81. スライムは倒せた。でも、ゴブリンは刺せなかった
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【サクラ視点】
なんだか気が晴れないまま、翌日の日曜日になった。昨日のことが、まだ胸の奥に引っかかっている。若葉さんが、私たちをつけていた。それが美桜さんの指示なのか、若葉さん自身の判断なのかは分からない。でも、疑われているのかもしれない。そう思うと、少しだけ気持ちが沈む。ただ、今日はそのことばかり考えているわけにはいかない。今日は、先日高瀬さんにお願いされた娘さん、高瀬雫ちゃんをダンジョンに連れて行く日だ。空はよく晴れている。絶好のダンジョン日和。いや、天気はダンジョンに関係ないけど。集合場所に着くと、黒髪の女の子がきちんと立って待っていた。
「はじめまして。高瀬雫と申します。今日はよろしくお願いします」
「はじめまして、サクラです。今日はよろしくね」
「やっとダンジョン講習も終わって、ダンジョンに入れます。もうワクワクが止まりません!」
雫ちゃんは、目を輝かせながら言った。その表情は、本当に楽しそうだった。
「そう。でも言っておくけど、ダンジョンは本当に怖いからね」
「はい!」
元気な返事。でも、たぶん分かっていない。その返事を聞いて、私は少しだけ愛華さんの気持ちが分かった。こりゃ、お母さんもまいるわね。
「今日は初めてだから、浅い階層を少しだけ潜ります。私は召喚士なので、召喚獣を召喚して戦います」
「はい!」
「えーっと、雫ちゃんって呼んでいいかな?」
「はい、それで大丈夫です。私はサクラ先輩と呼びます!」
「あ〜…はい」
先輩。そんなふうに呼ばれるほど、私は立派なハンターではない。でも今日は、私が案内する側だ。しっかりしないと。
「それで、雫ちゃんはどんなスタイル? よければスキルとかも教えてちょうだい」
「はい。私は危機察知を持っています。属性は水系統だそうです」
雫ちゃんは、少し誇らしそうに言った。
「ゆくゆくは水魔法で戦いたいのですが、まだ無理なので、今は短剣で攻撃します」
私は雫ちゃんのステータスを確認する。
名前:高瀬 雫
レベル:2
状態:興奮状態
HP:30
MP:24
魔力:19
筋力:13
耐久:16
敏捷:21
器用:28
運:11
スキル:【危機察知】
レベル2。本当に新米だ。
「なるほど、分かったわ。じゃあ、前衛・索敵・壁役は私の召喚獣。後衛・指示役・退路確認が私。雫ちゃんは私の少し前。絶対に私から離れないでね」
「はい!」
「私の召喚獣を紹介するわね」
私はクロを召喚した。黒い影が揺れ、黒狼の姿が現れる。雫ちゃんは息を呑んだ。
「かっこいい…!」
また目が輝いている。大丈夫かなぁ。私は少し心配になった。
いざ一層に踏み入れると、雫ちゃんはすぐに足を止めた。
「すごい…」
講習ではシミュレーターを使って訓練したらしい。でも、本物は違う。空気が違う。匂いが違う。足元の感覚が違う。ここは、そこまで大きいダンジョンではない。それでも、初めて入る人にとっては十分すぎるほど異世界だ。最初に出てきたモンスターはスライムだった。ぷるぷるした半透明の体。中央に見える小さなコア。コアを壊せば簡単に倒せるモンスターだ。雫ちゃんは少し緊張しながらも、短剣でスライムのコアを突いた。スライムの体が崩れる。
「倒せた!」
雫ちゃんは嬉しそうだった。でも、私は心の中で思う。これだけなら、まだダンジョンの怖さは分からない。
スライムばかり倒しても、レベルはほとんど上がらない。一階層には、数は少ないけれどゴブリンも出現する。多くの新人ハンターにとって、ここが最初の大きな階段だ。乗り越えられなければ、ハンターを続けるのは難しい。理由は強さだけではない。ゴブリンは、人型だ。腰蓑をつけ、棍棒を持ち、こちらを見て声を上げる。それを、自分の手で倒さなければならない。これはゲームじゃない。モンスターだって、生きている。切れば血が出る。叩けば骨が折れる。倒した後には、魔石を取り出すこともある。モンスターによっては、皮を剥いだり、牙や爪を回収したりする。動画で見るのと、自分の手でやるのはまったく違う。
「雫ちゃん」
私は少し離れた場所を指差した。
「あのゴブリンを倒してみよっか」
私が指差した先には、一匹のゴブリンがいた。腰蓑をつけ、棍棒を足元に置き、何かを食べている。こちらにはまだ気づいていない。
「はい、やってみます」
雫ちゃんは短剣を握り直した。
「クロがバックアップするから、気負わないで」
「はい」
雫ちゃんは、静かににじり寄っていく。足音を殺そうとしているのが分かる。それなりに講習で習ったのだろう。ゴブリンの背後まで近づく。短剣を振りかぶる。けれど。動かなかった。雫ちゃんの両手が震えていた。そうよね。初めて人型のモンスターを殺すんだもん。怖いよね。その時だった。
「ギギッ!」
ゴブリンが気づき、振り返って立ち上がった。
「きゃっ!」
雫ちゃんは尻もちをついた。
「クロ!」
「おう!」
黒い影が走る。ズバッ、と音がして、ゴブリンは地面へ倒れた。雫ちゃんは、その場で震えていた。動画で見るダンジョンとは違う。画面越しのモンスターとは違う。目の前にいる命を、自分の手で終わらせるということ。それは、思っているほど簡単ではない。
私は雫ちゃんの手を取った。冷たい。指先が震えている。そのまま、ゴブリンの死体から少し離れた場所へ連れていく。
「雫ちゃん」
呼びかけると、雫ちゃんはようやく私を見た。目が揺れている。私は、雫ちゃんをそっと抱きしめた。
「怖いと思うのは普通」
雫ちゃんの肩が震える。
「初めてなんだから。怖くて当然だよ」
「でも、私…何もできなくて……」
「できなくていいの」
私はゆっくり言った。
「今日知ってほしかったのは、倒せるかどうかじゃない。怖い場所なんだってこと」
雫ちゃんは、唇を噛んだ。私も、最初は何も分かっていなかった。ダンジョンに潜れば、少しずつ強くなれる。そんなふうに思っていた。でも、本当は違う。怖さを知らないまま進むことが、一番危ない。
「怖かったです」
雫ちゃんは、小さな声で言った。その言葉を聞いて、私は少しだけ安心した。怖いと言えるなら、大丈夫だ。怖いのに怖くないふりをして進む方が、ずっと危ない。
「動画で見たり、ゲームでやったりするのとは違いますね…私、夢を見てました」
「夢、ね」
私は小さく笑った。
「私も夢見て始めたのよ」
「サクラ先輩もですか?」
「うん。夢見ることは悪いことじゃない」
雫ちゃんは、少しだけ顔を上げた。
「…ですよね」
「うん。ただ、現実は厳しいけどね。私も死にかけたし…ね」
私がそう言うと、雫ちゃんは目を丸くした。そして、もう一度ゴブリンが倒れた方を見る。
「今日は…帰りたいです」
「うん。それでいい」
私はすぐに頷いた。ダンジョンから出ると決めることは、逃げではない。生きて帰るための判断だ。
その日の夜、高瀬愛華さんから電話がかかってきた。
『サクラさん、今日は本当にありがとうございました』
「いえ、私は少し案内しただけです」
『雫から聞きました。今まで甘く考えていたって。しばらくダンジョンのことはいいって、そう言っていました』
「そうですか…」
私は小さく息を吐いた。ほっとした。でも、少しだけ胸が痛む。夢を折ったのかもしれない。そう思ったからだ。でも、愛華さんは優しい声で言った。
『夢を諦めたわけではないと思います。ただ、ちゃんと考える時間ができたんです』
「…はい」
『本当に、サクラさんにお願いしてよかった』
電話が切れた後、私はしばらくスマホを見つめていた。誰かを強くしたわけではない。誰かを救ったと言えるほど、大きなことをしたわけでもない。でも、少しだけ。誰かが危ない場所へ進む前に、立ち止まる手伝いはできたのかもしれない。足元の影から、クロの声が聞こえた。
「悪くない一日だったな」
「うん」
私は小さく頷いた。怖さを知ることは、夢を壊すことじゃない。夢を守るために、必要なことなのだと思った。
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