23. 世界を救いかけた翌日も、月曜日は来る
本日まで1日3話投稿、本日1話目です。
次は本日12時投稿です
【サクラ視点】
ダンジョン最下層から、私は無事に帰ってきた。いや、無事と言っていいのかは分からない。クロは以前のクロではなくなったし、私の影には大悪魔がいるし、S級ダンジョンを攻略したことも、迷宮核のことも、全部が普通ではない。それでも、私は生きて地上に戻ってきた。ダンジョン攻略は非公開。報酬についても、大部分は寄付することにした。手元に残したのは、生活に困らない程度のちょこっとだけ。パーティーメンバーも無事に脱出していた。それを聞いた時は、心からホッとした。……ただし。本当に大変なのは、ここからだった。今日は月曜日。そう、仕事の日である。
朝6時。目覚ましの音で、私はいつも通り起きた。昨日まで命の危機だったのに、目覚ましは容赦なく鳴る。世界を救うとか、S級ダンジョンを攻略するとか、そういう非日常があっても、月曜日の朝はちゃんと来るらしい。私は朝ご飯を作りながら、いつものようにクロの器も用意した。
ドッグフードを入れて、器を床に置く。
「クロ、おはよう! ご飯だよ〜」
すると、影の中から少し不機嫌そうな声が返ってきた。
「私は食事を必要としない。魔素があれば十分なのだが…」
そこで声が止まる。
「…あれ? お腹が空いている」
クロは影からぬるりと出てきた。黒い毛並み、鋭い目、どこから見ても以前のクロ。ただし、中身は千年以上生きた大悪魔である。その大悪魔は、床に置かれた器を見下ろして、しばらく黙った。
「…おい」
「なに?」
「これは犬の餌ではないか?」
「え? いつもクロはそれだよ?」
「私は大悪魔だぞ」
「でも体はクロだよ?」
「……」
クロは黙った。そして、器の中のドッグフードを見た。体は正直だった。どう見ても食べたがっている。
「……仕方ない。これはあくまで、器となった影狼の肉体を維持するためであって、私が犬の餌に屈したわけではない」
「はいはい」
クロは渋々一口食べた。そして、ぴたりと動きを止めた。
「…悪くない」
ちょっと嬉しそうだった。
朝食を終えると、私は身支度をして家を出た。クロは私の影の中に潜っている。見た目は普通の影なので、周りに気づかれることはない。通勤はバスで20分ほど。会社は広告代理店のようなことをしている。私は今年で3年目。仕事にも少しずつ慣れてきたし、後輩扱いされるだけの時期も過ぎた。
「おはようございます」
会社に入って挨拶すると、出社していた同僚たちが「おはよう」と返してくれる。
何も変わらない朝。普通のパソコン。普通のデスク。普通の上司。昨日まで、私は最下層でベヒーモスと迷宮核を見ていた。なのに今日は、メールチェックから始まる。
「サクラさん、今日帰りにご飯でもどう?」
声をかけてきたのは、藤堂悠真先輩だった。仕事はできる。見た目も爽やか。社内での評判も悪くない。ただ、最近少しだけ距離が近い。
「すみません。今夜は買い物とかしないといけなくて」
「じゃあ、手伝おうか?」
「いえいえ、大丈夫です!」
私は笑って断った。でも藤堂先輩は、すぐには引いてくれない。こういう時、会社の先輩という立場は少し厄介だ。強く断ると角が立つ。でも曖昧にすると、期待させてしまう。
「意外と諦めが悪いな」
影の中から、クロの声がした。
「ちょっと、余計なことしないでよ」
そう念じた直後だった。藤堂先輩の後ろの机から、書類の束がばさりと落ちた。
「あれ?」
藤堂先輩が振り返る。その隙に、私はすっと自分の席へ移動した。
「クロ…」
「人間社会では、こういうのを助け舟と言うのだろう?」
「助かったけど、やりすぎないでね」
「安心しろ。机を壊していないだけ、かなり配慮した」
配慮の基準が悪魔だった。
そこからの一日は、いつも通りだった。いつも通り、メールを確認する。いつも通り、急ぎの修正が入る。いつも通り、上司に確認を取り、いつも通り、お客さんに頭を下げる。昼休みはあった。ただし、半分は仕事で消えた。
「すみません、すぐ確認します」「申し訳ありません、修正して再送します」「はい、本日中に対応します」
そんな言葉を何度も口にしているうちに、気づけば定時になっていた。でも、帰れない。仕事はまだ残っている。誰かが悪いわけではない。ただ、帰れない空気がある。結局、会社を出たのは定時より2時間後だった。
会社を出た時には、外はもうすっかり暗くなっていた。昨日まで私は、ダンジョンで命を削っていた。今日は会社で、心を削っていた。
「人間は、なぜここまで自分を削って生きる?」
影の中からクロが言う。
「生活のためです」
「生活のために、生活を削るのか?」
「…そう言われると、ちょっと刺さる」
クロはしばらく黙ったあと、低くつぶやいた。
「迷宮より厄介だな」
私は否定できなかった。でも、そんな厄介な人間社会にも、救いはある。私は帰り道にあるコンビニへ入った。明るすぎる店内。聞き慣れた入店音。ずらっと並ぶお弁当とスイーツ。その中で、私の目は一直線にプリンへ向かった。
「今日は…プリンです」
「なぜ急に戦利品を選ぶ目になっている?」
「これは戦利品じゃありません。ご褒美です」
「ご褒美?」
「そう。会社員は、こうやって自分を回復させるんです」
私はプリンを手に取り、ついでにクロ用のおやつも買った。本当はクロにおやつが必要なのか分からない。でも、ドッグフードをおいしそうに食べていたし、たぶん大丈夫だと思う。家に帰って、私はスプーンでプリンを一口食べた。甘い。やわらかい。疲れた体に、じんわり染みる。
「…生き返る」
「大げさだな」
「大げさじゃないよ。今日の私は、これのために頑張ったと言ってもいいくらいです」
影から出てきたクロが、じっとプリンを見ている。
「食べる?」
「私は甘味など必要としない」
「じゃあ、いらない?」
「…味見程度なら、器の状態を確認するために必要だ」
私は少し笑って、スプーンの先にほんの少しだけプリンを乗せた。クロはそれを口に入れた。そして、動きが止まった。
「…悪くない」
朝のドッグフードと同じ反応だった。私は思わず笑ってしまう。昨日までの非日常は、まだ私の中に残っている。怖かったことも、失ったものも、抱えた秘密も、消えたわけじゃない。でも、月曜日は終わった。残業も終わった。そして今、私はプリンを食べている。それだけで、少しだけ大丈夫だと思えた。
「人間社会は厄介だ」
クロはぽつりと言った。
「だが、甘味は悪くない」
「でしょ?」
私はもう一口、プリンを食べた。ダンジョンでも会社でも、私はまだまだ弱い。でも、こうやって小さく回復しながら、明日もなんとか生きていくのだ。
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