60. 人型になったクロを、よりによって真里さんに見られました
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俺は人型になって、筋トレをしていた。場所は自宅。…と言いたいところだが、正確にはサクラの家だ。サクラはコインランドリーへ行っている。ありがたいことに、コインランドリーはこのマンションの1階にあるらしい。ちなみにサクラの部屋は3階だ。つまり、俺は留守番である。影で作った人型の体に、筋トレがどれほど意味を持つのかは分からない。筋肉が増えるのか。魔力操作が上手くなるのか。それとも、ただの自己満足なのか。正直、よく分からん。だが、じっとしているよりはいい。せっかく二本足で動けるのだ。体の感覚を確かめておいて損はない。
俺はサクラに教えてもらった音楽を聴きながら、腕立て伏せをしていた。何が驚いたかって、イヤホンだ。まず線がない。俺が知っている時代の耳に入れる道具とは、明らかに別物だ。小さなものを耳に入れるだけで音が鳴る。しかも、周囲の音を消す機能まである。ノイズキャンセリング。サクラはそう言っていた。ほぼ魔法だろう。いや、魔法より便利かもしれない。千年以上悪魔として生きてきた俺が、現代日本のイヤホンに感動している。人生…いや、悪魔生とは分からないものだ。
しばらくして、玄関の方で音がした。ノイズキャンセリングとやらのせいで、細かい気配までは拾いきれなかった。俺はイヤホンを外しながら振り向く。最近は、日本語もだいぶ流暢になってきたと思う。サクラに教わった挨拶も自然に出るようになった。
「サクラ、おかえり」
そう言いながら振り向いて、俺は固まった。そこにいたのは、サクラではなかった。縦ロール。上品な服装。目を見開いた顔。真里だった。
「マリー!」
反射的に、その名が出た。同時に、真里も叫ぶ。
「アシェル!」
空気が止まった。やってしまった。俺はまた、真里をマリーと呼んでしまった。そして真里も、俺をアシェルと呼んだ。アシェル。ヴァルメリアで、マリーの体を借りていた時の名。サクラにはほとんど話していない名。真里が知っているはずのない名。真里は口元に手を当て、自分でも驚いたように俺を見ていた。俺も動けない。なぜ真里がここにいる。なぜ俺は人型のままなのだ。なぜ、よりによってサクラがいない時に来る。
その沈黙を破ったのは、もう一度開いた玄関の音だった。今度こそ、サクラだった。洗濯物の入った袋を持ったまま、部屋に入ってくる。そして、俺と真里を見た。人型の俺。真里。なぜか向かい合って固まっている二人。サクラの顔から血の気が引く。だが、次の瞬間。
「お、お兄ちゃん!」
叫んだ。俺は理解した。乗るしかない。今、乗らなければ終わる。
「サクラ、おかえり」
俺はできるだけ自然な顔で言った。自然な顔ができていたかは知らん。
「えーと、前に話していた真里さんかな?」
俺は真里を知らないふりをした。サクラもすぐに乗る。
「そうそう! お兄ちゃん、よく分かったね!」
「サクラは友達が少ないからな」
「あはは、ひどいな〜」
「事実だろう」
「あはははは」
「ははははは」
乾いた笑いが部屋に響く。我ながら、ひどい茶番だった。だが、他に選択肢がない。サクラも必死に笑っている。俺も必死に兄らしい顔をしている。しかし、真里は笑っていなかった。彼女は俺だけを見ていた。まばたきすら忘れたように、じっと。
「アシェル…」
真里が小さく呟いた。その声は、真里のものだった。けれど、俺の中では別の声と重なった。マリー。砂埃の舞う城下。砕けた王城。最後に見た、あの体。俺は言葉を失った。違う。目の前にいるのは真里だ。マリーではない。そう分かっている。それでも、魂の奥が反応してしまう。真里も同じなのかもしれない。彼女は自分でも理由が分からない顔で、俺に一歩近づいた。
次の瞬間、真里はさらに一歩踏み出した。そして、両腕を広げる。
「好き!」
そのまま、俺に抱きついてきた。
「……は?」
俺は固まった。サクラも固まった。たぶん、この部屋の空気も固まった。真里は俺の胸元に顔を埋めたまま、震えている。
「分かりませんわ…でも、好きですの……」
その声は、真里のものだ。けれど、その奥に、マリーの何かが混じっている気がした。俺はどうすればいい。押し返すべきか。受け止めるべきか。説明するべきか。横を見る。サクラが、笑顔のまま固まっていた。怖い。これは、戦場より怖いかもしれない。
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