106. 大悪魔なのに、サクラに頭が上がらない気がします
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昨夜は、サクラにとてもひどい目にあった。口を左右に引っ張られた。首を締められた。電話をかけさせられた。そして、浮気者と泣かれた。浮気などしていない。断じてしていない。ただ、堀というギルド職員から連絡先をもらっただけだ。それがなぜ、あそこまでの騒ぎになるのか。だが、最後には誕生日プレゼントを渡せた。サクラは泣きながら謝っていた。怒ったり、泣いたり、笑ったり。忙しい女だ。そして、意外と怖い。……あれ?もしかして俺は、サクラに頭が上がらないのではないか?大悪魔なのに?契約者に尻に敷かれているのか?なんじゃそりゃ。そんなことを考えながら、俺は布団のそばへ寄った。
「サクラ。起きろ。朝だぞ」
「……う〜ん。もうちょっと……だけ……」
サクラは布団の中で丸くなる。起きる気配がない。最近、普通に起こしても効果が薄い。だが、効果のある方法は分かっている。俺は少し息を吸った。
「あ、マリー!」
「真里さん来たの!?」
サクラが、がばっと起き上がった。速い。実に速い。眠気とは何だったのか。
「いや、来てないぞ」
サクラの顔が、すっと無表情になる。そして、俺の頬を両手で掴んだ。
「嘘はいけません!」
「いひゃい、いひゃい。起こすために仕方なくだ……」
「仕方なくてもダメです!」
そう言いながらも、サクラは布団から出た。作戦としては成功だ。代償として、頬が少し伸びた気がする。サクラは着替え、身だしなみを整え、朝の準備を済ませる。昨夜あれだけ騒いでも、朝になれば会社へ行く。本当に、サクラは会社員だ。
「行ってきます。留守番お願いね」
「分かった。行ってらっしゃい」
俺は玄関でサクラを見送った。
サクラを見送って、しばらくしてからだった。ピンポーン。呼び鈴が鳴った。俺は一瞬、動きを止める。来客。サクラはいない。俺は黒狼のままでは出られない。仕方なく人型になり、そっとドアの覗き窓から外を見た。そこにいたのは、見知らぬ女性だった。若い。サクラと同年代くらいだろうか。だが、俺には分からない相手だ。サクラの知り合いかもしれない。ただの勧誘かもしれない。あるいは、何かの調査かもしれない。こういう時は出ない方がいい。事前にサクラとも決めてある。知らない相手には、できるだけ出ない。俺は無視した。それから三十分後。また同じ女性が来た。平日の朝から、なんて奴だ。俺は再び無視した。これで諦めただろう。そう思った。だが、昼になって、また来た。しつこい。さすがに何か用があるらしい。俺はため息をつき、サクラと決めていた設定を頭の中で確認した。よし。出るか。
「はーい、どちら様でしょうか?」
できるだけ自然な声で出た。女性は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに眉を寄せる。
「すみません。隣の者ですが……」
「お隣さん?」
隣人か。なら、無視し続けたのは少しまずかったかもしれない。
「すみません。最近うるさくて……」
「うるさい?」
「とくに昨夜がひどくて、トレーニングに集中できません!」
昨夜。俺はすぐに思い出した。サクラが泣き、叫び、俺の口を引っ張り、電話をかけさせ、部屋の中で追いかけ回した夜だ。あれは、確かにうるさかった。というか、俺は被害者では?そう思ったが、口には出せない。
「あ!申し訳ない。すみません!」
俺は頭を下げた。
「これからは気をつけてください!」
「はい。本当にすみません」
女性はそれだけ言うと、きびきびと帰っていった。まじで気まずい。それにしても、トレーニングとは何だ。隣人は何者なんだ。このマンション、普通の人間ばかりではないのかもしれない。
「ただいま〜」
夕方、サクラが帰ってきた。
「おかえり。聞いてくれ!」
「どしたの?」
「お隣さんからクレームが入りました!」
サクラの動きが止まる。
「クレーム? どんな?」
「最近うるさい、と。特に昨夜がひどいと」
「あ!」
サクラは手を叩いた。
「壁バン来てたって言ってたもんね!」
「そうだ」
「気をつけてね、クロ」
そう言って、サクラは着替えに向かった。
「俺?」
俺はその場に取り残された。俺なのか?昨夜、泣いて叫んでいたのはサクラだ。俺の口を引っ張っていたのもサクラだ。首を締めたのもサクラだ。だが、注意されるのは俺なのか。解せぬ。しかし、追及するとまた何か起きそうなので黙っておいた。やはり俺は、サクラに頭が上がらないのかもしれない。
仕事着から部屋着に着替えたサクラが戻ってきた。手には、買ってきた弁当の袋。
「さて、ご飯にしますか!」
「今日は買ってきたんだったな」
「うん。明日は久々のダンジョンに行くから、少し豪華な弁当買ってきたんだ!」
最近、俺が家にいる時は、俺がご飯を作ることが多い。だが今日は、サクラから「買って帰るから用意はいらない」と言われていた。そうか。明日の景気づけか。藤堂のことがあって、しばらくダンジョンへ行く気分ではなかったサクラが、また少し前を向こうとしている。それなら、この弁当にも意味がある。サクラはテーブルに弁当を広げた。いつものコンビニ弁当より、少し豪華。蓋を開けると、良い匂いが広がる。サクラの表情が、ぱっと明るくなった。
「これ、前から食べたかったんだよね〜」
サクラは嬉しそうに箸を持った。一口食べる。そして、目を細めた。
「うまぁ〜。幸せ〜」
本当に幸せそうな顔だった。俺はその顔を見て、少しだけ黙る。サクラは食べ物でよく幸せそうになる。焼き肉でも、カレーでも、スイーツでも、弁当でも。そのたびに思う。見ているだけで、こちらまで少し満たされるものだな、と。昨夜はひどい目にあった。今朝も顔を引っ張られた。昼には隣人からクレームを受けた。しかも、なぜか俺が気をつけることになった。解せぬ。だが、サクラがうまそうに弁当を食べている。それなら、まあいいか。明日は久々のダンジョンだ。普通ではない週末が、また戻ってくる。俺はサクラの向かいで、その幸せそうな顔を眺めていた。
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