45. 人型になった俺は、地球の街で「皐月」と呼ばれた
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人型になり、服も着られるようになった。ただそれだけのことなのに、俺の中で何かが落ち着かなかった。黒狼の姿で地球へ戻ってきた。サクラの影の中から街も見た。コンビニも、バスも、会社も、焼き肉屋も見た。だが、2本の足で地面を踏んだわけではない。人の姿で、地球の空気を吸ったわけではない。だからだろうか。俺はサクラに声をかけた。
「サクラ、少し出掛けてきていいか? 街を歩きたい」
サクラはすぐに心配そうな顔をした。
「大丈夫? 私もついていこうか?」
「いや、この辺を軽く散歩するだけだ。すぐ帰ってくる」
「…本当に?」
「ああ」
サクラは少し迷ったあと、頷いた。
「わかった。気をつけてね!」
その言葉に、俺は短く頷き、家を出た。
玄関を出て、靴を履く。それだけの動作が、妙に懐かしかった。アスファルトを踏む。住宅街を歩く。道路を車が走り、電柱には電線が伸びている。ありふれた地球の景色。だが、俺にとっては千年以上ぶりの景色だ。黒狼の姿で地面を歩くのとは違う。影の中から覗くのとも違う。2本足で歩く。ただそれだけで、胸の奥が少しだけざわついた。俺は本当に、地球へ戻ってきたのかもしれない。そう思った。
しばらく歩いていたはずだった。だが、次に気づいた時、俺は別の場所に転移していた。
「…ここは、どこだ?」
サクラの家の近くではない。かなり離れている気がする。目の前にあるのは、公園だった。古い遊具。砂場。ベンチ。木陰。何の変哲もない公園だ。だが、俺の体は迷わずここにいた。理由は分からない。記憶もない。それなのに、意識のどこかがこの場所を知っている気がした。俺はベンチに座り、大きく息を吸った。土の匂い。草の匂い。遠くを走る車の音。悪魔界にはなかったもの。ヴァルメリアとも違うもの。地球の空気だった。気持ちいい。ようやく、本当に地球へ戻ってこられた気がした。
しばらくして、俺は立ち上がった。そろそろ帰るべきだ。サクラにすぐ戻ると言った。公園を出て、道路の前で車が通り過ぎるのを待つ。その時だった。俺の目の前を通り過ぎた一台の車が、少し先で急に止まった。キキィーッ。タイヤが鳴る。俺は反射的に身構えた。車のドアが開き、中から男が出てくる。三十代後半。いや、四十に近いか。スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた、どこにでもいる会社員のような男だった。だが、その顔は青ざめていた。男は、俺を見たまま固まっている。そして、震える声で言った。
「…皐月?」
男はふらつくように近づいてきた。
「皐月……皐月だよな?」
俺は動けなかった。皐月。その名前を、また聞いた。美桜の口から。若葉の口から。そして今、見知らぬ男の口から。男は俺の両肩を掴んだ。
「皐月じゃないか!」
強い力ではなかった。だが、俺は振り払えなかった。その男に見覚えはない。ないはずだ。なのに、胸の奥だけが嫌な音を立てていた。俺は、たどたどしく日本語を返す。
「だ…誰…だ?」
男は一瞬、きょとんとした。
「誰って…翔太だよ。飯塚翔太!」
飯塚翔太。知らない。思い出せない。
「どこにいたんだよ! 水無瀬もすごく探してたんだぞ!」
水無瀬。美桜の名字。
「やっぱり、ダンジョンで行方不明っていうのは間違いだったんだな。ちょっと待ってろ、今連絡するから!」
男は慌てて車へ戻ろうとした。連絡。誰に。美桜にか。若葉にか。その瞬間、俺の中で何かが冷えた。
男がスマホを取りに車へ戻った。その一瞬で、俺は動いていた。人型を解き、黒狼へ戻る。そして影へ潜る。気づけば、俺はその場から逃げていた。なぜ逃げた。俺にも分からない。飯塚翔太という男に敵意はなかった。むしろ、本気で俺を心配しているように見えた。それでも逃げた。美桜に連絡されるのが怖かったのか。若葉に知られるのが怖かったのか。それとも、俺が本当に皐月だと証明されてしまうのが怖かったのか。分からない。ただ、あの場にいられなかった。
俺はサクラの家に戻った。部屋では、サクラがお菓子を食べていた。
「おかえり。どしたの?」
その声が、あまりにも普段通りで。俺は、少しだけ力が抜けた。皐月。飯塚翔太。水無瀬。連絡。さっきまで頭の中で暴れていた言葉が、少しだけ遠くなる。サクラは俺をじっと見た。
「…何かあった?」
俺は答えられなかった。するとサクラは、お菓子の袋を横に置き、自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「ここ」
なぜだ。その仕草に、体が逆らえなかった。俺は黒狼の姿のまま、サクラの膝に頭を乗せた。サクラの手が、そっと俺の頭を撫でる。ああ。なんとも言えない安心感だった。
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