今、風呂上がりでタオル一枚だから、着替えてくる」
「まあ。失礼いたしましたわ。お待ちしております」
素直に待つな。そう思いつつ、俺は急いで服を着た。サクラが置いてくれた予備の服だ。サイズは少し合わないが、裸よりはマシだ。俺は玄関へ戻り、扉を開ける。そこには、いつもの縦ロールを揺らした真里が立っていた。
「ごきげんよう、クロバ様」
「…今日はどうしたんだ」
「その前に、お邪魔してもよろしいですの?」
俺は少しだけ迷い、真里を家に上げた。
「それで、今日はどうしたんだ」
俺が尋ねると、真里は小さな包みを差し出した。
「サクラさんに、先日ご飯代を出していただきましたの。そのお返しに来ましたわ」
「そうか。だが、サクラは仕事に出ていていないぞ」
「ええ。そうでしたわ」
真里は、そこで少しだけ困ったように笑った。
「私も分かっていたはずですのに」
「なら、なぜ来た」
「来ないといけないような気がしたのです」
その言葉に、俺は黙った。真里自身も、戸惑っているようだった。理屈ではない。予定でもない。ただ、ここへ来なければならない気がした。それは、俺が真里の気配に反応したことと同じなのかもしれない。真里は一瞬、唇を噛み締めた。そして、何かを決めたように顔を上げる。
「クロバ様」
真里の声が、少しだけ硬くなった。
「聞いても、よろしいですか」
「なんだ」
「どうして、クロバ様は私をマリーと呼ぶのですか?」
俺は答えられなかった。真里は続ける。
「どうして私は、クロバ様をアシェルと呼んでしまうのでしょうか」
その手が、胸元をぎゅっと握る。
「それに、サクラさんの召喚獣のクロ様を見た時も、私は同じ名前を呼びましたわ」
アシェル。その名を。
「知らないはずなのです。聞いたことも、教えられたこともありませんのに」
真里の瞳が揺れる。
「なのに、どうして私は、その名前を知っているのですか」
俺はすぐには答えられなかった。真里を見つめる。けれど、その奥に映っているのは、今ここにいる真里だけではない。マリー。かつて俺に願いを託し、身体を差し出した女。その面影が、真里の中に確かにあった。
「悪かった」
「え…?」
真里が目を瞬かせる。
「お前を、別の誰かとして見ていたわけじゃない」
そこまで言って、俺は言葉を止めた。違う。それは綺麗すぎる。
「いや。それは嘘だな」
小さく息を吐く。
「少しは、重ねていた」
真里は胸を、きゅっと押さえた。
「昔、マリーという女がいた」
「マリー…」
真里がその名を繰り返す。まるで、初めて聞いた名前ではないように。
「お前は、そいつによく似ている。顔も、声も、仕草も。だから俺は、間違えた」
俺は、真里から視線を逸らさなかった。
「では、私は…そのマリーという方なのですか?」
真里の声は震えていた。怖いのだろう。自分の中に、知らない誰かがいることが。自分が自分ではないかもしれないことが。俺は、迷わず首を振った。
「違う」
その声に、迷いはなかった。
「さっきも言ったが、お前は真里だ」
「でも、私はアシェルという名前を…」
「それは俺にも分からない」
真里が息を呑む。
「お前がなぜその名を知っているのか。なぜ、俺をそう呼ぶのか。俺が知りたいくらいだ」
真里は無意識に胸元を押さえた。知らないはずの名前。会ったこともないはずの誰か。それなのに、マリーという名を聞いた瞬間、胸の奥が震えている。
「俺がマリーと呼んでしまったのは、俺の未練だ」
俺は言った。
「だから、謝る」
「クロバ様…」
真里の声が、小さく揺れた。
「お前は真里だ」
俺はもう一度言った。
「マリーの代わりじゃない。マリーの続きでもない。少なくとも、俺はそう扱わない」
真里は、少しだけ目を伏せた。その表情には、いくつもの感情が混じっていた。安心。戸惑い。そして、ほんの少しの寂しさ。マリーではないと言われて、安心したのか。それとも、胸の奥で震えた何かが、行き場をなくしたのか。俺には分からない。だが、真里をマリーの代わりにするつもりはない。それだけは決めていた。真里は、ゆっくり顔を上げる。
「ありがとうございますわ」
その声は、まだ少し震えていた。それでも、真里は真里としてそこに立っていた。
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