103. お兄ちゃんかもしれない人から、忘れてくれと言われました
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【若葉視点】
今日は、田舎のダンジョンまで足を運んできた。普段なら、こんな場所まで一人で来ることはあまりない。でも、来ずにはいられなかった。同僚の紗奈が、兄と同じ名前の人を見かけたと言ったからだ。皐月。春日皐月。私のお兄ちゃんと同じ名前。それだけなら、偶然かもしれない。同じ名前の人くらい、きっとどこかにいる。そう思おうとした。
も、できなかった。藁にもすがる思いだった。美桜さんは、ちょうど別のダンジョンに潜っている。だから私は、メッセージだけを残して、一人でここへ来た。紗奈には外見も聞いた。でも、十年も経っている。髪型も、雰囲気も、顔つきも変わっていておかしくない。だから、確かめるしかない。ハンターギルドの監視カメラを。
「ほら、この人よ」
紗奈が画面を指差した。そこには、一人の男性が映っていた。私服。武器も防具もない。ダンジョン前にいるには、少し不自然な格好。けれど、私はそんなことをほとんど見ていなかった。顔。目元。立ち方。ほんの少し首を傾げる仕草。十年。十年も経っている。変わっていて当然。違って見えてもおかしくない。それでも。画面を見た瞬間、胸の奥が強く掴まれた。
「……お兄ちゃん」
声が、勝手にこぼれた。紗奈が隣で目を丸くする。
「え、本当に若葉のお兄さんなの?」
私は答えられなかった。画面から目が離せなかった。そこにいたのは、間違いなく私のお兄ちゃんに見えた。
「紗奈」
私は画面を見たまま聞いた。
「この人と、どんな会話をしたの?」
「え〜っと、そんな私服や武器もなく潜るんですか? って」
「それで?」
「そしたら、自分は強いんで! って言うから、じゃあハンター証を見せてって」
「それで?」
「そしたら、ないって」
「ない?」
思わず聞き返した。
「うん。ハンター証も持ってないし、取得もしてないって」
おかしい。お兄ちゃんなら、ハンター証を持っているはずだ。だって、お兄ちゃんはハンターだった。高校を卒業して、ハンターになって、ダンジョンに潜っていた。だから、ハンター証を持っていないはずがない。でも、画面に映っている人は、お兄ちゃんに見える。
「なら潜ったこともないんだから、強いはずないよね〜って言ったら、しょんぼりしてたわ」
紗奈は少し笑った。私は笑えなかった。似ている。でも、おかしい。お兄ちゃんのはずなのに、お兄ちゃんではないみたいだった。
「それで?」
「それで、ハンター証を作るように言って、本部の講習を勧めておいたわ。それと…」
「それと?」
「名前を聞いたり、私の連絡先を渡したわ」
「この人の連絡先は聞いた?」
「そんな、聞けるわけないじゃん!」
「そう…」
胸の奥が、すっと冷えた。目の前に手がかりがあった。でも、掴めなかった。私はスマホを取り出し、監視カメラに映っている男性の写真を撮った。すぐに美桜さんへ送る。
「ちょっと、それって盗撮じゃない?」
紗奈が困った顔をする。
「いいんだよ。たぶんお兄ちゃんだし!」
「え? 若葉のお兄さんなの?」
「たぶん…」
たぶん。その言葉が、こんなに苦しいとは思わなかった。
「たぶん…?ちょっと紹介してよ〜」
「実は今、音信不通で、どこにいるかわからないのよ…」
「え?なにそれ深刻なの?」
「そう、だからもし連絡があったら、絶対教えて。もしまた会ったら、連絡先もしっかり聞いておいてね」
「分かったわ」
「そうだわ」
紗奈が思い出したように言った。
「彼、あのバスで帰っていったわ」
「本当!?」
それはすごい情報だった。私はすぐにバスの路線図を確認した。けれど、すぐに現実を突きつけられる。そのバスは、途中でいくつもの停留所を通る。終点まで行ったとは限らない。途中で別のバスや電車に乗り換えた可能性もある。それに、名前が本名かも分からない。皐月。監視カメラの画像。帰りに乗ったバス。手がかりはある。あるのに、足りない。それが、こんなにも苦しい。
「ありがとう、紗奈」
私はそう言って、ダンジョンを後にした。できることは、もうなかった。
二日が過ぎた。私は、何度もスマホの写真を見た。監視カメラに映っていた男性。少し粗い画像。それでも、そこにいる人はお兄ちゃんに見えた。
「お兄ちゃん…」
声に出すと、胸が痛くなる。美桜さんからの連絡は、まだない。紗奈からもない。きっと、皐月さんから連絡は入っていないのだろう。そう思う。でも、スマホが震えるたびに期待してしまう。違うと分かっていても、画面を見る。期待してはいけない。期待したい。その二つが、胸の中でずっと喧嘩している。希望を見たのに、何も掴めない。それは、見なかった時よりも苦しかった。
さらに二日が過ぎた。ブーッ、ブーッ。スマホが震えた。画面を見る。紗奈からだった。心臓が跳ねる。もしかして。いや、期待してはいけない。どうせ別の用件だ。そう自分に言い聞かせて、私は電話に出た。
「もしもし」
『若葉!』
紗奈の声が、いつもより慌てている。
『皐月さんから電話がかかってきたわ!』
「えっ!」
思わず立ち上がった。
「嘘!」
信じていなかった。本当は、もう連絡なんて来ないと思っていた。だからこそ、その言葉は私の頭を真っ白にした。
「何だって? 何を話したの?」
『もう俺のことは忘れてくれって!』
「え?」
意味が分からなかった。忘れてくれ?誰が?誰に?
「ちょっと待って。最初から詳しく教えて。連絡先は分かったの?」
『ちょ、ちょっと待って。順番に話すから』
「ごめん…」
私はスマホを握りしめる。
『まず、非通知で電話がかかってきたの』
「非通知?」
『普段なら出ないんだけど、なんとなく直感が出ろって言うから出たの』
「うん、それで」
『なんか、息切れしてたから、最初は変態かと思ったの』
「息切れ?」
『分かんないわよ。でも、すぐに皐月ですって名乗って』
私は息を止めた。
『それで、俺には…結ばれている人がいる。だから、俺のことは忘れてくれって』
「……」
『それだけ言って、切られたわ』
私は、しばらく声が出なかった。皐月。非通知。息切れ。結ばれている人。忘れてくれ。何ひとつ、意味が分からない。
「本当、何それ?」
私の声が震える。
「結ばれている人って何? もしかして束縛? いや、監禁されてるんじゃない?」
『え、監禁?』
「女に言わされたとか」
『う〜ん…』
紗奈も少し考える声になった。
『なんか、怯えてたっぽい感じではあったわね』
「怯えてた?」
『彼女の前で電話かけさせられた、とか?』
「そんな…」
頭の中で、嫌な想像ばかりが膨らんでいく。お兄ちゃんは生きているのかもしれない。でも、自由ではないのかもしれない。誰かに縛られているのかもしれない。それとも、まったく違う何かなのか。
「本当に、どういうこと…?」
スマホを握る手に、力が入る。希望は戻ってきた。でもそれは、安心ではなかった。もっと深い不安の形をしていた。
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