37. 日常の隙間から、非日常が手を伸ばす
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【サクラ視点】
週明けの月曜日。いつものように目覚ましで起きて、いつものように身支度をして、いつものバスに乗った。ダンジョンに潜った週末の後でも、会社は待ってくれない。世界を救うかもしれない話をしていても、月曜日は普通にやってくる。会社に着くと、同僚に挨拶をして、先輩に頭を下げ、上司に軽く会釈をする。当然、その中には藤堂さんもいた。
「おはよう、サクラさん」
「おはようございます、藤堂さん」
藤堂さんは、いつも通り柔らかく笑っていた。
何も変わらない。いつもの会社。いつもの月曜日。そう思っていた。
デスクに座り、パソコンを開く。メールを確認して、先週残した作業を整理して、今日やることをメモに書き出す。本当に、どこにでもある普通の月曜日だった。けれど、午前中の途中で、上司から呼ばれた。
「サクラさん、ちょっといい?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少し重くなる。嫌な予感というのは、だいたい当たる。
呼び出された理由は、先週末に提出した書類の不備だった。数字の入力位置が一つずれていたらしい。たしかに私の確認不足だ。そこは反省している。でも、正直に言えば、すぐ直せる内容だった。それなのに、上司の説教はなかなか終わらなかった。
「こういう小さなミスが信用を失うんだよ」「何度も確認したの?」「社会人なんだから、もう少し責任感を持って」
何度も、何度も、同じような言葉が繰り返される。この上司は、自分に悪いことがあると、平然と部下に当たり散らしてくる。今日もたぶん、朝から何かあったのだろう。だからといって、私にぶつけないでほしい。そう思っても、口には出せない。
「申し訳ありません」「今後気をつけます」
私はひたすら頭を下げ続けた。影の中から、クロさんの低い声がした。
「この男、黙らせるか?」
「だ、だめです! 会社です!」
会社で影狼が上司を黙らせるなんて、絶対にだめだ。
ようやく説教が終わり、私はデスクに戻った。体力は減っていないはずなのに、なぜかダンジョン帰りより疲れている。椅子に座って、こっそりため息をつく。その時、スマホに留守電の通知が入っていることに気づいた。相手は、美桜さんだった。折り返し電話がほしい、とのこと。
「…なんだろう」
嫌な予感がした。美桜さんが悪い人というわけではない。むしろ綺麗で、強くて、頼れる人だ。でも、あの人から連絡が来ると、だいたい普通の日常では終わらない気がする。
昼休みになって、私は美桜さんへ電話をかけた。用件は、今度の三連休に近くのダンジョンへ一緒に行かないか、という誘いだった。
「小さなダンジョンだから、そこまで危険はないわ」
美桜さんはそう言った。ダンジョンは、日本中にかなりの数がある。その中には、初心者用や訓練用、趣味で潜る人向けに残されている小さなダンジョンもあるらしい。とはいえ、ダンジョンはダンジョンだ。浅い階層なら危険は少なくても、最奥にはボスがいる。ボスを倒して迷宮核を回収するとなれば、話は変わる。プロのハンターたちは、お金になるダンジョンや、スタンピードの危険があるダンジョンを優先する。だから小さなダンジョンは、意外と後回しにされることも多い。美桜さんの目的は、単なる攻略ではなかった。黒い階段。大賢者。そして、10年前に消えた仲間。その手がかりを探したいのだ。
「サクラさんの力が必要なの」
そう言われて、私はすぐに返事ができなかった。まぁ結局は後日OKを出したんだけどね…
そんな重い気持ちのまま午後の仕事に戻ると、藤堂さんが声をかけてきた。
「サクラさん、これあげる」
「え?」
差し出されたのは、近くの焼き肉屋さんの半額クーポンだった。
「商店街の福引きで当たったんだけど、使用期限が今日までなんだ。行こうと思ってたんだけど、急に家族の用事が入っちゃって」
「え、いいんですか?」
「うん。捨てるのももったいないし、よかったら」
焼き肉。半額。今日まで。その三つの言葉で、午前中に削られた心が少しだけ回復した。
「ありがとうございます!」
私は思わず笑顔になった。今日はついてないことばかりだと思っていた。でも、少しだけ良いこともあるらしい。
仕事が終わると、私はそのまま焼き肉屋さんへ向かった。本当は少し迷った。一人焼き肉は、まだ少し勇気がいる。でも今日は、頑張った。上司に怒られて、美桜さんからダンジョンに誘われて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。だから、少しくらい自分にご褒美をあげてもいいと思った。店に入り、席に案内される。私はメニューを見ながら、小声で影に話しかけた。
「クロさん、食べます?」
「肉か」
「焼き肉です」
影の中で、クロさんの気配が少しだけ動いた。
「…懐かしいな」
その声は、少しだけ柔らかかった。
私はそこまでたくさん食べる方ではない。でも、今日はクロさんがいた。焼けたお肉を、こっそり影の近くへ寄せる。すると、影の中から黒い鼻先だけが少し出て、器用に肉をさらっていく。
「おいしいですか?」
「悪くない」
「それ、かなり気に入ってますよね?」
「…懐かしい味がする」
クロさんはそう言った。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し温かくなった。クロさんにも、人間だった頃の日常があったのだ。誰かとご飯を食べたり、焼けた肉を見て喜んだり、そんな普通の時間が。来てよかった。そう思った。藤堂さんには、あとでちゃんとお礼を言おう。
その頃。焼き肉屋の防犯カメラの映像を、別の場所で見ている男がいた。藤堂悠真。画面の中で、サクラは楽しそうに肉を焼いている。そして時々、皿を不自然に足元の影へ近づけていた。影が揺れる。肉が消える。藤堂は静かに目を細めた。
「やはり、ただの召喚獣ではない」
彼が見ていたのは、サクラの笑顔ではない。サクラの影に潜む黒狼。そして、その黒狼が深層の魔素にどう反応するかだった。半額クーポンは、偶然ではなかったのだ。
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