36. 【番外編】優しい先輩は、黒い階段を見ていた
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藤堂悠真は、会社ではよく笑う男だった。上司には礼儀正しく、後輩には面倒見がよく、同僚には気さくに声をかける。サクラに対しても同じだった。
「サクラさん、今日も忙しそうだね」「無理しすぎないようにね」
その声は柔らかく、態度も自然だった。周囲から見れば、少し距離の近い優しい先輩。もしかしたらサクラに好意があるのかもしれない。その程度にしか見えない。
だが、クロだけは違和感を覚えていた。笑っているのに、匂いが薄い。感情を向けているようで、どこか温度がない。藤堂は、たしかにサクラをよく見ていた。だが、それは恋をしている男の目とは少し違う。サクラの笑顔を見ているわけではない。声に聞き入っているわけでもない。彼の視線は、時々、サクラの足元へ落ちる。影を見る。手を見る。首筋を見る。まるで、そこに何かの変化を探しているように。
「…あの男、やはり妙だな」
影の中でクロが呟いても、サクラは少し困ったように笑うだけだった。
「そう? ちょっと距離が近いだけじゃない?」
そう見える。そう見えるように、藤堂は振る舞っている。
その日の夜。会社の明かりが一つ、また一つと消えていく。コピー機の音も止まり、廊下から人の気配が消えた。藤堂悠真は、誰もいない非常階段に出た。扉が閉まる。廊下の明かりも、社員たちの声も、厚い扉の向こうに消える。そこにいるのは、会社でよく笑う藤堂悠真ではなかった。後輩に優しい先輩。爽やかな同僚。サクラに少し好意を寄せているように見える男。そのどれでもない顔で、藤堂は階段の下を見下ろした。
非常灯の緑色の光が、コンクリートの階段をぼんやり照らしている。何の変哲もない会社の非常階段。だが、藤堂が一歩だけ足を下ろした瞬間、空気が変わった。音はなかった。光もなかった。ただ、階段の影が深くなった。一段下。さらに一段下。普通のコンクリートの階段の底に、別の闇が重なっていく。黒い階段。ダンジョンの深部へ誘うような、底の見えない階段が、会社の非常階段の奥に、音もなく口を開いていた。藤堂は驚かなかった。ただ静かに、その闇を見下ろす。
黒い階段の奥が、水面のように揺れた。そこに、サクラの姿が映る。会社で笑うサクラ。ダンジョンで息を切らすサクラ。黒い階段に呼ばれ、迷宮核の前に立ったサクラ。藤堂は目を細めた。
「恋をしているように見えたか」
小さく笑う。それは、誰に向けた言葉でもない。黒い階段の闇に、文字のようなものが浮かぶ。それは地球の文字ではない。ハンターのステータスにも表示されない。普通の人間には、きっと意味すら分からない。だが、藤堂には分かった。
【状態】*****
藤堂は、その伏せられた状態を見て、静かに息を吐いた。
「ようやく、根づいたか」
サクラは、最初から深層適性者だったわけではない。ただ、タネは持っていた。普通の人間なら弾くはずの魔素を、ほんの少しだけ受け入れる器。深層の声に、ほんのわずかだけ届く余地。黒い階段に、呼ばれる可能性。藤堂は、それを見逃さなかった。だから少しずつ、ほんの少しずつ、深層の魔素を吸わせた。近づきすぎず。離れすぎず。サクラの日常を壊さない距離で。会社の空気の中に、気づかれないほど薄く。帰り道の影に、わずかに。声をかけるその瞬間に、ほんの一滴だけ。急に与えれば壊れる。拒絶されれば、ただの人間のまま終わる。だから、育てた。サクラ自身も気づかないうちに。クロでさえ、違和感としか捉えられないほど慎重に。
やがて、黒い階段は音もなく薄れていった。会社の非常階段には、何事もなかったかのように静けさだけが戻る。非常灯の緑色の光。コンクリートの階段。閉じた防火扉。すべてが、いつもの会社の風景だった。藤堂は一度だけ目を閉じた。そして、ゆっくりと表情を整える。次に顔を上げた時、そこにいたのはいつもの藤堂悠真だった。人当たりのいい先輩。少し距離の近い同僚。サクラに好意があるように見える男。
翌朝、藤堂はいつも通りに笑った。
「おはよう、サクラさん」
サクラは何も知らずに挨拶を返す。
「おはようございます、藤堂さん」
影の中のクロだけが、ほんのわずかに目を細めた。だが、まだ何も掴めない。サクラは、まだ知らない。自分のすぐ隣にいる普通の会社員が、何をしてきたのか。クロも、まだ知らない。あの男の視線が、恋でも好意でもなく、もっと深い場所へ向けられていることを。藤堂悠真は、今日も普通の顔で会社にいる。けれど、サクラの日常は、もうとっくに深層の魔素に触れ続けていた。
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