111. 引っ越しは成功しました。でも、スマホが死にました
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街で美桜と若葉を見かけてから、数日が過ぎた。あの時は、かなり危なかった。若葉たちは、俺――いや、春日皐月の足取りを追っていた。しかも、サクラの家の近くまで迫っていた。だが、それ以降は直接見つかることもなかった。そして今日、引っ越しの日が来た。引っ越し日までの間、サクラは会社から帰ってくると荷造りをした。俺も家で片付けや掃除をした。人型になって段ボールを組み立て、荷物を詰める。黒狼の姿では、さすがに細かい作業に向いていない。部屋の中は、少しずつ段ボールだらけになっていった。サクラが暮らしていた部屋。俺が召喚されてから、ずっと戻ってきた場所。そこを離れることに、寂しさがないわけではない。だが、それ以上に俺たちは、あそこを離れたかった。
引っ越し業者の手際はよかった。次々に荷物が運び出され、部屋が空になっていく。そして、新しい部屋へ。場所は、サクラの会社を挟んで真反対だった。前の家からはかなり離れている。美桜と若葉が探していた範囲からも、ひとまず外れる。サクラは新しい部屋に入ると、小さく息を吐いた。
「やっと引っ越せた……」
『そうだな』
新しい部屋は、まだ段ボールだらけだった。生活感はない。けれど、悪くない。窓から入る光も、部屋の広さも、前より少しだけ落ち着いている気がした。何より、隣の部屋の茜にいつ遭遇するか怯えなくていい。それだけで、サクラの表情は少し明るかった。引っ越しの連絡は、落ち着いてからでいい。サクラはそう思っていた。会社への住所変更。電気、ガス、水道の手続き。荷ほどき。新しいゴミ出しルールの確認。それだけで頭がいっぱいだった。個人的な連絡は、週末にまとめて送ればいい。スマホの中には連絡先も残っている。そう思っていた。けれど、その週末は来なかった。
その日の午後。サクラは、引っ越しの段ボールを片づけていた。俺も人型になって、空になった箱を畳んでいく。
「これはキッチン。これは洗面所。これは……なんでここに冬服が入ってるの?」
サクラはぶつぶつ言いながら、荷物を分けていた。その時だった。テーブルの端に置いてあったスマホが、段ボールに押されて少しずれた。
「あ」
サクラが手を伸ばす。だが、間に合わなかった。スマホは床へ落ちた。パキッ。嫌な音がした。
「嘘でしょ!?」
画面にひびが入っている。それだけでも十分に地獄だった。しかし、地獄はそこで終わらなかった。跳ねたスマホが、床に置いてあったバケツの方へ飛ぶ。バケツには、掃除用の水が入っていた。ぽちゃん。
「ああああああ!」
サクラの悲鳴が部屋に響いた。俺も固まった。サクラは慌ててスマホを拾い上げる。だが、画面は暗いままだった。
すぐに修理店へ向かった。店員はスマホを確認し、申し訳なさそうな顔をした。
「基板まで駄目になっていますね」
その言葉で、サクラの肩が落ちた。新しい端末は、すぐに用意できた。今の時代はすごい。店に行けば、すぐ新しいスマホが手に入る。だが、問題はそこではなかった。データだ。復元されたデータは、半年以上前のものだった。クラウドの容量不足で、バックアップが止まっていたらしい。
「……嘘でしょ」
サクラは、新しいスマホの画面をじっと見つめていた。電話帳は、中途半端に戻っている。会社。家族。昔から登録していた番号。それらは残っていた。けれど、最近登録した番号は消えていた。そして何より、LIMEが空だった。サクラは、LIMEを電話番号で登録していなかったらしい。壊れたスマホに残っていた端末認証だけで使っていたため、アカウントの引き継ぎに失敗した。新しいスマホで入れ直したLIMEには、友達リストも、トーク履歴も、何も残っていなかった。俺には、その重さが最初はよく分からなかった。だが、サクラの顔を見て分かった。現代の人間関係は、あの小さな板の中に詰まっている。そして、それは思ったより簡単に消える。
サクラは、何度も画面を操作した。連絡先。LIME。メッセージ履歴。でも、探している名前は見つからない。引っ越し先を送るつもりだった相手。最近知り合った人。電話番号ではなく、LIMEだけでつながっていた人。その名前が、どこにもない。相手側の画面には、まだサクラの旧アカウントが残っているのかもしれない。けれど、そこへ送られたメッセージは、新しいスマホには届かない。既読もつかない。通知も鳴らない。壊れたスマホの中にだけ、サクラのLIMEは取り残されていた。
「……後回しにしただけだったのに」
サクラが小さく呟く。切るつもりなんて、なかった。ただ、引っ越しが落ち着いてから連絡しようと思っていただけだ。会社の手続き。電気、ガス、水道。荷ほどき。生活を整えることに追われて、個人的な連絡を後にした。それだけだった。けれど、それだけでつながりは切れた。
「……まあ、向こうから連絡が来たら、その時に言えばいいか」
サクラはそう自分に言い聞かせるように言った。だが、その相手もまた、サクラの新しい番号を知らない。俺は何も言えなかった。現代のつながりは、思ったより細い。糸のように。切れたことに気づいた時には、もう手繰れなくなっている。
ただ、新しいスマホ自体はすごかった。大きさは、前のものとそれほど変わらない。なのに、できることが明らかに増えている。サクラが写真を開くと、スマホの上に小さな立体映像が浮かび上がった。
「すごい! ホログラムだ!」
『なんだこれは』
俺は思わず身を乗り出した。小さな光の像が、空中に浮かんでいる。魔法ではない。たぶん、科学だ。だが、俺から見ればほとんど魔道具だった。
「クロ、こっち向いて!」
『ん?』
カシャ。サクラが俺の写真を撮る。すぐにスマホの上へ、黒狼の俺が小さく浮かび上がった。
「わっ、可愛い!」
『やめろ』
「もう一枚!」
『やめろと言っている』
カシャ。カシャ。カシャ。俺の立体映像が、スマホの上に浮く。サクラは楽しそうだ。さっきまで落ち込んでいた顔が、少しだけ明るくなる。なら、まあいいか。いや、よくない。撮りすぎだ。
さらに、ゲームもすごかった。画面の中にいるはずのキャラクターが、スマホの上に立体で浮かび上がる。サクラは目を輝かせた。
「すごい、これ! かわいい!」
『片付けはどうした』
「あと少しだけ」
『その言葉を信じていいのか?』
「たぶん」
信じられない。サクラはそのまま、立体で浮かぶ小さなキャラクターを操作し始めた。光のキャラクターが走る。飛ぶ。戦う。サクラは完全に夢中になっていた。新しいスマホは、確かにすごい。データは消えた。つながりも、いくつか途切れた。それでも、人間は新しい道具に少し救われるらしい。サクラの顔に、笑顔が戻っている。俺はそれを見ながら、畳みかけの段ボールへ目を向けた。まあ、片付けは後でもできる。たぶん。
その夜、新しい部屋には段ボールがまだいくつも残っていた。テーブルの上では、新しいスマホの光が揺れている。サクラは、立体ゲームに夢中になっていた。俺はその横で、少しだけ安心していた。スマホは壊れた。データも消えた。それでも、サクラが笑っている。なら、今日はそれでいい。そう思った。だが、消えたものは戻っていない。引っ越し先を送るつもりだった相手の名前は、もう画面の中にない。相手もまた、サクラの新しい番号を知らない。サクラはまだ、それを大きな問題だとは思っていなかった。向こうから連絡が来たら、その時に言えばいい。そう言っていた。だが、向こうから連絡が来る道も、すでに切れていた。新しいスマホは、未来の魔道具のように便利だった。でも、切れた糸までは結び直してくれなかった。
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