35. 【番外編】サクラさん、俺は犬ではなく大悪魔です
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日曜日の朝。久しぶりに、ダンジョンにも会社にも追われない朝だった。サクラはのんびり朝食を終え、部屋の片づけをしていた。俺は影から半分だけ体を出し、床の上で休んでいた。その時、サクラの動きが止まった。
「に……におう……」
サクラは鼻を指でつまみ、俺を指差した。
「今日はクロを洗います!」
なんだ、その宣戦布告は。せっかくの日曜日に、わざわざそんなことをしなくてもいいだろう。そう思ったが、サクラの顔は妙に真剣だった。今週は、こいつもいろいろあった。ギルド、美桜、若葉、真里、そして俺の過去。息抜きになるなら、まあいい。俺はため息をつきながら、素直に洗わせてやることにした。
浴室に連れて行かれた俺は、シャワーを見上げた。
「大悪魔が洗われる日が来るとはな…」
「今は黒狼です」サクラは容赦なく言った。
ぬるま湯が背中にかかる。最初は少し不快だった。だが、毛の奥にたまっていた汚れが流れていく感覚は、思ったより悪くない。サクラは泡立てたシャンプーを手に取り、俺の背中をわしゃわしゃと洗い始める。
「おとなしくしててくださいね」
「逃げる気はない」
「えらいえらい」
「褒めるな」
そう言いながらも、俺は動かなかった。サクラが楽しそうだったからだ。
どうにか洗い終わると、サクラはタオルで俺の毛を拭いた。そのあと、どこからかドライヤーを持ってくる。
「では、乾かします」
「待て」
さすがにそれは時間がかかりすぎる。俺は風魔法を使った。風が毛並みの間を抜け、水分だけを払う。数秒後には、俺の体はほとんど乾いていた。サクラはドライヤーを持ったまま、目を丸くする。
「便利すぎません?」
「当然だ」
「じゃあ最初からそれで…」
「洗うのはお前がやりたかったのだろう」
サクラは少しだけ照れたように笑った。
「…はい」
これで終わりだと思っていた。だが、サクラはせかせかと着替え始める。
「お昼と買い物がてら、お出かけします。ほら、影に入ってください」
まだ何かあるのか。そう思いながらも、俺は素直にサクラの影へ入った。しばらく歩き、バスに乗り、着いた場所を見て俺は固まった。ペットショップ。影の中で、思わず呟く、「なんじゃそりゃ。」俺は大悪魔だぞ。いや、今の体が黒狼なのは認める。認めるが、だからといってペットショップに連れてこられるとは思わなかった。
サクラは首輪売り場の前で、真剣に悩んでいた。
「これもいいけど、こっちの方がクロっぽいかな…」
クロっぽいとは何だ。俺は影の中でそう思ったが、口には出さない。サクラは首輪のほかに、ブラシまで購入した。完全に犬扱いだ。だが、なぜか怒る気にはなれなかった。店を出たあと、人気の少ない場所でサクラがしゃがむ。
「クロ、影から出てきて」
俺が姿を現すと、サクラは買ったばかりの首輪を手にしていた。
「つけますね」
「…好きにしろ」
俺はしぶしぶ首を差し出した。
首輪がつけられる。体に何かを巻かれる感覚は、正直少し落ち着かない。だが、サクラは満足そうだった。
「似合ってます」
「当然だ」
「嫌じゃないんですか?」
俺は少し黙った。首輪そのものに意味はない。俺を縛るほどの力もない。だが、サクラが選んだものだ。
「…契約者、いや、サクラが選んだものだ。捨てる理由はない」
サクラは一瞬きょとんとしたあと、ふわりと笑った。
「はい、よろしい!」
なんだ、その上から目線は。そう思ったが、悪い気はしなかった。
帰り道、サクラは近くの公園に寄った。ただの散歩のつもりだったのだろう。公園では子どもたちが遊んでいた。ボールが転がり、笑い声が響いている。その時、1つのボールが道路の方へ転がった。小さな子どもが、それを追って走り出す。まずい。道路の向こうから、車の気配が近づいていた。誰も気づいていない。俺は反射的に影を伸ばした。子どもの足元に影を絡め、転ばせない程度に、しかし確実に動きを止める。子どもは「あれ?」という顔で立ち止まった。次の瞬間、車が道路を通り過ぎる。誰も、何も気づいていなかった。
だが、サクラだけは気づいていた。
「今、助けましたよね?」
「偶然だ」
「偶然、影が子どもの足を止めたんですか?」
「よくあることだ」
「ありませんよ」
サクラは小さく笑った。その笑顔が、妙にまぶしかった。
「クロさんって、やっぱり優しいですね」
「勘違いするな。子どもが事故に遭れば、騒ぎになって面倒だっただけだ」
「はいはい、そういうことにしておきます」
サクラは楽しそうに笑う。俺はそれ以上、何も言わなかった。
帰り道、サクラがぽつりと言った。
「クロのこと、私、知らないことばっかりですね」
その声は、さっきまでより少しだけ小さかった。美桜は、俺の昔の仲間かもしれない。若葉は、俺の妹かもしれない。真里は、マリーに似ている。そしてサクラは、今の契約者だ。だが、サクラはそれだけでは足りないと思っているのかもしれない。俺の過去を知る者たちが次々と現れ、自分だけが何も知らないように感じている。その不安は、契約を通じて俺にも伝わってきた。
俺はしばらく答えられなかった。サクラの不安は分かる。だが、俺自身も、自分の過去をすべて覚えているわけではない。美桜や若葉は、俺の人間だった頃を知っているかもしれない。真里は、マリーに関わる何かを持っているかもしれない。けれど、その誰もが、今の俺を知っているわけではない。千年以上を悪魔として過ごし、マリーの体で旅をし、今は黒狼クロの体にいる俺を。その全部を、知っている者はいない。俺はようやく口を開いた。
「過去を知っている者が、今の俺を知っているとは限らん」
「え?」
サクラが顔を上げる。
「俺の昔を知る者はいる。俺の罪を知る者もいる。俺が失ったものを知る者もいるだろう」
俺は少しだけ言葉を選んだ。
「だが、今の俺が誰の隣にいるかを知っているのは、お前だけだ」
サクラが息を止める。
「サクラ。お前は俺の過去を知らない」
「……うん」
「なら、これから知ればいい」
俺はそう言って、サクラの隣を歩く。
「俺は逃げん。今、俺の隣にいるのはお前だ」
家に着く頃には、サクラの表情は少し柔らかくなっていた。とはいえ、今日は朝から俺を洗い、買い物に行き、公園にも寄った。さすがに疲れたのだろう。サクラはソファに座り、俺を見た。そして、自分の膝をぽんぽんと叩く。
「ここ」
「…何のつもりだ」
「クロさんの頭を置く場所です」
「勝手に決めるな」
「五分だけ」
それは俺の台詞だ。
俺はため息をつき、仕方なくサクラの膝に頭を乗せた。
「五分だけだ。勘違いするな。契約者の精神安定は、俺の存在維持に関わる」
「はいはい、ありがとうございます」
サクラは嬉しそうに俺の毛を撫でた。
【サクラ視点】
私はクロの毛をゆっくり撫でた。朝は少しにおったのに、今はシャンプーのいい香りがする。私は、クロさんの過去を全部知らない。美桜さんのことも、若葉さんのことも、真里さんのことも、マリーさんのことも。きっと、私が知らないクロさんはたくさんいる。でも、今日のクロさんなら知っている。文句を言いながら洗わせてくれて、私が選んだ首輪を外さなくて、子どもを助けて、私の隣にいると言ってくれた。そして今、五分だけと言いながら、私の膝に頭を乗せている。私はその毛を撫でながら、そっと思った。私はまた少し、クロさんを好きになった。
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