108. 人殺しの噂があるダンジョンで、隣人と連絡先交換しました
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今日は、近場にある初めてのダンジョンへ来ていた。俺は黒狼の姿で、サクラの少し前を歩く。久々のダンジョンだ。藤堂のこともあり、しばらくサクラはダンジョンへ行く気分ではなかった。だが、いつまでも止まっているわけにはいかない。
「今日はどんな感じにする?」
サクラが俺に聞く。
『そうだな。今日はサクラの好きなように』
「そう? じゃあ、ちょっと運動がてら頑張ろっか!」
『分かった』
そう言って、俺たちはダンジョン入口へ向かった。その前に、サクラは掲示板に目を通す。まじめだな。まあ、まじめなのは良いことだ。
「なになに。パーティーメンバー募集、素材の買取、モンスター肉の採集……どこも変わらないか」
サクラは紙を一枚ずつ見ていく。そして、最後の掲示で少し表情を曇らせた。
「え〜っと……二週間前にダンジョン内で人殺しがあった……本当、嫌だな」
人殺し。ダンジョンでは珍しい話ではない。だが、慣れていい話でもない。俺は掲示を一瞥し、周囲の気配を探った。特に不審なものはない。少なくとも、今のところは。
「じゃあ、行こっか」
サクラがそう言い、俺たちは入口へ向かった。
入口へ歩いている途中、サクラに声がかかった。
「あの〜、すみません。落としましたよ」
「ウヲゥッ!」
変な声が出た。一応、狼の鳴き声に聞こえなくもない。たぶん。
「どうしたの?」
サクラが驚いた顔で俺を見る。だが、俺は声をかけてきた女性を見て固まっていた。昨日、クレームを言いに来た隣人だ。
「あ、ありがとうございます!」
サクラは慌てて、落とし物を受け取って頭を下げる。
「いえいえ。では〜」
女性は軽い調子で手を振り、先へ歩いていった。サクラは首を傾げる。
「どうしたの?」
『昨日、クレームを言いに来た、お隣さんだ……』
「マジか!」
俺はこくりと頷いた。
「きまず〜」
そうだな。かなり気まずい。
「もうクロ、お隣さんに迷惑かけないでよ〜」
『俺が悪いのか……?』
「あの子もソロなのかな〜。まあいいや、入りましょう」
サクラは切り替えが早い。俺はしばらく、隣人の背中を見ていた。トレーニングに集中できないと言っていた女が、ダンジョンにいる。なるほど。あれは普通のトレーニングではなかったのかもしれない。
ダンジョンに潜って、三時間ほどが過ぎた。サクラは無理をしていない。だが、運動がてらとは言っても、ダンジョンはダンジョンだ。スライム。コボルト。小型の魔物。一つ一つ確認しながら進めば、どうしても時間はかかる。予定では、セーフエリアまで行くつもりだった。しかし、どうやら少し遅い。
「ここで休憩したら上がろうか? ちょうど良い運動になったわ」
『了解した』
無理をしない判断は正しい。特に、今日は掲示板に人殺しの注意が出ていた。疲れた状態で奥へ進む必要はない。サクラは壁際に腰を下ろし、軽い食事を取り始めた。俺は周囲の気配を探りながら、その近くに伏せる。しばらくして、足音が近づいてきた。二人。男女だ。
「あれ? さっきのお姉さん!」
近づいてきた女性が、サクラを見て笑った。
「あ〜、落とし物拾ってくれた!」
サクラも気づいたようだ。俺は少しだけ体を固くする。隣人だ。昨日のクレームの隣人だ。
「私、茜です。ヨロシク! こっちが雄介」
茜は明るく手を差し出した。隣の男は、短く「ヨロシク」とだけ言った。無口というより、余計なことを言わないタイプに見える。
「私、サクラです。こちらが召喚獣のクロです。ヨロシクお願いします!」
サクラが少し丁寧に頭を下げる。茜はすぐに手を振った。
「そんなそんな、かしこまらないでいいよ! 同年代ぐらいじゃない?」
「えっと……私は二十歳で、ハンター歴は二年です」
「ほら! 私、二十一歳。ハンター歴は二年。ほぼタメだし、ハンター歴も同じだから、気軽にいこ」
「は、はい……」
サクラは押されている。ぐいぐい来る人間に弱いな、こいつは。
「もう上がる感じですか?」
茜が聞いてくる。
「少し休憩したら上がろうかと思ってたところなの」
「そっか。少し一緒に休憩してもいいですか?」
「うん、いいけど、本当にもう上がるけど大丈夫?」
「大丈夫大丈夫!」
茜は明るく笑ってから、少し声を落とした。
「実はね、このダンジョン、二週間前に人殺しがあったって」
「あ! 掲示板にあったね」
「そう。どうやら、その犯人っぽいのがまだ出てきてないらしいのよ」
「え? そうなの?」
サクラの顔が強ばる。
「入る時、そこまで厳重じゃないから、大したことないと思ってた」
「私も詳しくは分からないけど、入口より出口、出る人を警戒してるって聞いたわ」
なるほど。
入る者ではなく、出る者を見る。犯人がまだ中にいる可能性を考えているのか。
「だから、なるべく人がいたら一緒に休憩するようにって、こいつが」
茜が隣の男を親指で指す。雄介は黙ったまま、軽く肩をすくめた。俺は周囲の気配を探った。今のところ、近くに妙な気配はない。だが、このダンジョンは思ったより安全ではないのかもしれない。
「こいつって、先輩とか師匠みたいな感じですか?」
サクラが雄介を見ながら聞いた。茜は一瞬ぽかんとして、それから大きく首を振る。
「いや、私の兄です!」
「あ! お兄さんだったんですね。彼氏さんかと思いました!」
「なんでこんなのが!」
茜はそう言って、雄介の腕をガシガシ叩いた。雄介は特に反応しない。慣れているのだろう。この女、兄に対してきついな。まあ、どこの兄妹もこんなものか。若葉もそうだった……かな。忘れた。
「お前はまだまだ修行が足りないからな」
雄介が静かに言う。
「私なりに鍛えて、トレーニングして頑張ってるっつ〜の!」
茜はむっとして言い返した。それなりには鍛えている。体の使い方も悪くない。口は軽いが、努力はしているようだ。その時、茜が「あ」と声を上げた。
「カップルとトレーニングで思い出した!」
俺は嫌な予感がした。サクラも、少しだけ固まる。
「先日ね、隣の部屋で、私のトレーニング中にバカップルが騒いでいやがったの!」
まずい。
「あれはマジむかついた! 壁バンバン叩いてやったわ」
「へ、へぇ〜」
サクラの声がひきつっている。
「でも、次の日になっても怒りが収まらないから、クレーム言いに行ったの」
「そ、そうなんだ……」
「そしたら、すっごいイケメンが出てきたの! イケメンに謝られたら強く出られないよね」
「そ、そうだね……」
サクラの笑顔が死んでいた。俺も目を逸らした。この時、サクラは引っ越しを決意した。後に、本人はそう語ることになる。
「それじゃ〜、私たちは上がるね〜」
サクラが立ち上がる。すると、茜がぱっと顔を上げた。
「そうだ。連絡先交換しよう!」
「う、うん。そうだね」
「まだまだ遠慮してるね〜」
茜は笑いながらスマホを出す。サクラも少し戸惑いながらスマホを取り出した。連絡先交換はすぐに終わった。雄介はその間、黙って周囲を見ている。警戒を解いていない。あの男は、妹よりずっと慎重なようだ。
「じゃあ、またね。サクラ」
「うん。またね、茜さん」
「さん付けいらないって!」
茜は手を振り、雄介と一緒に奥へ向かった。俺たちは出口の方へ歩き出す。
「ぐいぐい来る人ばっか集まるな〜」
『お前はそういう星の元に生まれたのかもな』
「はぁ〜」
サクラは深いため息をついた。
「でも、人殺しが出たって、気をつけなきゃね」
『あいつらがそうだったりしてな』
「もう! 冗談でもそんなこと言わない!」
『悪かった悪かった』
俺は軽く謝った。本気で疑っているわけではない。茜は軽いが、裏はなさそうに見える。雄介は無口だが、妹を警戒させるために動いていた。少なくとも、今のところ敵意はなかった。俺たちは出口へ向かう。そして、近づくにつれて分かった。視線がある。一つではない。何人かが、出てくるハンターを観察している。なるほど。入る者ではなく、出る者を警戒しているという話は本当らしい。犯人を探しているのか。それとも、犯人の予想がついているのか。分からないことだらけだ。サクラは、まったく気づいていない様子だった。それでいい。もし気づいていたら、きょどって、逆に不審者に見えそうだ。これはこれで良かった。
ダンジョンを出た。外の空気は、少しだけ冷たかった。俺は念話でサクラに話しかける。
『このまま真っ直ぐ帰るのか?』
「う〜ん」
サクラは少しだけ考えた。そして、真顔で言う。
「まずは不動産屋さんね」
『不動産屋?』
「うん。引っ越すの!」
『そうだな……』
俺は否定しなかった。茜が悪い人間だとは思わない。むしろ、明るくて面倒見も良さそうだ。だが、隣のバカップルとして認識されている状態で、これから顔を合わせ続けるのは、かなりきつい。サクラの耳が赤い。俺は目を逸らした。久々のダンジョンは、運動としては悪くなかった。新しい知り合いもできた。そして、引っ越し先を探すことになった。どうしてこうなる。だが、サクラらしいと言えば、サクラらしい。俺たちはダンジョンを後にした。人殺しの不穏な噂と、引っ越しという現実的な問題を抱えながら。
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