73. 深淵王は、外してはいけない檻を外した
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【クロ視点】
深淵王との戦いが始まった。厄介なのは、奴自身の力だけではない。この場所そのものが、奴の味方をしている。床が沈む。壁が生える。足場が消える。こちらが踏み込もうとした場所が、一瞬後には穴になっている。なるほど。ダンジョンの助けを借りているのか。深淵王という名は、伊達ではないらしい。奴の動きは速い。目では追えない。だから、魔力感知で追う。魔力の流れ。気配の揺れ。空間の歪み。それらを拾いながら、俺は転移で避け続けた。近くへの転移なら、サクラへの負担は少ない。少ないだけで、ゼロではない。だから無駄には飛べない。それでも、避けるしかなかった。
避けるだけでは、いずれ詰む。そう判断して、俺は一つ試すことにした。自分の体の前面に、薄い空間魔法を張る。盾ではない。受け止めるのではなく、来た攻撃の向きをずらし、場合によってはそのまま返す。即席にしては悪くない。ただし、全身には張れない。サクラへの負担が大きすぎる。今の俺にできるのは、前面だけ。深淵王の攻撃が来る。空間が歪み、黒い刃のような魔力が俺へ伸びた。俺はそれを、前面の空間膜で受け流す。攻撃は歪み、逆方向へ跳ねた。深淵王の眉が、わずかに動く。よし。そう思ったのは一瞬だけだった。次の攻撃は、背後から来た。
「ぐっ…!」
背中が裂ける。浅くはない。奴はもう、俺の防御範囲を見抜いていた。
攻撃はなおも続いた。こちらは削られている。奴は無傷だ。強い。それも、今の俺では届かない種類の強さだ。深淵王が、ふと退屈そうに言った。
「少し飽きてきたな。洗脳して操った方が早いか?」
ちっ。どんな考えをしてるんだ、このボケが。俺は魔力を極限まで圧縮した。闇と重力を一点に集める。極小の黒い球。グラビティスフィア。命中地点を中心に、物質と魔力を内側へ吸い込み、当たった部分を抉り取る闇重力魔法。本来なら、込める魔力量で大きさも威力も変わる。だが今は極小。サクラへの負担を考えれば、これが限界だ。黒い重力球を放つ。深淵王は、避けた。大きく動いたわけではない。半歩。たった半歩ずれただけで、グラビティスフィアは空を抉る。
「当たらないよ」
深淵王は、確認するように言った。まるで、子どもの投げた石を避けるように。腹が立つ。だが、事実だった。
深淵王の目が、細くなった。
「おかしい」
「何がだ」
「君の戦いはズレている」
奴は俺を観察するように見た。
「魔法の組み方は高度だ。判断も悪くない。だが、出力が低すぎる。動きも小さい。まるで、何かに制限をかけられているようだ」
鋭い。さすがに、そこには気づくか。
「ちょっとな。制限があってな」
俺は笑ってみせた。
「なければ、お前なんか倒せるんだが」
「それは見てみたい」
深淵王の目が、好奇心に光る。
「何かあったかな…」
奴は少し考え、それから楽しそうに手を打った。
「そうだ。こんな魔法はどうだろうか」
嫌な予感がした。深淵王の足元に、黒い魔法陣が広がる。
「動かないでよ」
俺は自分の状態を確認した。そして、思わず笑いそうになった。状態欄。そこにあったはずの“魂糸共鳴”が、変わっている。“魂糸共鳴・封印”。なるほど。サクラへ負担が流れる経路を、一時的に塞いだのか。
「どうだい?」
深淵王が楽しそうに言う。
「君に制限をかけているものを封印する魔法だ。ただし、長くは持たないよ」
「はは」
俺は笑った。
「お前、バカだな」
「なぜ?」
「なんでこんなことをする?」
「そりゃあ、洗脳して操るんだ。どんなことができるのか、知っておきたいじゃないか」
その答えを聞いて、俺は確信した。こいつは、致命的な読み違いをした。俺が力を出せない理由を、ただの制限だと思った。その制限を外せば、観察できると思った。違う。それは、檻だった。サクラを守るための檻であり、同時に、俺をこの世界に留めていた檻だ。俺は人型へ変わる。
【サクラ視点】
四つ足の影が伸びた。背が高くなる。腕が生え、指が生まれ、六つの翼の輪郭が闇の中に浮かぶ。黒い毛並みが、霧のようにほどけていく。獣の輪郭が崩れ、牙が闇へ沈み、爪が黒い粒子となって舞った。でも、消えたわけではない。本来の形へ戻っているのだ。額の左右から、黒い角が伸びた。獣の角ではない。王冠でもない。深い闇を固めたような、重く、美しい羊角。螺旋を描くその角が現れた瞬間、深層の空気が一段沈んだ。背中の影が裂ける。一枚。二枚。三枚。さらに反対側へ、三枚。合計六枚の黒翼が、音もなく開いた。羽ばたいたわけではない。ただ開いただけで、深層に満ちていた魔素が押し返された。
闇の中心で、赤い瞳が開く。黒狼のものではない。人のものでもない。千年の地獄を越えた、大悪魔の瞳だった。私は息を呑んだ。怖い。そう思った。それは嘘ではない。けれど、それ以上に――綺麗だと思った。人の形をしている。でも、人ではない。神に祈る者が見れば悪魔と呼び、悪魔が見れば王と呼ぶ。そんな存在が、私の前に立っていた。
【深淵王視点】
しまったな。深淵王は、そう思った。制限を外せば、本来の力を観察できる。洗脳して操る前に、使い勝手を確認できる。その程度のつもりだった。だが、出てきたのは観察対象ではない。災厄だった。あれは悪魔か。黒狼は何だった。化けていたのか。それとも、黒狼の器に何かが入っていたのか。鑑定を使う。だが、見えない。圧倒的な差で、看破できない。額から汗が落ちた。その瞬間、危険予測が反応する。避けろ。そう判断した時には、すでに遅かった。左肩から先が、消えた。吹き飛んだのではない。抉り取られた。何をした。そう思う間もなく、激痛が遅れてやってくる。
「くっ…」
まずい。これは、想定を超えている。俺には、成すべきことがある。ここで死ぬわけにはいかない。ならば、揺さぶるしかない。
「ちょっと待て」
深淵王は、傷口を押さえながら言った。
「俺を殺すのか?」
悪魔は、迷わなかった。
「そうだ」
即答。迷いなし。交渉の余地なし。まずい。奴は本気だ。しかも、警戒を解かない。隙がない。その時だった。
「ちょっと待って!!」
サクラの声が響いた。
「クロ、ちょっと待って!」
サクラが叫んだ。
「殺さないで。捕まえよう!」
悪魔は、わずかに視線だけを動かした。だが、俺から意識は外さない。
「ダメだ、サクラ」
低い声だった。
「こいつは今ここで殺す」
「でも!」
「逃がせば、もっと大勢死ぬ」
サクラの顔が歪む。俺は、そのやり取りを見ながら呼吸を整えた。ありがたい。サクラが止めてくれるのは、ありがたい。だが、それでも隙はない。悪魔はサクラと話しながらも、こちらを見ている。少しでも動けば、次は首を飛ばされる。逃げられない。そう思った。
その時、サクラが咳き込んだ。
「……っ」
赤い血が、サクラの口元からこぼれる。
「サクラ!」
悪魔の意識が、初めて深淵王から外れた。魂糸共鳴の封印が揺らいでいる。いや、限界が近いのだ。封印によって一時的に遮られていた力の余波が、サクラの魂へ触れ始めている。深淵王には、正確な理由までは分からない。だが、今が唯一の隙だと分かった。深淵王は、残った手で黒い階段を開く。
「また会おう、サクラさん。黒狼」
悪魔が振り返る。だが、追ってこない。追えない。サクラが倒れかけているからだ。深淵王は、黒い階段へ身を沈めた。逃げる。今は、それしかない。黒い階段が閉じる。深層に残されたのは、サクラを抱える大悪魔と、消えかけた魔力の残滓だけだった。
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