110. 探している人は、私の影の中にいる
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【サクラ視点】
ダンジョン帰りに、不動産屋さんへ行った。とにかく、早く引っ越したかった。お隣さんが悪い人というわけではない。むしろ、明るくて、面倒見も良さそうな人だった。でも、隣の部屋のバカップルとして認識された状態で、これから顔を合わせ続けるのはきつい。かなりきつい。だから、良さそうな物件を見つけた時点で、私はほぼ即決した。引っ越しが待ち遠しい。それまでは、なるべくお隣さんとは会わないようにしなくちゃ。生活のリズムが違うのか、今までは隣の人に会ったことはほとんどなかった。だから、たぶん大丈夫。そう思うことにした。今日の休みはダンジョン。……と思ったけれど、今日は買い物の日だ。スーパーにも行きたいし、薬局にも行かないといけない。ダンジョンより生活用品。非日常より洗剤。それが、私の日常だった。
外を見ると、雨が降っていた。あいにくの雨模様。でも、私は雨が嫌いではない。可愛い長靴を履けるし、お気に入りの傘も使える。雨の日は少し面倒だけど、ちゃんと準備をすると、それはそれで楽しい。
「クロ、待ってる?」
私が聞くと、影の中からクロの声が返ってきた。
『いや、留守番はあまり良いことがないから、ついていく……』
「この前のクレームが効いてるね」
『効いている』
少しだけ恨めしそうな声だった。私は笑ってしまう。
「そう。じゃあ、お昼は外で済ましちゃおっか」
『分かった』
私は傘を持ち、薬局へ向かった。雨粒が傘に当たって、ぱたぱたと音を立てる。こういう音は嫌いじゃない。少しだけ、気持ちが落ち着く。
まずは薬局で、洗剤や生活用品を買った。詰め替え用の洗剤。キッチンペーパー。歯磨き粉。ついでに、気になっていた入浴剤。袋が少し重くなる。そのままスーパーへ向かおうと歩いていた時だった。見慣れた二人を見つけた。美桜さんと、若葉さん。
「っ!」私は反射的に近くの建物の陰へ隠れた。自分でも、なぜ隠れたのか分からなかった。でも、体が勝手に動いた。
『サクラ?』
クロの声が、影の中から聞こえる。
『今のは……』
「美桜さんと若葉さん」
私は小声で答えた。二人は傘を差しながら、周囲を見回していた。何かを探している。そんな感じだった。声をかければいい。何をしているんですか、と聞けばいい。でも、できなかった。胸の奥がざわざわする。たぶん、二人が探しているものに、私は心当たりがある。
二人は、雨の中で何度も周囲を見ていた。建物の入口。道路沿いの店。電柱。交差点。まるで、何かの痕跡を探しているみたいだった。気になる。ものすごく気になる。でも、前に出る勇気は出なかった。
「何をしているんですか?」
そう聞いた瞬間、逆に聞き返される気がした。サクラちゃんはどうしてここにいるの。クロはどこにいるの。クロバさんのこと、何か知っているの。そう考えただけで、足が動かなくなる。その時、美桜さんと若葉さんが、あっちの方面へ歩き出した。私は周囲を見回す。遠回りすれば、二人の前に出られるかもしれない。よし。先回りして待ち伏せよう。
『おい、サクラ?』
クロの声が聞こえたけれど、私はもう走り出していた。雨の中、長靴で走る。少し滑りそうになりながら、遠回りして二人の進行方向へ回り込む。そして、ビルの前で立ち止まった。傘で顔を隠せば、大丈夫よね。たぶん。いや、大丈夫であってほしい。
少しして、美桜さんと若葉さんが近づいてきた。私は傘を少し深く下げる。顔を見られないように。心臓が、変にうるさい。二人は私の横を通り過ぎた。その時、会話が聞こえた。
「あのバス停から降りたとすれば……あそこのカメラに映ってるかも」
「お兄ちゃん、見つかりそうですね!」
「うむ」
お兄ちゃん。若葉さんのお兄ちゃん。皐月さん。私はその場で固まりそうになった。やっぱり。二人は皐月さんを探している。つまり、クロを探している。しかも、ここは私の家からかなり近い。あのバス停から降りた。カメラ。もしかして、クロが以前、一人で出かけた時のことを追っている?まずい。ここに長くいたら、私まで見つかるかもしれない。私は二人とは反対方向へ歩き出した。できるだけ自然に。でも、足は少し震えていた。
適度な距離を離れてから、私は人気の少ない道へ入った。そこで、影の中のクロに声をかける。
「クロさんや?」
『うん……』
返事が、すでに気まずそうだった。
「いつおばれになりましたの?」
『おばれ?』
「ばれたの、を無理やり丁寧に言ってみました」
『なるほど……』
「それで?」
少し沈黙があった。
『え〜っと、たぶんダンジョンへ行った時……かな?』
「あの、ハンター証がなくて入れなかった時?」
『そうだ』
「もしかして、そこで皐月さんって名乗った?」
影の中が、少し静かになった。
『……名乗った』
「それだぁ……」
私は額を押さえた。そりゃ追われる。若葉さんのお兄さんの名前で、しかも外見も似ている人が現れたら、追うに決まっている。そして、その足跡が私の家の近くまで来ている。かなりまずい。
「私の家が近いってバレたら……また尾行されるかしら」
『可能性はあるな』
「もう言っちゃうか?」
私は思わずそう言った。隠れ続けるのは、もう苦しい。美桜さんも若葉さんも、必死に探している。その相手が、ずっと私の影の中にいる。考えれば考えるほど、胸が痛くなる。でも、クロの返事はすぐだった。
『いや』
「クロ?」
『まだ、その時じゃない』
少しだけ声が弱い。
『勇気が……ない』
私は、何も言えなくなった。クロは強い。大悪魔で、影狼で、深淵王とも戦った。でも、美桜さんと若葉さんに向き合うことは、きっと戦いより難しい。
「はぁ〜。早く引っ越したい……」
『すまない……』
「ううん。クロだけが悪いわけじゃないよ」
そう言ったけれど、胸の重さは消えなかった。
それから私は、買い物の続きをした。スーパーに寄って、必要なものをかごに入れる。野菜。卵。肉。ヨーグルト。クロ用のお肉も少し。でも、いつもみたいに楽しくは選べなかった。何度も周囲を見てしまう。美桜さんと若葉さんが、また近くに現れるのではないか。そう思うと、落ち着かなかった。買い物を終えると、私はタクシーを呼んだ。歩いて帰るのは、少し怖かった。タクシーの後部座席に座り、窓の外を見る。雨粒が、ガラスを流れていく。その向こうで、美桜さんと若葉さんが傘を差して歩いていた姿を思い出す。雨の中、必死に何かを探していた。探しているのは、クロだ。皐月さんだ。そして私は、その人を知っている。私の影の中にいる。
「……ごめんなさい」
小さく呟いた。誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からない。美桜さんへ。若葉さんへ。それとも、クロへ。影の中のクロは、何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ静かだった。早く引っ越したい。そう思った。でも、場所を変えても、この隠し事から逃げられるわけではない。雨の音だけが、車内に小さく響いていた。
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