74. 生きて帰れた。でも、終わってはいない
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深淵王は逃げた。黒い階段の向こうへ消えた奴の気配を、俺はしばらく追っていた。追えた。追えば、まだ届いたかもしれない。だが、俺は動けなかった。サクラが血を吐いたからだ。原因はすぐに分かった。魂糸共鳴の封印が、解けかけていた。深淵王が封じたのは、あくまで一時的なもの。俺が大悪魔の姿で力を出し続ければ、その余波は再びサクラへ流れ込む。もし、あのまま悪魔のままだったら。サクラは死んでいたかもしれない。
「…くそ」
俺はすぐに姿を戻し、サクラへヒールをかけた。逃げた深淵王よりも、今はサクラだ。
それから、1時間ほどが過ぎた。サクラの呼吸は少しずつ落ち着き、顔色も戻ってきた。やがて、まぶたが震える。
「……クロ?」
「サクラ、大丈夫か?」
「うん…あいつは?」
「逃げられたよ」
サクラは少しだけ目を伏せた。
「そっか…」
「すまない」
俺は言った。本音を言えば、ここで仕留めておきたかった。深淵王は厄介だ。力もある。知識もある。そして、迷いがない。あいつを逃がしたことは、後々必ず響く。だが、サクラは首を横に振った。
「ううん。私が止めたんだから。ごめんね……」
「謝るな。お前が生きているなら、それでいい」
そう言うと、サクラは少しだけ笑った。
サクラが動けるようになってから、俺たちは周囲を調べた。ここはどこだ。本当に深層なのか。それとも、黒い階段でどこかのダンジョンへ繋げられただけなのか。ひとまず、下の階へ向かってみる。そこで出てきたのは、コボルトだった。雑魚だ。少なくとも、深層に出るような相手ではない。
「深い階層じゃないな」
「じゃあ、さっきの場所は?」
「セーフエリアに近い特殊階層だろう。深淵王が一時的に繋げたのかもしれない」
下へ潜る理由はない。俺たちは、上を目指すことにした。5層ほど上がったところで、ようやく地上へ出られた。
地上に出た瞬間、サクラのスマホが鳴った。ダンジョン内では電波が届かない。つまり、外に出たことで一気に通知が戻ってきたのだろう。サクラは画面を見た。
「美桜さんからだ」
通話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
『サクラちゃん、大丈夫!?』
美桜の声は、かなり焦っていた。
「はい、何とか大丈夫です…ダンジョンに連れ込まれて、やっと地上に出てこれたところです」
『どこのダンジョン?』
「えーっと、ここは旭ヶ丘です」
『近いね。迎えに行くから、そこで待ってて』
「はい、ありがとうございます」
通話が切れる。サクラは小さく息を吐いた。俺も、ようやく少しだけ気を抜いた。
美桜は本当にすぐ来た。車から降りるなり、サクラへ駆け寄ってくる。
「サクラちゃん、無事でよかった」
「ご心配おかけしました」
「真里ちゃんは天照院に戻ってる。お兄さんのところね。意識も戻ってるから、そこは安心して」
サクラの肩から、少し力が抜けた。俺たちが黒い階段に飲み込まれてから、すでに6時間ほど経っていたらしい。地上へ出るまでに3時間ほどかかったから、思ったより長く閉じ込められていたことになる。美桜はサクラの顔色を確認し、眉をひそめた。
「サクラちゃん、何があったの?」
サクラは答える前に、逆に聞いた。
「その前に、向こうはどうなりました?」
向こう。天照院と羅刹組の戦場のことだ。
美桜の表情が重くなった。
「天照院の総長、真里ちゃんのお兄さんね。あの人が防御魔法を張ったの」
天羽義道。天照院総長。彼の防御は最強だと、美桜は言った。
「本来なら、数百人死んでたと思う」
サクラが息を呑む。
「でも、死者は少なからず出たわ」
美桜は静かに続けた。
「分かっているだけで、死者9人。重傷者43人。軽傷者は百名以上」
「……そうですか」
サクラの声が沈む。俺も黙っていた。深淵王を逃がした。その事実が、重くのしかかる。美桜は続けた。
「それでも、奇跡に近いよ。あの防御魔法がなかったら、被害は桁違いだった」
「それで、サクラちゃんたちには何があったの?」
美桜が聞いた。ここからは、事前にサクラと打ち合わせた内容だ。本当のことをすべて話すわけにはいかない。俺が大悪魔の姿になったこと。深淵王と戦ったこと。深淵王の腕を吹き飛ばしたこと。それらを説明するには、俺の正体に触れなければならない。だから、隠す。サクラは、ゆっくり話し始めた。
「深淵王という人がいました」
「深淵王…そんな奴がいたのね」
「はい。深層適性者の私を狙ったみたいです」
「それで?」
「深淵王は、ダンジョンが星を救っている映像を見せて、考えるようにと言って消えました」
美桜は目を細める。
「それだけ?」
鋭い。俺は影の中で、少しだけ息を殺した。
「でも、大賢者がそれは違うって」
「大賢者が現れたの?」
美桜の声が少し強くなる。
「はい」
サクラは頷いた。
「ダンジョンは、ヴァルメリアから送られたものだって。そして、ヴァルメリアの実際の映像を見せられました」
「ヴァルメリア…」
美桜はその名を繰り返す。以前、迷宮核を通じて聞いた異世界の名だ。
「その映像では、ダンジョンが増えた結果、星の命が魔素に変えられていったように見えました。だから、深淵王の言うことは違うって」
「なるほどな…」
美桜は腕を組んで考え込む。受け入れた。ようにも見える。だが、美桜の目は完全には納得していなかった。やはり鋭い。俺は影の中で、静かにしていた。
それから、俺たちは帰ることになった。サクラの顔色はまだ悪い。美桜も、それ以上は無理に聞かなかった。
「今日はもう帰ろう。サクラちゃん、休んだ方がいい」
「はい……ありがとうございます」
車へ向かうサクラの背中を、俺は影の中から見上げる。深淵王は逃げた。被害も出た。美桜には、すべてを話せなかった。そして何より、サクラは血を吐いた。俺が本気を出せば、敵は倒せるかもしれない。だが、そのたびにサクラが壊れる。その事実だけは、絶対に忘れてはいけない。車のドアが閉まる。俺はサクラの影の中で、深く息を吐いた。今回は、生きて帰れた。だが、終わったわけではない。
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