39. ダンジョンの夜、若葉は黒狼を撫でた
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※一部間違いを修正しました
ダンジョンに入ってから、すでに8時間が経っていた。途中で何度か休憩を取りながら進み、俺たちはようやく10層まで来ていた。このダンジョンは15層まで。残りは5層だ。初心者向けダンジョンというだけあって、ここまで出てきたモンスターは弱い。スライム、ゴブリン、そして今はオークが中心になってきた。サクラにはまだ少しきつい相手だろう。だが、美桜と若葉がいれば問題ない。美桜は当然として、若葉も一応は現役ハンターというだけあって動きがいい。受付の時の柔らかい雰囲気からは想像しづらいが、魔物への対応はかなり慣れていた。サクラは疲れていた。それでも、弱音を吐かずについてきている。まったく、妙なところで根性がある。
今日はここで夜営することになった。10層の端にある広めの空間。魔物の通り道からも外れており、夜営にはちょうどいい場所らしい。美桜と若葉は手際よくテントを張り、簡易結界の道具を設置していく。サクラも手伝おうとしていたが、ほとんど指示されたものを渡す係になっていた。その姿は少しだけ不器用で、少しだけ可愛い。食事の準備も早かった。マジックポーチというものは便利だ。中の時間経過を遅らせるものもあるらしく、温かい食べ物まで取り出せる。ダンジョン攻略において、温かい食事はかなり重要だ。体力だけでなく、精神も回復する。そして俺の前には、いつものドッグフードが置かれた。だから犬じゃない。いや、今の体は黒狼だが、それとこれとは別だ。
食事が終わると、美桜が夜番について話し始めた。
「今日はここで夜営するよ。夜番は私と若葉でやるから、サクラちゃんは寝てて」
「えっ! そんなの申し訳ないです!」
サクラが慌てて首を振る。
「いやいや、こっちは無理に付き合ってもらってるんだよ。サクラちゃんは招待客みたいなものなんだから、無理はさせられない」
美桜は軽い口調で言った。若葉も柔らかく微笑む。
「そうですよ、サクラさん。ここは私とお姉ちゃんに任せてください」
「え〜…じゃあ、うちのクロも一緒に夜番お願いします!」
そこで俺に振るのか。若葉が少し心配そうに俺を見る。
「クロちゃん、疲れませんか?」
「クロ、大丈夫?」
サクラに聞かれたので、俺は頷いた。大丈夫だよな。たぶん。
「移動中、影の中で寝てれば大丈夫だよ!」
サクラは明るく言った。なるほど。それなら確かに大丈夫かもしれん。だが、その時の俺は知らなかった。夜番そのものより、もっと面倒なものが待っていることを。
サクラが眠り、美桜も休みに入った。最初の夜番は若葉と俺だった。ダンジョンの夜は妙に静かだ。遠くで魔物の鳴き声のようなものが聞こえるが、こちらへ近づいてくる気配はない。俺は周囲の影を探りながら、見張りを続けていた。その時、背後に気配を感じた。敵か。そう思って振り返るより早く、柔らかい腕が俺の体に回った。
「可愛い〜。モフモフだ〜」
若葉だった。敵ではなかった。敵ではなかったが、ある意味、敵より厄介だった。
若葉は、いつもの受付で見せる落ち着いた雰囲気とはまるで違っていた。
「すごい…毛並みがふわふわです。クロちゃん、本当に綺麗ですね」
頭を撫でられる。首のあたりを撫でられる。耳の後ろまで触られる。やめろ。そこは少しくすぐったい。俺は見張りはどうした、という意味を込めて小さく唸った。
「グルル……」
すると若葉の目が輝いた。
「うわ〜、威嚇まで可愛いです!」
逆効果だった。そこから先は、もはや見張りではなかった。若葉は周囲への警戒をしながらも、片手ではずっと俺を撫でている。しかも妙に手つきがうまい。犬や猫の喜ぶ場所を知り尽くしている手つきだ。俺は犬ではない。猫でもない。大悪魔だ。だが、その大悪魔は今、元受付嬢にモフモフされていた。
夜番の交代時間になり、美桜が起きてきた。美桜は若葉を見て、それから俺を見た。
「若葉、どうした? なんだかスッキリしてるな」
その通りだ。若葉は妙に満足そうな顔をしていた。そして俺は、なぜか戦闘後のように疲れていた。
「それに、クロはなぜかクタクタだな。何があった?」
「べ、別に何もありませんよ!」
若葉は分かりやすく目をそらした。いや、あった。ものすごくあった。俺は美桜に向かって、若葉にモフモフされ続けたことを訴えた。だが、口から出るのは低い鳴き声だけだ。
「……?」
美桜は首を傾げた。くそ、伝わらん。
交代してしばらくすると、若葉の寝息が聞こえてきた。ようやく静かになった。俺は周囲の影を探りながら、今度こそまともに見張りをしようとした。その時、また背後から嫌な気配がした。まさか。振り返るより早く、美桜の腕が俺の体を抱きしめた。今度はお前か。俺はぎょっとして、思わず体を動かした。だが、美桜は離れなかった。
「しばらく、こうさせてくれ……」
その声を聞いて、俺は動きを止めた。若葉の時とは違う。美桜の声には、ふざけた響きがなかった。仕方ない。俺は小さく息を吐き、大人しくすることにした。
「私は、もう10年以上も人を探している」
美桜は俺を抱きしめたまま、ぽつりと話し始めた。
「分かるんだ。生きてるって。あいつは、そう簡単に死ぬやつじゃないって」
俺は何も言えなかった。言葉を返せば、念話になる。念話を使えば、正体に近づく。だから黙るしかない。
「こんなこと、誰にも言えないんだけどね」
美桜は小さく笑った。その笑いは、寂しそうだった。
「あいつ、最後の日に言ったんだ」
美桜の腕に、少しだけ力が入る。
「帰ってきたら、プロポーズさせてくれって」
おい。これはまずい。たぶん、本人の前だぞ。いや、本人と言っていいのかは分からない。今の俺は黒狼の体に入った大悪魔で、記憶も曖昧で、あの頃の俺と同じとは言い切れない。だが、それでも。美桜が探している相手は、おそらく俺だ。
「だから、絶対に見つける。絶対に諦めない」
美桜の声は震えていた。
本当に、どこに行ってるんだよ……」
逃げ出したい。だが、逃げられない。これ、もうカミングアウトできなくないか?
その時だった。
「ギギッ!」
近くの岩陰から、ゴブリンが顔を出した。おお。空気の読めないゴブリン参上。いつもなら面倒な相手だが、今だけは助かったと思った。これでこの妙な空気から逃れられる。そう思ったのだが。美桜は動かなかった。……美桜?美桜さん?なぜ反応しない。俺が少し不安になった瞬間、空気が重くなった。美桜から、尋常ではない威圧感が漏れ出した。
美桜はゆっくりと顔を上げた。
「私のセンチな気分を害する奴は誰だ?」
低い声だった。やばい。怒っている。俺は思わず体を固くした。そうだ。こいつ、キレるとやばい奴だった気がする。記憶は曖昧だが、体のどこかが覚えている。マジで怖い。ちびりそうだ。ゴブリンは、完全に出てくるタイミングを間違えた。次の瞬間、美桜の魔法が走った。ゴブリンは悲鳴を上げる暇もなく吹き飛ぶ。
「……怖っ」
俺は思わずそう思った。その後も、なぜかたびたびゴブリンが現れた。そのたびに美桜が無言で処理していく。結果として、あの重すぎる話に戻ることはなかった。助かった。ゴブリンには少しだけ感謝している。
そうして、夜は過ぎていった。サクラはぐっすり眠っている。若葉は満足そうに眠っている。美桜は何事もなかったような顔をしている。そして俺だけが、なぜかひどく疲れていた。朝になり、サクラが目を覚ます。
「クロ、大丈夫?」
俺は頷いた。大丈夫だ。たぶん。ただ一つ分かったことがある。ダンジョンの夜で一番危険なのは、モンスターとは限らない。若葉のモフモフと、美桜の本音。今回の夜番で俺が相手にしたものは、どちらもなかなかの強敵だった。
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