82. サクラのためのレベル上げが、サクラを傷つけた
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サクラの日常が始まった。会社に行き、仕事をして、昼休みに少し疲れた顔をして、また仕事に戻る。まあ、仕事に行く分には危険はないだろう。深淵王が会社の休憩室に黒い階段を出した前例がある以上、絶対とは言えないが。それでも、ダンジョンの中よりは安全だ。だから俺は、サクラの影を一度離れた。目的はレベル上げだ。俺が経験値を得れば、サクラのレベルも上がる。サクラのレベルが上がれば、魂糸共鳴の負担にも少しずつ耐えられるようになる。そうなれば、俺も魔力を使いやすくなる。悪くない循環だ。ただし、雑魚相手では俺のレベルは上がらない。それなら、少し深く潜る必要がある。俺は昨日来たダンジョンへ転移した。昨日は雫を連れていたから、すぐに帰った。今日は、少し潜ってみる。
低階層のモンスターは、ほとんど相手にならなかった。スライム。ゴブリン。コボルト。その程度なら、爪と牙だけで十分だ。魔法を使う必要もない。なるべくサクラに負担をかけない。それが、単独行動をする上での前提だった。俺は人目を避けながら進む。とはいえ、完全に誰にも会わないというわけにはいかない。このダンジョンには、他のハンターもちらほらいた。俺を見る者もいる。ただ、遠目に見ただけなら、召喚獣かモンスターかの区別はつきにくい。だからこそ、余計な接触は避ける。そうして、俺は10階層まで降りてきた。ここまでは順調だった。本当に、ここまでは。
「ブラックウルフだ!」
その声に、俺は振り向いた。通路の向こうに、ハンターが五人。前衛が二人。盾持ち。槍使い。後衛に魔法使い。もう一人は、鑑定か補助系か。バランスのいいパーティーだ。そして、全員が俺を見ていた。まずい。俺は、今は黒狼の姿だ。召喚獣だと分かってもらえればいい。だが、ダンジョン内で主人のいない黒狼が歩いていれば、モンスターと判断されても仕方がない。俺は一瞬で相手のステータスを確認する。そこそこやる。中堅ハンターといったところか。ただの新人ではない。少し、まずいな。出口は、奴らの後方。こちらが逃げるには、あの五人を抜けなければならない。
俺がステータスを確認した直後、後衛の男が顔をしかめた。
「なんだ? この不快感…」
まずい。気づかれた。
「あいつ、ステータス看破してきたぞ! ユニークだ! ステータスを確認しろ!」
他のハンターたちの目つきが変わる。ただのブラックウルフではない。ステータス看破を使う特殊個体。そう判断されたのだろう。
「ダメだ! 隠蔽している!」
「隠蔽持ちのブラックウルフだと? 厄介だな」
ちっ。面倒なことになった。こちらとしては、戦う気はない。しかし相手からすれば、ダンジョン内に現れたユニーク持ちのモンスターだ。見逃す理由がない。逃げるにも、通路は狭い。俺の速度なら抜けられないことはないが、五人が相手では確実ではない。何より、無理に動けば魔法を使うことになる。それはサクラへの負担につながる。
「ファイアーアロー!」
炎の矢が飛ぶ。俺は横へ跳んで避けた。その瞬間、盾使いと槍使いが前へ出る。いい連携だ。魔法で動きを制限し、前衛が距離を詰める。俺は足止めにブラックアローを放った。だが、低級の魔法では足りない。盾使いが盾を斜めに構え、黒い矢をいなした。これ以上の出力で撃てば、サクラに負担がかかる。今のサクラは会社にいる。仕事中だ。そこで突然、頭痛や吐き気に襲われるかもしれない。そう考えるだけで、魔力を込める手が鈍る。槍使いの射程圏に入った。鋭い突きが来る。俺は黒い炎で障壁を作り、槍の攻撃をしのいだ。直後、左から盾使いがタックル。右側からは、槍が障壁の隙間を狙って突き込まれる。俺は再度、黒い炎の障壁を展開した。すまない、サクラ。これは、キツいと思う。
俺は障壁を押し広げ、二人の攻撃を弾いた。盾使いと槍使いが後ろへ飛び、体勢を整える。その一瞬。俺は転移した。視界が歪み、足元の感覚が一瞬消える。次に降り立ったのは、三階層上のセーフエリアだった。もちろん、適当に飛んだわけではない。転移先は、あらかじめ決めてある。セーフエリアの隅。人目につきにくく、物陰になっている場所。いきなり黒狼が現れたら、普通は驚く。下手をすれば、またモンスターと間違われる。だから、転移先は慎重に選んでいる。転移は空間魔法だ。数キロ範囲内なら、サクラへの負担はちょっとした頭痛程度で済む。そのはずだった。ただ、今回は戦闘中に障壁も使った。魔法の回数も多い。帰ったら怒られるかもしれないな。そんなことを思いながら、俺はセーフエリアを離れた。
これ以上、このダンジョンにいるのはまずい。あの五人組が追ってくる可能性もある。俺は歩いて地上へ向かった。途中、他のハンターに見つからないよう気配を抑えながら進む。地上へ出たところで、ようやく息を吐いた。いや、狼だから息を吐くという表現が正しいのかは知らないが。とにかく、無事に出られた。俺はそこから、サクラの自宅へ転移する。さらに、自宅からサクラの影へ。サクラは会社にいるはずだ。いつものように影へ戻り、何食わぬ顔で一言謝る。そのつもりだった。だが、影に触れた瞬間、俺は異変に気づいた。サクラの気配が、弱い。いや、乱れている。俺は迷わず、サクラの元へ出た。
そこは、会社の休憩室ではなかった。たぶん、簡易ベッドのある小さな部屋。サクラはベッドの上に寝かされていた。誰かが横で介抱している。サクラの顔色は悪い。唇の端に、赤い跡が残っている。服が、血で汚れていた。吐血したのだ。俺は影の中で、息が止まるような感覚を覚えた。原因は、分かる。黒い炎の障壁。転移。連続した空間魔法。どれも、サクラに負担を流した。数キロの転移なら頭痛程度。そう思っていた。だが、戦闘中の魔法負荷と重なれば話は別だった。俺は逃げた。そのために魔力を使った。そして、その代償をサクラが払った。すまん、サクラ。俺は影の中で、ただそれだけを思った。
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