32. 真里は、俺をアシェルと呼んだ
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土曜日の朝一番、俺たちはダンジョンに来ていた。目的は2つ。1つは、サクラの特訓。もう1つは、俺の体慣らしだ。今の俺は、かつての俺ではない。大悪魔としての力はある。だが、それを入れている器は、影狼クロの肉体だ。どこまで動けるのか。どこまで戦えるのか。そして、どこからが危険なのか。それを知らなければ、いざという時にサクラを守れない。
低階層のモンスターを相手に、サクラは少しずつ動きを確認していった。逃げる位置。距離の取り方。俺への指示の出し方。そして、危険を感じた時に無理をしない判断。サクラは決して強いハンターではない。だが、臆病さは悪いことばかりではない。無謀に突っ込むより、よほど生き残る可能性がある。そうして気づけば、ダンジョンに潜ってから6時間ほど経っていた。俺たちは5階層の少し開けた場所で休憩に入ることにした。
以前の俺なら、6時間程度の探索など気にも留めなかった。だが、今は違う。体が重い。いや、重いというより、思った通りに動かない。ほんの少し強く踏み込むだけで、骨に嫌な音が走る。爪を振るう時に力を込めすぎれば、筋繊維が悲鳴を上げる。大悪魔としての感覚で動けば、この黒狼の体は簡単に壊れる。そのたびに回復魔法を使うことになるが、それもまた面倒だった。魔法を使えば、魂糸を通じてサクラに負担がかかる。俺の体なのに、俺だけの問題ではない。それがひどく厄介だった。
ステータスだけ見れば、今の俺でもそれなりには戦える。だが、実際は違う。力を出せば体が壊れる。魔法を使えばサクラに負担がいく。回復魔法で肉体を直せても、その回復魔法自体がまた負担になる。つまり、全力など出せない。実質的には、ステータスの半分程度。いや、戦い方によってはそれ以下だろう。中堅ハンターほどはあるか。その程度だ。大悪魔だった俺が、中堅程度。笑えない話だった。
そんなことを考えていた時だった。
「そこのアナタ!」
声がした。振り返ると、5人組のパーティーがこちらへ歩いてくる。女性が3人、男性が2人。その瞬間、サクラの体がわずかに強張った。無理もない。以前、ダンジョン内で男たちに襲われかけた記憶は、まだ消えていない。俺もすぐに相手を観察する。先頭に立っているのは、剣士の女性だった。髪をくるくると巻き、中世の貴族令嬢のような雰囲気を持っている。だが、ただのお嬢様ではない。立ち方、視線、腰の剣。戦い慣れている。
その女性を見た瞬間、俺の中で何かが跳ねた。懐かしい。いや、違う。これは、もっと深いところにある記憶だ。
「マリー?」
俺の声が漏れた。同時に、剣士の女性も目を見開いた。
「アシェル?」
2つの声が重なる。その場にいた全員が、一瞬止まった。周囲のハンターたちが、きょろきょろと辺りを見回す。
「マリー?」「誰のこと?」「今、黒狼が喋った?」
サクラも目を丸くしている。俺は、言葉を失っていた。アシェル。その名を、なぜこいつが知っている。
剣士の女性は、俺をじっと見つめたまま言った。
「今、この黒狼が喋りました? 私をマリーと?」
サクラはすぐに首を横に振った。
「ううん。黒狼は喋りませんよ」
嘘が下手なサクラにしては、よくやった。
「そうよね。黒狼は喋りませんものね」
女性は少しだけ困ったように笑った。
「では、誰がマリーと……気のせいかしら」
そして、自分の胸に手を当てる。
「私の名前は真里よ」
真里。マリーではない。だが、響きは近い。偶然か。それとも――。
「でも、不思議ね。私もこの子を見て、アシェルなんて呼んでしまったわ」
「アシェル…?」
サクラが小さく聞き返す。俺は影狼の体のまま、動けなかった。アシェル。その名は、マリーと過ごした世界で、俺が名乗った名前だった。
「その子の名前は?」
「クロです」
サクラが答える。
「そう。クロって言うのね」
真里は少しだけ膝を折り、俺と目線を合わせた。
「よろしくね、クロ」
その声は、なぜか耳に残った。マリーとは違う。顔も、声も、纏う空気も同じではない。それなのに、完全に無関係だとは思えない。
「なんだか、とても親近感が湧くわ。なぜかしら?」
真里は不思議そうに微笑んだ。俺は何も答えられない。いや、答えられない方がいい。ここでアシェルの名を出すわけにはいかない。
「あの〜、それで何かご用でした?」
サクラが少し遠慮がちに尋ねる。そこで真里は、ようやく本来の用件を思い出したようだった。
「そうそう。私たち、今から地上に戻るところだったの」
真里はサクラを見て続ける。
「そしたら、あなたを見つけてね。いくら5階層とはいえ、1人だと危険でしょう? よかったら、一緒にお話でもしながら地上に出ない?」
サクラは迷っていた。当然だ。ダンジョン内で知らないパーティーに声をかけられた経験は、もう良い思い出ではない。俺は真里たちを見る。敵意はない。少なくとも、今この場でサクラに害をなす気配はなかった。それに、俺自身が真里を無視できなかった。
「行っていい」
俺は念通話でサクラに伝える。サクラは小さく頷いた。
「ありがとうございます。では、ご一緒させてください」
こうして俺たちは、真里たちのパーティーと一緒に地上へ向かうことになった。
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