79. 三つ星寿司のあと、娘さんをダンジョンに連れて行ってほしいと頼まれました
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【サクラ視点】
以前、事故現場で助けた人から、食事に誘われた。その人は、うちの会社の大手取引先の役員さん。名前は、高瀬愛華さん。年齢は38歳。綺麗で、仕事ができそうで、そして思ったよりかなりグイグイ来る人だった。私としては、そこまで気を遣ってもらわなくてもいい。あの時は、人として当たり前のことをしただけだ。でも、愛華さんは「どうしてもお礼がしたいの」と言って譲らなかった。そして今夜。私は、三つ星を獲得したというお寿司屋さんに来ていた。メニューに、金額がない。これが一番怖い。ダンジョンより怖いかもしれない。そんなことを考えていると、愛華さんが楽しそうにグラスを持ち上げた。
「かんぱーい!」
「か、乾杯……」
「ありがとうございます。こんな良いお店に連れてきていただいて」
「こちらこそ、ありがとうね。助けてくれて」
「いえいえ。人として当たり前のことです」
私がそう言うと、愛華さんは少しだけ目を細めた。
「サクラさんは、ハンターもやっているんですってね?」
「はい。土日だけですが、ダンジョンに潜っています」
「へぇ、そうなんだ」
愛華さんは、そこで少しだけ楽しそうに笑った。
「実はね、最後にお願いがあるの」
「え? お願いって?」
「まあ、まずはいただきましょう!」
そう言って、愛華さんは目の前のお寿司に手を伸ばした。私は、金額が表示されていないお寿司屋さんに超ビビっている。でも、一口食べたら分かった。おいしい。びっくりするくらいおいしい。
「ごちそうさまでした」
なんて上品に言いつつ、結局、遠慮なしで食べてしまった。人間、怖くてもおいしいものには勝てない。
「さて」
食事が終わったところで、愛華さんが姿勢を正した。
「さっき言ったお願いがあるの」
「はい、なんでしょう…」
私も少し緊張する。すると、愛華さんはまっすぐ私を見て言った。
「私の娘を一回、ダンジョンへ連れて行ってほしいの」
「へ…?」
アホみたいな声が出た。だって、言っちゃ悪いけど、アホみたいなことを言われたからだ。
「なんで私ですか?」
思わず、そう聞き返してしまった。私は強くない。ハンターとしてはまだまだ新人だし、レベルだって高くない。ダンジョンに潜るようになったのも最近で、正直なところ、私自身がクロに助けてもらってばかりだ。そんな私に、大事な娘さんを預けたい?普通に考えれば、もっと強い人に頼むべきだ。有名なハンターでもいい。三大クランでもいい。高瀬さんほどの人なら、紹介してもらうことくらい難しくないはずだ。
私がそう思っていることは、顔に出ていたのだろう。愛華さんは小さく苦笑した。
「そう思うわよね」
「はい。正直に言うと、思います」
「サクラさん、あなたは自分が弱いと思っている?」
「思っているというか…事実です」
胸を張って言うことではない。でも、認めるしかない。強いのはクロだ。私自身は、少し前までただの会社員だった。愛華さんは、テーブルの上で組んでいた指をほどき、ゆっくり言った。
「だから、お願いしたいの」
「…だから?」
「強い人なら、いくらでも心当たりはあるわ。お金を払えば、有名なハンターを雇うこともできる。三大クランに声をかけることだって、不可能ではないと思う」
やっぱりそうだ。それなら、なおさら私に頼む理由がない。
「でも、強い人はダンジョンを怖がらない」
その言葉に、私は黙った。
「いいえ。怖がらないように見える、と言った方が正しいのかもしれないわね。強い人にとって、浅い階層なんて危険のうちに入らないのかもしれない。でも、私の娘にとっては違う」
愛華さんの声が、役員のものから、母親のものへ変わった気がした。
「サクラさん、あなたは自分が弱いことを分かっている。怖いものを怖いと言える。だから、娘を危険なところまで連れて行かないと思ったの」
「娘は18歳になったばかりなの」
愛華さんは、バッグから一枚の写真を取り出した。
「ハンター登録ができる年齢になって、それからずっと、ダンジョンに行きたいと言っている」
「ハンターになりたい、ということですか?」
「本人は、そう言っているわ」
写真には、黒髪の女の子が写っていた。大人しそうな雰囲気。でも、目だけは妙に強い。愛華さんに似ているけれど、少し柔らかい感じがする。
「娘の雫。高瀬雫よ」
「雫さん…」
愛華さんは、写真を見つめた。さっきまでの役員としての顔ではない。娘を心配する母親の顔だった。
「娘を強くしてほしいわけでもない。ハンターとして鍛えてほしいわけでもない」
愛華さんは、写真から視線を上げる。
「ただ、一度だけ、本物のダンジョンを見せてほしいの」
「本物を…」
「ええ。そして、できれば分からせてほしいの」
愛華さんは、静かに言った。
「ダンジョンは、憧れだけで行く場所じゃないって」
その言葉は、少し胸に刺さった。私も最初は、どこかで軽く考えていたのかもしれない。会社の先輩に勧められて、週末だけ潜って、少しずつ強くなっていく。そんなふうに思っていた。
でも、現実は違った。死にかけた。怖かった。そして、クロに出会った。愛華さんは、深く息を吸った。
「このまま放っておけば、あの子は一人で行くかもしれない」
「…それは」
「だったら、信頼できる人に最初の一回を見てほしい。怖い場所だと教えてほしい。もし本当に何か異変があるなら、気づいてほしい」
それは、ただの依頼ではなかった。母親の不安だった。
「私、まだ本当に強くありません。絶対安全なんて言えません」
「分かっているわ」
「それでも、ですか?」
「それでも」
愛華さんは迷わなかった。その迷いのなさが、逆に怖い。私は、人の子どもをダンジョンへ連れて行くことになる。しかも、その子には何かあるかもしれない。軽く引き受けていい話ではない。愛華さんは、深く頭を下げた。
「お願いします」
その言葉を聞いた瞬間、断るために用意していた言葉が喉の奥で止まった。強くしてほしい、じゃない。冒険させてほしい、でもない。無事に帰してほしい。それは、母親の願いだった。私は、足元の影を見る。
「…クロ」
次の瞬間、影の中から低い声が返ってきた。
『浅い階層だけなら、問題はない』
クロの声は、私にしか聞こえない。私は小さく息を吐いた。
「分かりました」
愛華さんが顔を上げる。
「連れて行きます」
でも、私はすぐに続けた。
「ただし、本当に浅い階層だけです。危ないと思ったら、すぐ帰ります。雫さんが行きたいと言っても、私が無理だと思ったらそこで終わりです」
「ええ。それで構わないわ」
「あと、これは私一人では決められません」
私は、足元の影へ視線を落とす。
「私の契約獣が危ないと判断したら、その時点で中止にします」
「分かったわ」
愛華さんは、ほっとしたように目元を緩めた。でも、私はまだ少し怖かった。ダンジョンは、人の願いを叶えてくれる場所じゃない。むしろ、人の願いにつけ込む場所だ。高瀬雫さん。18歳になったばかりの、ダンジョンに憧れる女の子。その子を連れて行く約束は、今度の日曜日になった。
「本当にありがとう、サクラさん」
愛華さんは、もう一度頭を下げた。私は慌てて手を振る。
「まだ何もしていませんから」
そう。まだ何も始まっていない。ただ、約束をしただけだ。でも、その約束が軽いものではないことは分かっている。浅い階層だけなら問題ない。クロはそう言った。普通なら、きっとそうなのだと思う。でも、私は普通ではない。深層適性者。ダンジョンに好かれ、罠やモンスターに好かれる状態。私は、足元の影をもう一度見た。クロは何も言わなかった。それが少しだけ、不安だった。
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