72. 黒い階段の先で、深淵王が待っていた
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黒い階段に飲み込まれた。次に足がついた時、そこは知らない場所だった。暗い。でも、ただの暗闇ではない。闇の奥で、何かがゆっくり脈打っている。まるで、星の心臓みたいに。サクラは息を呑んだ。俺はサクラの前へ出る。目の前には、玄弥。いや、今は別の名、神無月玄夜を名乗るべき存在なのだろう。玄夜は静かに笑った。
「ようこそ、深層へ」
「黒い階段…あなたは何者なの?」
サクラが尋ねた。玄夜は、楽しそうに目を細める。
「私は深淵王。ダンジョンを愛し、迷宮核を守る守護者だ」
「深淵王…?」
「そうだ。サクラさん、君にも、その黒狼にも資格がある」
その言葉に、俺は耳を伏せた。資格。嫌な響きだった。
「私と一緒に、ダンジョンを守らないか?」
「何を言っているんですか。資格なんて、そんなものありません」
「いや、あるんだよ」
深淵王は、サクラを真っ直ぐ見た。
「深層適性者がね」
サクラの肩が、わずかに揺れる。
「それって…」
「やっと理解してくれたみたいだね。そして、自分が深層適性者だと知っている」
深淵王は楽しそうに続けた。
「賢者とは話した? 迷宮核とは話した?」
「迷宮核と…?」
「そうか。そこにはまだ至っていないか。まあ、いずれね」
「さて、どうだい?」
深淵王は、最初の問いに戻るように言った。
「一緒に、ハンターたちを倒さないかい?」
「何を言っているんですか」
サクラの声が強くなる。
「ダンジョンは地球を蝕んでいるんですよ? 早く攻略した方が良いに決まっているじゃないですか」
それは、サクラにとって当然の答えだった。俺も、そう聞いてきた。迷宮核は地球の生命を吸い、魔素を生み出す。放置すれば、星が弱っていく。だが、深淵王は首を横に振った。
「迷宮核と話せると分かるんだがね。少し早いが、見せてやろう」
深淵王が手を上げる。闇の中に、光景が広がった。
映像に映ったのは、焼け落ちた森だった。黒く濁った川。灰色の土。掘り返され、削られ、壊された大地。動物の死骸が転がり、枯れた木々が立ち尽くしている。空気さえ腐っているように見えた。サクラが思わず口元を押さえる。
「これは…」
「人間が壊した星の傷だ」
深淵王の声が響いた。映像の中で、荒れ果てた大地の中央に亀裂が走る。そこから、黒い結晶が芽吹くように現れた。迷宮核。迷宮核は、周囲の濁りを吸い込んでいく。黒く淀んだ川は少しずつ澄み、灰色の土には緑が戻り、枯れた木の根元から小さな芽が出た。死んだようだった土地に、命が戻っていく。サクラは、目を見開いていた。
「迷宮は星を蝕んでなどいない」
深淵王は静かに言った。
「人間が壊した星を、迷宮核が修復している」
その声は、怒りでも憎しみでもなかった。確信だった。
「迷宮は侵略者ではない。星が自ら生んだ、傷を癒すための器官だ」
サクラは何も言えなかった。今まで、ダンジョンは地球の生命を吸うものだと思っていた。放っておけば、いつか地球を殺すものだと。けれど、目の前の映像では、迷宮核は確かに荒れた土地を癒しているように見えた。嘘には見えない。だからこそ、サクラは揺れていた。俺は黙って映像を見ていた。
静寂が落ちた。サクラは俺を見た。俺は、映像を見つめたまま言った。
「その映像は、嘘ではない」
「クロ…?」
サクラが驚いたように俺を見る。深淵王は満足げに目を細めた。
「喋る黒狼か。賢いな。分かるか、さすがだ」
「だが」
俺は、深淵王の言葉を遮った。
「最後まで見せていない」
深淵王の表情が、わずかに止まる。俺は一歩前へ出た。
「迷宮核は、確かに淀みを吸う。毒も、腐った魔力も、死にかけた土地も吸う」
最初は、星を救っているように見える。だが。
「俺は、その先を見た」
「ヴァルメリアにも、ダンジョンがあった」
サクラの表情が変わる。その名を、サクラは知っている。俺が千年以上過ごした世界。俺が大悪魔になった世界。
「いや、正確には、ダンジョンはヴァルメリアから来た」
黒い空間に、古い壁画の光景が滲むように広がった。旅の途中、マリーの体で立ち寄った古代神殿。その最奥に刻まれていた壁画には、かつて世界中に無数のダンジョンが存在していた時代が描かれていた。広大な大地。無数のダンジョン。魔素に満ちた空。巨大な迷宮都市。最初、あの世界の者たちも同じことを信じていた。迷宮は荒れた土地を変える。魔素を生み、資源を生み、命を救う。神の祝福なのだと。だが、壁画の最後に刻まれていた世界は違った。森はあった。だが、鳥は描かれていなかった。川は流れていた。だが、水は青白い魔素へと変わっていた。花は咲いていた。だが、虫の姿はどこにもない。空は青い。それでも、その青さには生命の気配がなく、星そのものが静かに死へ向かっているようだった。
「迷宮核は、星の傷を癒していたんじゃない」
俺は深淵王を見た。
「星の生命を、魔素へ変えていただけだ」
「…それは、その星の話だ。召喚獣の世界か?」
深淵王の声が、少しだけ低くなった。
「地球の迷宮核が同じだと、なぜ言える?」
「そもそも、大賢者が言ったからな。勇者が送ったってな」
俺は即答した。だが、深淵王は首を振る。
「違う」
その声には、強い確信があった。
「迷宮核は私に語った。人間が星を壊していると。迷宮はその傷を癒していると」
深淵王の周囲の闇が揺らぐ。
「私は聞いた。迷宮核の悲鳴を。壊さないでくれと。まだ星を治している途中なのだと」
サクラは胸を押さえた。深淵王が見せた映像は、嘘には見えなかった。荒れた土地が癒えていく光景は、本物に見えた。でも、俺の記憶もまた、本物だった。どちらも嘘ではない。だからこそ、サクラは迷っていた。
サクラは、一歩、俺の隣に立った。
「私は…クロを信じます」
深淵王がサクラを見る。
「映像よりも、その黒狼を信じるのか」
「はい」
サクラは迷わず答えた。深淵王の表情が、ほんの少し歪む。
「君は真実を見た」
「見せられたものが、全部とは限りません」
サクラは深淵王を見つめ返した。
「あなたの見たものが、全部嘘だとは思いません。迷宮核が救った命も、きっとあるんだと思います」
サクラの声は震えていた。それでも、目は逸らさなかった。
「でも、クロはその先を見ています。迷宮が星を救うように見えた、その先を」
「信仰ではなく、情か」
「信頼です」
サクラは言い返した。その瞬間、俺の尻尾がわずかに揺れた。おい。今、揺れるな。
深淵王は、しばらく黙っていた。やがて、小さく笑う。
「残念だ。君なら、迷宮の声を聞けると思った」
「声は聞きます」
サクラは言った。
「でも、従うかどうかは私が決めます」
深淵王の目が細くなる。
「ならば」
彼が手をかざした。床が沈む。闇が広がる。
「サクラ、下がれ」
「はい!」
深淵王の背後で、迷宮核の光が脈打った。
「黒狼。君が見た結末が真実だと言うのなら、私の迷宮を越えて証明してみせろ」
俺は低く唸る。
「いいだろう」
赤い瞳が、深層の闇を射抜いた。俺の影が、サクラを守るように広がる。深淵王が微笑んだ。戦いが、始まった。
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